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大川俊隆:关于张家山汉简《算数书》的文字、用语04

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大川俊隆:关于张家山汉简《算数书》的文字、用语04 51 Ⅶ、「袤」字について    一  「袤」字は従前、「長さ」とか「たて」の義とされてきた。しかし、「長」字や「從」(縱) 字との義的差異に関しては、この字が後にあまり用いられなくなったことと相俟って、ま だよく解明されていない。  例えば、『説文』巻八上衣部には、 1)袤、衣帶以上。从衣矛聲。一曰、南北曰袤、東西曰廣。 、籀文袤从楙。 と云う。「衣帶以上」とは、恐らく「衣の帯より上の部分」という意であろう。しかし、 その本当に意味するところは明確でない注1。「从衣矛聲」とは、この文字を形声字とする 説...
大川俊隆:关于张家山汉简《算数书》的文字、用语04
51 Ⅶ、「袤」字について    一  「袤」字は従前、「長さ」とか「たて」の義とされてきた。しかし、「長」字や「從」(縱) 字との義的差異に関しては、この字が後にあまり用いられなくなったことと相俟って、ま だよく解明されていない。  例えば、『説文』巻八上衣部には、 1)袤、衣帶以上。从衣矛聲。一曰、南北曰袤、東西曰廣。 、籀文袤从楙。 と云う。「衣帶以上」とは、恐らく「衣の帯より上の部分」という意であろう。しかし、 その本当に意味するところは明確でない注1。「从衣矛聲」とは、この文字を形声字とする 説解であるが、これも確証はない。また、「一曰」以下の、「南北を袤と曰い、東西を廣と 曰いう」という説解も分かりにくいが、恐らく、「袤」は「廣」と併せて用いられ、「廣袤」 という語で、面積を意味することを述べているのであろう(これについては後述する)。 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4) 大 川 俊 隆  On the Characters & Technical Terms in “Suanshu-shu”of the Zhangjiashan Slips of the Han dynasty, Vol. 4 OHKAWA Toshitaka  平成21年 6月30日 原稿受理 大阪産業大学 教養部 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 52 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 『小爾雅』広言には、 2)袤、縱・長也。 とあり、王煦はこれに注して注2、『説文』の「袤」字の説解を引いた後、  地東西爲緯、南北爲經、緯爲廣、經爲袤、與布帛同義、故凡言地之長皆曰袤。 と云うが、ほとんど注解の体を為していない。  『広雅』釈詁に、 3)袤、長也。 とあるのに対して、王念孫注3は、『小爾雅』と『説文』の「南北曰袤、東西曰廣」を引いた後、    案、對文則横長謂之廣、從長謂之袤。『墨子』備城門「廣九尺、袤十二尺注4」、是也。 散文則横長亦謂之袤、周長亦謂之袤。『史記』蒙恬傳云「起臨洮至遼東、延袤餘萬里」、『漢 書』揚雄傳云「周袤數百里」、是也。 と云う。王氏常用の「対文」と「散文」の方をもって、「袤」の義を「廣」と対する時は「從長」、 独自に用いられる時は、「袤」は「横長」「周長」の義となるとする。しかし、「袤」と「從」 (即ち「縱」)は義として違いはないのか、あるとすれば那辺にあるのか等についての言及 はない。  古代における近義語を解説した書に、王鳳陽の『古辞弁』注5がある。その中の「縱、横、 廣、袤」を解説した部分を訳しておく。     「廣」と「擴」「横」は同源、「狭」とは反義詞で、指す義は「寛闊」で、横方向へ 拡大すること。…    「袤」は、『広雅』釈詁に「長也」とあり、それが指すのは,縦方向への延伸である。    『史記』蒙恬伝「…築長城、因地形用險制塞、起臨洮至遼東、延袤餘萬里」、『宋史』 種諤伝「横山延袤千里、多馬宜稼、人物勁悍善戰」。「袤」は前へ伸展することで、故 に常に「延」と結合して用いられる。     「廣」「袤」は「縱」「横」と同様相対的な方向概念で、特定の方向性はない。『漢書』 西域伝「蒲昌海、一名鹽澤。去玉門・陽關三百里、廣袤三百里。其水亭居、冬夏不增減」、 又賈捐之伝「元封元年、立儋耳・珠厓郡、皆在南方海中洲居、廣袤可千里、合十六縣」。 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 53 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) 「廣袤」は寛度と長度に相当するが、決して特定の方向を指さない。『説文』「袤、衣 帶以上(この義は典籍には見えない)。一曰、南北曰袤、東西曰廣」。南北を「袤」と 称し、東西を「廣」と称しているが、これはまさしく「縱」「横」より推延したもの。「縱」 は直線方向へ伸びること。この点においては、「袤」が長度を指すのと類似している。 「横」は左右に伸びること。これは「廣」と近似するところがあり、かつ語源上の淵 源関係がある。まさにこれ故に、人々は、戦国時代という特定の歴史条件の下で形成 された「縱横」と方位の連関を「廣」「袤」にまで拡大し、その結果「南北を袤と曰 い、東西を廣と曰う」観念を造りだしたのである。その実、「廣」と「袤」とはただ寛・ 長をすだけで、方位は表さない。まさに現代の「長」「寛」が方向を表さないのと 同様である。  王氏の論は、王念孫の「廣」「袤」を「合従連衡」と結びつける説を批判したもので、 それ自体は正しいのであるが、「南北曰袤、東西曰廣」という説解が「縱横」の方向性か ら造り出された観念だというのは、ただちに従うことはできない。しかし、この中で、「「袤」 は前へ伸展すること」や「「廣袤」は寛度と長度に相当するが、決して特定の方向を指さ ない」という指摘は注目しておかねばならない。本当に特定の方向性は指さないのであろ うか。  ところで、清朝考証学者が見ることができなかった出土文字資料、秦簡や張家漢簡『算 数書』や漢代の出土文字資料の中に、この「袤」字がしばしば用いられているのである。 これらを検討することによって、今まで不明であった「袤」字の用義や「從」字や「長」 字との義的差異がある程度見えてくる可能性がある。    二  張家山漢簡『算数書』の中では、「袤」字は次の 4算題中に見える注6。 4) 除。美(羨)除、其定、方丈、高丈二尺。其除、廣丈、袤三丈六尺、其一旁毋高。積 三千三百六十尺。朮(術)曰、廣積…廣・袤乘之即定。(簡141-142) 5) 斬(塹)都(堵)。斬(塹)都(堵)下厚四尺、上厚二尺、高五尺、袤二丈。責(積)百卅(三十) 三尺少半尺。朮(術)曰、倍上厚、以下厚增之、以高及袤乘之、六成一。(簡143) 6) 芻。芻童及方闕。下廣丈五尺、袤三丈、上廣二丈、袤四丈、高丈五尺。積九千二百五十尺。 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 54 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 朮(術)曰、上廣袤、下廣袤各自乘、有(又)上袤從下袤以乘上廣、下袤從上袤以乘下廣、 皆幷、乘之、六成一。(簡144-145) 7) 繒幅。繒幅廣廿(二十)二寸、袤十寸、賈(價)廿三錢。今欲買從利廣三寸、袤六十寸。 問、積寸及賈(價)錢各幾何。曰、八寸十一分寸二。賈(價)十八錢十一分錢九。朮(術) 曰、以廿(二十)二寸爲法。以廣從(縱)相乘爲實。=(實)如法得一寸。亦以一尺寸數爲 法。以所得寸數乘一尺賈(價)錢數爲實。=(實)如法得一錢。(簡61-63)  これらの中、 4)と 5)と 6)が、立体の体積を問う問題である。各々の立体において、 各々の一辺を表す「高」や「廣」「下厚」「上厚」「上廣」「下厚」という語とともに、「袤」 が用いられている。   4)の「除」という立方体においては、「袤」は、除と呼ばれる、直方体を斜めに切っ た四角錐の一辺である。即ち、「廣」と「高」で構成される面に対して直角になるような 一辺の意である。   5)の「塹堵」という立体においては、「袤」は「下厚」と「上厚」と「高」によって 形成される面に直角になるような一辺である。   6)の「芻童」という立体においては、「下廣」と「下袤」、「上廣」「上袤」そして「高」 がある、上部が下部より大きい、倒立した四角錐台である。「下袤」と「上袤」はその下 面と上面の一辺を表している。  では、それぞれの立体において、どの一辺が「廣」で、どの一辺が「高」で、どの一辺 が「厚」で、どの一辺が「袤」だと決定する要素はなになのかということを考えてみよう。  これにヒントを与えてくれるのが、6)の立体である。この立体には、算題のすぐ後に「芻 童」及び「方闕」という二つの名が見える。「芻童」と「方闕」の違いは那辺にあるのか。  前者は、『九章算術』商功章にその名が見えるだけで、他の文献にも見えず、その命名 の由来や用途はよくわからない注7が、「方闕」は、四角い石闕の意で、これは漢代の石闕 として実物が多く残存する。石闕は、祠廟や墳墓の神道の前に建てられる門闕のことで、 陳明達「漢代的石闕」や『四川漢代石闕』注8には現代まで残存する漢代石闕が収集・著 録されている。これらによれば、石闕は、基本的に下から台基・闕身・楼部・頂蓋と四つ の部分から成る。直方体の石柱(即ち闕身)の上に載せられる楼部が大体、倒立四角錐の 形状をしていて、これが石闕の形を最も特徴づけるものなので、これより「方闕」の名で 算数用語として倒立四角錐台を表すようになったのであろう。  さて、これらの論文や書に収録されている石闕の楼部の測定図を見ると、正面から神道 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 55 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) の方を見て、例外なく正面幅の長さが奥行き幅の長さより長いのである。即ち、 6)で用い られる名称をもって言えば、「上廣」が「上袤」より、「下廣」が「下袤」より長いのである。   6)の算題の立体の数字は、「下廣」が 1丈 5尺で「(下) 袤」が 3丈、「上廣」が 2丈で「(上) 袤」が 4丈である(図 1)から、「方闕」とは、「廣」と「袤」の長さが丁度逆になっている。 即ち、 6)が表す倒立四角錐台は、算題のすぐ後に見える「芻童」を表していることにな ろう。(この算題の名称は「芻」とある。恐らく「芻童」の略であろう)。  先述したように、『九章算術』商功章に「芻童」の名が見え、 8)今有芻童、下廣二丈、袤三丈、上廣三丈、袤四丈、高三丈。問、積幾何。 とある。『九章』の「芻童」も、「下廣」が 2丈で「(下) 袤」が 3丈、「上廣」が 3丈で「(上) 袤」が 4丈、「高」 3丈で、「下廣」が「(下) 袤」より短く、「上廣」が「(上)袤」より短い。 これは、 6)と同じである。これによって、「芻童」とは、正面から見て正面幅が奥行き より短い倒立四角錐台を指すことが知られるのである(図 1)。だとすれば、6)の「方闕」 とは、漢代の実物がまさにそうなっているように、ちょうど「芻童」とは逆に、正面から 見て正面幅が奥行きより長い倒立四角台を指すことになる(図 2)。 上袤4丈 下袤3丈 下廣1丈5尺 上廣2丈 高1丈5尺 図1 芻童 上廣 下廣 上袤 下袤 高 図2 方闕 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 56 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7  現代の我々から見れば、「芻童」と「方闕」の両者は同形の立体であると考えるのであ るが、古代の人々にとっては、その立体を見る視点がどちらにあるかによって、似てはい るが、異なった立体と考えられていたのである注9。古代においては、立体の形はまず具 体的な物の形に基づいて命名され、そこから少しずつ抽象的な立体の概念形成へと進んで きたのであろう。よって、具体的な物には必ずや、その物独自の用途や方向性がある。「芻 童」と「方闕」の場合も、立体の名称として用いられるようになっても、具体的な物とし て有していた独自の方向性、即ちどちらが正面で、どちらが奥行きかという方向性の観念 が漢代初期にはまだ存していたのである。  このように考えると、 4)や 5)の立体の用途においても、その立体を見るべき方向性 があり、そこから見て正面と想定される面の一辺が「廣」であり、正面から見て奥行きに 当たる一辺が「袤」と呼ばれていたことが予想される。このことは、 4)や 5)の立体に おいても適応するであろうか。   4)の「徐」は、上述のように二つの立体よりなるが、それはもともと墓室(定)と羨 道(徐)であったことが分かっている注10。さすれば、その中心は墓室であろう。羨道の入 り口から墓室を見た場合、その正面の幅が「廣」であり、それに対して奥行きに当たる一 辺が「袤」に当たることとなる(図3)。各々の辺の名称は 6)の「芻童」と同じである。 袤廣 除 定 高 36 10 10 12 図3 羨除   5)の「塹堵」という立体は、その用途がよくわからないが、恐らく堵墻の一種であろう。 塞などの外側に築き、騎馬の侵入を防ぐ防護壁の一類であったと考えられる。「下厚四尺、 上厚二尺、高五尺」という台形が「袤」の延長とともに高さを減じ、やがて高さをなくす る形の立体注11である。このような立体において、どちらが正面に当たるのかという問題 にヒントを与えてくれる例が『居延新簡』に見える。 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 57 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) 9) 二里五十歩、可作橿格。下廣丈二尺、上廣八尺、高丈二尺。積卌六万八千尺。人功 百五十六尺、用積徒三千人。人受袤尺三寸。(E.P.T58-36) これは、二里五十歩(3900尺)の長さを有する「橿格」(恐らく土塁の類であろう)注12を作 るのに必要とされる総労働量の計算書である。「橿格」の断面の台形が下広12尺、上広 8尺、 高さ12尺なので、断面積は120平方尺となる。これに3900尺を掛けると、「橿格」の総体積 468000立方尺がでる。これを人功(一日当たりの一人の規定積み上げ量)156立方尺で割る と、積徒(延べ必要人員)3000人が出ると云っているのである。最後の「人受袤尺三寸」とは、 人功156立方尺が、「橿格」でどれほどの長さになるのかということで、156立方尺を「橿格」 の断面積120平方尺で割ると、「一尺三寸」がでる。これは、一人が一日で作ることができ る「橿格」の長さということになる。これを「袤」と呼んでいる。即ち、「橿格」の断面 を正面と考え、因って、その断面の台形を「上廣」「下廣」「高」で表し、その正面から見 た奥行きを「袤」と呼んでいるのである。  これは、「橿格」が造られる工程と関わりがある。「橿格」は、「上廣」「下廣「高」から 構成される面を「袤」、即ち奥行きの方へ伸長してゆくという方法で造成されていったこ とに基づいていよう。  これから知られることは、このような細長い立体を計算する場合、その総体積はその断 面を正面と考えて、これに「袤」を乗じて出す。人功を断面積で割って、一日でできる「橿格」 の長さを出す。つまり、このことは、5)の「塹堵」においても、上廣と下廣と高さによっ て形成される面こそが正面で、その正面から見て奥行きに当たる辺が「袤」であったこと を物語っているのである。ここでも「袤」は、正面から見た奥行きを表している。    三  居延漢簡には、この他にも「袤」が正面から見た奥行きの意であることを示す用例がい くつか見える。 10)…四百尺。人功百五十六尺、用積徒千九百卅九人。人受袤三尺九寸。(E.P.T57-73) 11)…泥以塗外垣。高出人頭上。廣袤各三尺。其外□垣共累自塗内外垣亦可。E.P.F8-5 12) 民自穿渠。第二左渠・第二右内渠、水門廣六尺、袤十二里、上廣…(ⅡDXT0213-3: Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 58 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 004、『釈粋』58)  10)は、造る建造物の名称は見えないが、その書式から見て、 9)の「橿格」と同種の ものを造る際の労働量の計算書である。「人受袤三尺九寸」という表現から、この建造物 は断面積が40平方尺(156立方尺÷3.9尺=40平方尺)であり、これを正面として、そこらか らの奥行きを「袤」と表現しているのがわかる。  11)は、外垣に泥を塗るに際して、塗装の面積を出すために外垣の高さと廣(幅)・袤の 長さが述べているので、直方体の形である。この直方体において、正面が広と高さで、そ の奥行きが袤と表現されているのである。  12)は、恐らく幾つかの水渠を掘った際の、第二左渠と第二右内渠の大きさを述べたも のであろう。その水門が「広が 6尺、その袤が12里、上廣が…」と表現されている。水渠 のような、立体的空隙も体積と同様に表現されることが知られるのである。これも、水渠 が掘られてゆく工程が「下廣」と「上廣」「高」から構成される面を正面と考え、これを「袤」 の方向に延長して掘り進めてゆくというものであったからであろう注13。  さらに重要なことは、水渠のような恐らくは直線的ではなく曲がっている長さに対して も「袤」が用いられていることである。この場合、「袤」は、渠の水門を正面とした視線 から見て、奥行きに当たるのであるが、その奥行きは直線的でなくてもいいし、必ずしも 立体や立体的空隙でなくてもよい。このことを補証する資料が居延漢簡の中にある。 13)…塞延袤道里簿(481.18)  この簡は、ある塞より各地点への里数が記載された「道里簿」の表題簡である。このよ うな道里簿はおそらくある塞から別の塞への郵書の逓送のために用意せられたのであろ う。この「延」の義がやや明確ではないが、恐らく、A(ある塞)―B―C―Dと近くから 遠くへ地点がならんでいる場合、A―Bの道程の里数、A―Cの道程の里数、A―Dの道程 の里数というように、起点となるAからの各々の里数が記されているという意味であろう。 そして、ここでその道程の長さを「袤」と呼んでいるのである。道である限り、それは直 線的ではありえない。又、立体的でもない。直線的でもなく、立体的でもない道にも「袤」 は用いるのである。では、何故ここで「袤」が用いられているのか。この場合、正面は、 A即ちある塞であり、そこから見た奥行きがB、C、Dへの道程の長さにあたるのである。 このように、ある地点を起点と考え、そこから見た奥行きを「袤」と呼ぶ例は文献にも見 える。既に一で挙げた王念孫の注中に引かれているのだが、『史記』蒙恬伝に長城の長さ Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 59 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) を記した文がある。 14)築長城、因地形、用制険塞、起望洮(集解「徐広曰、属隴西」)、至遼東、延袤万余里。 この「延袤」は、上の12)の「延袤」と同じで、それが 1万余里あるというのである。こ こでは、その道程を見る位置、即ち正面は、文意より望洮であることが知られる。徐注に よれば、望洮は隴西にありということだが、秦から見れば、この望洮こそが長城の起点で あり、ここより見た、「遼東」に至る奥行きが「袤」に他ならない。同じく王念孫の文に 引かれている『漢書』揚雄伝に「周袤」という辞が見える。 15) 武帝広開上林、南至友宜春・鼎胡・御宿・昆吾、旁南山而西、至長楊・五柞、北繞黄 山、瀕渭而東、周袤数百里。 この上林苑の周延の記載は、文意より苑の北東の地点を起点としてなされている。この地 点を正面として、その奥行きを南、西、北、東という順序で記しているのである。このよ うに、奥行きがグルッと一周して戻ってくるような道程を「周袤」と呼んでいる。「袤」 はそのような道程にも用いられていたのである。  後漢期の「袤」の用義を知る資料として、『隷釈』巻四に載る「蜀郡守何君碑」がある。 その銘文中に「袤」字が見えるのである。しかし、この碑の拓本は模刻本を除いて伝来せず、 その字形や碑文の実物、その設置場所を確認できず、よって真の文字資料として用いるこ とには、やや躊躇があった。ところが、 5年前の2004年 3 月、四川省滎経県城の西14㎞の 地点において、この碑自体が発見されたのである注14。その場所は、四川省西部の甘孜チベッ ト自治州の高原へと連なってゆく山間地で、泗坪と花灘の町の丁度中間にある。この辺り では、滎経河に沿って108国道が河の南側の崖を削りとって造られているが、この国道の 修理の際に道の崖下に下りた工事人によってこの摩崖碑が発見されたとのことである。  筆者も2006年四川省を訪れた際、この地にまで足をのばし、現地でその碑を実見した。 碑は、滎経河に対して直角にそそり立つ崖岩の面を平らに削ってそこに縦65㎝、横73㎝の 四角い枠を彫り、その中に全文52字の文が刻されている。その文は『隷釈』巻四に載るも のと同じである。以下にそれを挙げておく。 16) 蜀郡大守平陵何君遣掾臨邛舒鮪、將徒治道、造尊楗閣。袤五十五丈、用功千一百九十八日。 建武中元二年六月就。道史任雲・陳春主。 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 60 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 『隷釈』では、この碑文中の「閣」について、    蜀人以爲尊楗閣碑、棧路謂之閣道、非樓閣之閣也。邛僰九折坂、蓋其地。『華陽國志』 云、道至險、有長嶺・楊母閣之峻。昔楊氏倡造作閣、故名焉注15。 と云う。蜀では、棧道を閣と呼んでいたのである。筆者も現地で、この摩崖碑のすぐ下方 より崖に沿った岩石上に直径10数㎝ほどの穴が滎経河の上流へ向かって点点とあけられて いるのを確認した。棧道を造るため木材を差し込む穴であったことに間違いない。よって、 「五十五丈」とは棧道の長さであり、碑文が刻せられたこの地点が棧道の入り口、正面であっ た。ここから滎経河に沿って上流へ連なってゆく棧道の奥行きを「袤」と呼んでいるので ある。しかも、この「袤」が直線でないのは、上の12)や13)で見たのと同じである。  この碑の建造年は建武中元二年(紀元57)である。後漢期に入っても、「袤」は、前漢期 と同じ義で用いられることがあったことが確認される。  ここで、13)の「延袤里数」、14)の「延袤万余里」、15)の「周袤数百里」、16)の「袤 五十五丈」という形式から、古代において、「袤」が距離をも表していたことが知られる。 しかし、現代の我々が距離という場合、A地点からB地点までを鳥瞰図的にみた距離を指す。 しかし、古代の人々にとって、距離とはそのようなものではなく、あくまでA地点を正面 と考え、そこから見た奥行きの距離であったのである。「袤」はそのような義をもってい たがゆえにこれらの文のなかで、とくに意をもって用いられているのである。    四  では、二で挙げた『算数書』の 7)「繒幅」題の「袤」はどの様に解するべきであろうか。  ここでの問題は、「繒幅廣廿(二十)二寸、袤十寸、賈(價)廿三錢。今欲買從利廣三 寸、袤六十寸」と買おうとする繒幅の広さを「廣」と「袤」で表しているにもかかわら ず、すぐ後の「術曰」の中では、「朮(術)曰、以廿(二十)二寸爲法。以廣從(縱)相乘爲實。 =(實)如法得一寸」と、上文の「袤」に当たる部分が「從」字に代えられていることである。 このような用字の変換は何を意味しているのか。  まず、「從(縱)」について、『算数書』ではどのように用いられているかを見てみよう。 17) 少廣。救(求)少廣之術曰、先直(置)廣、即曰、下有若干歩、以一爲若干、以半爲若干、 以三分爲若干、積分以盡所救(求)分、同之以爲法。即耤(藉)直(置)田二百四十歩、亦 以一爲若干、以爲積歩、除積歩如法得從(縱)一歩。…(簡164-165) Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 61 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) 18) 大廣。…大廣朮(術)曰、直(置)廣從(縱)而各以其分母乘其上全步、令分子從之、令相乘也、 爲實。有(又)各令分母相乘爲法。如法得一歩、不盈步、以法命之。(簡183-184) 19) 里田。里田朮(術)曰、里乘里、=(里)也。廣從(縱)各一里、即直(置)一因而三之、有(又) 三五之、即爲田三頃七十五畝。其廣從(縱)不等者、先以里相乘、巳(已)、乃因而三之、 有(又)三五之、乃成。(簡187-188) 20) 啓廣。田從(縱)卅(三十)步、爲啓廣幾何而爲田一畝。曰、啓八步。朮(術)曰、以卅步 爲法。以二百四十歩爲實。啓從(縱)亦如此。(簡159) 21) 啓從(縱)。廣廿(二十)三步、爲啓從(縱)求田四畝。朮(術)曰、直(置)四畝步數、令如 廣步數、而得從(縱)一步。(簡160)  『算数書』中、「從」を「たて」の義で用いている算題はこの 5題である注16。そして、 この 5題すべてに共通するのは、田の面積に関しているということ、「よこ」の義は「廣」 字によって、「たて」の義は「從」字によって担われていることである。しかも、これら の田の形はすべて長方形であり、その他の形は見えない。20)の「啓廣」は、田の面積と「從」 の長さが分かっているときの、「廣」の長さの求め方であり、21)「啓縱」は、田の面積と「廣」 の長さが分かっているときの、「從」の長さの求め方である。この20)と21)の両者の計算は、 「たて」と「よこ」は相対的概念だと理解している我々の感覚では、全く同じになるのだが、 秦漢の人々にとっては、「廣」と「從」は各々独自の意味を有していて、互換可能なもの ではなかったようである。故に、「啓広」題と「啓縦」題の 2算題が別個に立てられてい るのである。  恐らく、戦国・秦漢期においては、長方形の田の面積を測る場合、基準とするのは、「廣」 であった。「廣」が決定・固定された後にその「廣」に対するもう一辺の長さが問題とさ れたのであろう。例えば、ある田の面積を増減させる場合、それは「從」の長さの増減に よって行われたと考えられる。ゆえに、その辺に「從」、したがうという名が与えられる ようになったと考えられる。  もう一つ指摘しなければならないことは、「從」は田の面積のように、平面的な物を俯 瞰的に見た場合の「たて」の辺を表しているということであろう。これに対して、「袤」は、 ある起点より見た長さを表しているという点が大きく異なる。  『算数書』の 7)の「繒幅廣廿(二十)二寸、袤十寸、賈(價)廿三錢」というのは、基準 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 62 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 幅22寸で、長さ10寸が23銭であるということ。22×10寸の繒布が存在しているわけではな い注17。22×10寸というのは、その繒布の単位価格23銭に合わせたものである。実際に存 在しているのはあくまで基準幅22寸を軸に巻かれている長い繒布なのである。よって、そ の正面は幅広であり、そこから見た奥行きが「袤」に当たるのである。「今欲買從利廣三寸、 袤六十寸」の方も、廣 3寸を正面と考え、その正面から、奥行き60寸を見たものであるの で、「袤」が用いられているのである注18。  これに対して、「以廣從(縱)相乘爲實」の「從(縱)」の方は、「廣三寸、袤六十寸」とい う長方形の繒布の面積を出すための計算の中で用いられており、長方形の繒布を俯瞰的に 眺めた時の「たて」の意となるのである。秦漢の人々は、このように「袤」と「從」の用 い方を区別していたのである。  面積は古代数学書のなかでは、「積歩」や「積里」という語で表されるが、これは、「広」 と「從(縱)」を掛け合わせることによって得られることが当時知られていた。『九章算術』 方田章 1の、   方田術曰、広従歩数相乗得積歩。 というのがこれに当たる。この計算で得られた積歩は、一般的な長さを表す数字ではなく、 面積という特殊な数値(我々の言い方では「平方歩」となる)を表すものなのである。よっ て、長方形以外の形の面積を求める場合にも、広と縦を掛け合わせるという形式をとる。 方田章32に円の面積を求める術が載り、   術曰、半周半径相乗得積歩。 という一文がある。円の周長の半分と円の半径を掛けると円の面積、積歩が得られるとい う意であるが、この文に対して、魏晋期の注釈家劉徽は、   按、半周為従、半径為広、故広従相乗為積歩也。 と注を加えている。「周を半にして縦と考え、径を半にして広と考えると、広と従を掛け ると面積が出る」というのは、円の面積を長方形の面積に還元して考えているのである。 これは、面積は広と従を掛けると始めて得られるという魏晋期における「常識」を基とし た注に他ならないのである注19。広と縦とは、このように互いに掛け合わせて面積を出す ための前段階的条件のようなものなのであったろう。よって、「繒幅」題の広と縦も「以 廣從(縱)相乘爲實」というように、掛け合わせて面積(ここでは「実」)を出す前提として 用いられているのである。  文献に見られるものであるが、「廣袤」という用語がある。『史記』や『漢書』の中で次 のように用いられている。 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 63 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) 22) 秦斉交合、張儀乃起朝、謂楚将軍曰、「子何不受地。從某至某、廣袤六里。」楚将軍、曰「臣 之所以見命者六百里、不聞六里。」即以帰報懐王。(『史記』楚世家) 23) 初、武帝征南越、元封元年立儋耳・珠厓郡、皆在南方海中洲居、廣袤可千里、合十六県、 戸二万三千余。」(『漢書』賈捐之伝) これらの「廣袤六里」「廣袤可千里」の「廣袤」は面積の意であると理解されている。各々 「面積が六里四方」「面積が約千里四方」の意味であるが、廣と袤が各々六里や約千里であっ たということではない。長方形ではない不規則な面積を寄せ集めると「六里四方」や「約 千里四方」の面積になるということである。長方形ではないので、「廣」や「縦」が用い られることはなかったのである。  さらに考えると、袤は廣と対になって一語を形成し、広い意味で面積を意味する語と なったが、もともとは、ある地点より眼前に広がる土地を眺めその地点より横に広がる方 を「廣」と呼び、その正面から見て奥行に当たる方を「袤」と呼んだのに始まるのであろう。 面積も元もとはこのように、ある地点より眺められた広さの意であった。「廣袤」はその ような方向性を有していた語なのである。『説文』の「一曰、南北曰袤、東西曰廣」とい う説解は、古代の人々が面積をこのように見ていたことによるものであろう。  「廣袤六里」は、決して横六里、縦六里(即ち、六里四方)の土地という意味ではなかった。 しかし、後代そのように誤解されると、「廣袤」は「廣從」に作られるようになる。上の『史 記』楚世家の文は、『戦国策』秦策二に同じ故事が書されているが、そこでは、 24) 張儀知楚絶斉也、乃出見使者曰、「從某至某、廣從六里。」使者曰、「臣聞六百里、不 聞六里。」 と、「廣從」になっている。恐らく、『戦国策』の整理者が、『史記』の「廣袤」の本来の 意を理解できなかったことより、あえて訂正を加えたものであろう。    五  戦国期の秦の田律を記した木牘が、かつて四川省青川県より出土している注20。「青川木 牘」と呼ばれるこの木牘の中にも「袤」が見えるのである。これが今まで、出土文字資料 における「袤」字の最も古い用例であった。(しかし、後述するように、近年、西周中期 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 64 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 の金文の中に、この字が発見され、こちらが最も古い用例となった)。  この木牘の記述は、その発表以来多くの研究者によって考察と解読が行われてきた注21 が、如何せん、実物は既に墨色が薄くなってしまっており、また発表されている写真も精 度が悪く、多くの文字が明確でない。よって、現在のところ中国の研究者が作成した模本 によって、釈文を定めざるを得ない。以下にその釈文を示しておく。 25) 二年十一月己酉朔、朔日、王命丞相戊・内史匽・□□、更脩爲田律。田廣一步、袤八 則爲畛。畝二畛。一百道。百畝爲頃、一千道。道廣三歩。封高四尺、大稱其高。捋高 尺、下厚二尺。以秋八月脩封埒、正疆畔、及 千百之大草。九月大除道及除□。十月 爲橋、脩波隄、利津梁、鮮草。離(雖)非除道之時而有陷敗不可行、輒爲之。 この木牘の内容は多くの研究者によって、秦漢期の文献にしばしば登場する「阡陌制」と 関連づけられ論ぜられているが、今はその制度は論じない。ここでは、「袤」を含む一節「田 廣一步、袤八則爲畛。畝二畛。一百道。百畝爲頃、一千道。道廣三歩」をどのように解釈 するのかということに限定として論じたい。  この木牘とほぼ同文の竹簡が、後に出土した張家山漢簡『二年律令』にも見え、そこには、 26) 田廣一步、袤二百卌步爲畛。畝二畛。一佰道。百畝爲頃、十頃一千道。道廣二丈。恒 以秋七月除千佰之大草。九月大除、道□阪瞼、十月爲橋、脩波(陂)堤、利津梁。雖非 除道之時而有陷敗不可行、輒爲之。郷部主邑中道、田主田道。道有陷敗不可行者、罰 其嗇夫・吏主者黄金各二兩。□□□□□□及□土、罰金二兩。(簡246-248(田律)) とあった。両者を比べると、その意がより明確になるであろう。  先ず、「袤八則」と「袤二百卌步」の違いであるが、胡平生氏によれば、阜陽漢簡の残 簡の中に、「卅步爲則」という記述があり注22、青川木牘の「八則」とは 8×30歩で240歩 のことだと知られる。よって、両者は同じ意である。次に、「畛」の義であるが、『説文』 巻十三下田部に「畛、井田間陌也」とあり、『爾雅』釈言「障、畛也」とあることから、 耕地と耕地との間の道と解すべきである。よって、「田廣一步、袤二百卌步爲畛。畝二畛」 とは、「広一歩と袤二百四十歩で畛を作る。だから、一畝ごとに(両側に)二畛となる」と の意であろう。  次の「一百道」は、前に「畛」が略されているのであろう。「畛一百にして道あり」の意 である。次の「百畝爲頃、十頃一千道。道廣二丈」とは、「百畝は一頃で、十頃では一千道 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 65 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) となる。その道の幅は二丈」という意である。要するに、ここの記述は、「畛」と「畛一百 の道」、「畛一千の道」をどのような規格で作ってゆくのかを述べたものなのである注23。  そこで、最初に戻り、「田廣一步、袤二百卌步爲畛」の文において、「袤」が用いられて いる意味を考えてみよう。  畝の構成が広 1歩、長さ240歩となっていることについて、李学勤氏は、『呂氏春秋』任 地篇に「六尺之耜、所以成畝也。其博八寸、所以成甽也」とあり、これが全長 6尺= 1 歩 の畝を作ると指摘する注24。渡辺信一郎氏は、さらに、この指摘に基づいて、    この場合、畝の長さ六尺=一歩となり、二四〇歩一畝制である以上、畝の長さは 二四〇歩となる。…ただ注意すべきは、任地篇が明言するように畝が耜(踏犂)によっ て形成されていることである。二四〇歩一畝制が手労働農具を基礎として耕作されてい たことは疑いない。 と指摘する注25。畝は、幅 6尺= 1 歩の耜によって耕作されていたのであり、その結果、広 1歩と長さ240歩の畝ができ、その長さが「袤」で表されていたのである。田の耕作の場合、 やはり一方から耕してゆくので、正面は耕しはじめた所であり、耕してゆく方向を「袤」 と呼んだのであろう。よって、ここでも「橿格」や穿渠の場合と同様に、「袤」が用いら れたのである。    六  上で、『九章算術』中の「芻童」についての「袤」の用法を見たが、文献として中国最 古の数学書であるこの書の中に用いられる他の「袤」字においても、上で見た原則は認め られるのであろうか。  「袤」が見えるのは39例で、すべて商功章であり、すでに見た「芻童」を除けば、次の ような例が存する。 27) 城・垣・隄・溝・塹・渠、皆同術。術曰、幷上下廣而半之、以高若深乘之、又以袤乘 之、即積尺。今有城。下廣四丈、上廣二丈、高五丈、袤一百二十六丈五尺。問積幾何。 荅曰、一百八十九萬七千五百尺。(1) 28) 今有陽馬、廣五尺、袤七尺、高八尺。問積幾何。荅曰、九十三尺少半尺。術曰、廣袤 相乘、以高乘之、三而一。(15) Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 66 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 29)「鼈臑」「下廣五尺、無袤、上袤四尺、無廣、高七尺」(16) 30)「羨除」「下廣六尺、上廣一丈、深三尺、末廣八尺、無深、袤七尺」(17) 31)「芻甍」「下廣三丈、袤四丈、上袤二丈、無廣、高一丈」(18) 32)「盤池」「上廣六丈、袤八丈、下廣四丈、袤六丈、深二丈」(21) 33)「冥谷」「上廣二丈、袤七丈、下廣八尺、袤四丈、深六丈五尺」(22) 34)「穿地」「袤一丈六尺、深一丈、上廣六尺」(26) 35)「倉」 「廣三丈、袤四丈五尺」(27)  27)の「城・垣・隄・溝・塹・渠」という建造物は、すべての断面が同一の台形(また は逆台形)をしめす四角錐台の立体、あるいは四角錐台形の立体的空隙である。その台形 の上辺と下辺が「上廣」「下廣」で、その高さは「高」若しくは「深」(立体的空隙の場合 は「深」を用いる)で表されてい る。そして、その奥行きが「袤」 で表されているのである。これは、 9)の「橿格」や12)の「渠」や 13)の「閣道」において奥行きを 表すのに「袤」を用いているのと 同じである。このような建造物は、 上廣と下廣と高(或いは深)で構 成される面を正面とみなし、そこ から見た奥行きを「袤」とみなす ことはすでに述べた。  28)の「陽馬」という立体(図 4) において、「廣」と直角になる一 辺を「袤」と呼んでいる。もう一 つの辺は「高」と呼ばれる。 図4 陽馬 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 67 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆)  「陽馬」は、劉徽注に、   按此術、陽馬之形、方錐一隅也。今四柱屋隅為陽馬。 という。四柱の屋の隅に置くものを陽馬とする。『文選』「景福殿賦」に、   爰有禁 、勒分翼張、承以陽馬、接以圓方。 とあり、その呂向の注には、劉徽よりさらに具体的に、   禁 、短椽也。勒分翼張、分布之貌。陽馬、屋四角引出以承短椽者、相連接、或円或方。 とある。屋根の四隅にあって、短椽(たるき)を支える機能を有する材のことである。宋 代に編集された『営造法式』巻四に、「陽馬」の項があり、そこに「其名有五。一曰觚棱、 二曰陽馬、三曰闕角、四曰角梁、五曰梁抹」とある。さらに巻三十に「子角梁」「大角梁」 の図が載る。その形は、『九章算術』より導かれる陽馬の立体形とやや異なっている。時 代の変遷によるものであろう。後漢期の立体形としての「陽馬」の名称が、建築部材の「陽 馬」に起源するものであることは疑いない。そして、建築部材としての「陽馬」の機能か ら見て、外部から見た正面が「廣」、奥行きが「袤」となるのであろう注26。  35)の「倉」は、穀物の搬入口を有する側が正面で広と呼ばれ、その奥行きが袤である ことは疑いない。  32)の「盤池」と33)の「冥谷」及び34)の「穿地」は、いずれも立体的空隙であるが、 三の11)の水渠の例で見たように、立体的空隙の場合も「広」(「上広」、「下広」)と「深」 から成る断面が正面で、奥行きが袤となるのは同じである。これらは、地を掘る際の労働 量の計算法と関係があるということは既に述べた。  29)の「鼈臑」、31)の「芻甍」はその命名の由来が明確でなく注27、よってそれぞれの 立体において、どちらが正面で、どちらが奥行きであるのかについては、現在のところよ くわからない。  『九章算術』の立体の中には、その由来がよく分からず、よってその立体の用途上の正 面や奥行きという方向性を知ることができないものもあるが、その用途を知ることができ る立体については、「袤」は総じて、正面から見た奥行きを表していることが知られるの である。    七  では、張家山漢簡よりやや時代が遡る秦簡では、「袤」はどのように用いられているで あろうか。 秦簡には、「袤」が見える簡が 5簡ある。 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 68 大阪産業大学論集 人文・社会科学編 7 36)袤八尺、福(幅)廣二尺五寸。布惡、其廣袤不如式者、不行。(『秦律十八種』66、金布律) 37) 診首□ 髪、其右角痏一所、袤五寸、深到骨、類劍迹。其頭所不齊 然。以書 首曰、 有失伍及菌(遲)不來者、遣來識戲次。(『封診式』簡34-36) 38) 角刃痏一所、北(背)二所、皆從(縦)頭北(背)、袤各四寸、相耎。廣各一寸、皆臽中類 斧、腦角出( )、皆血出、柀(被)汚頭北(背)及地、皆不可爲廣袤、它完。(『封診式』「賊 死」簡56-58) 39) …丙死(屍)縣其室東内中北 (壁)、南郷(嚮)。以枲索大如大指、旋通繋頸、旋終在項。 索上終權、再周結索、餘末袤二尺。頭上去權二尺、足不傳地二寸、頭北(背)傳 (壁)。 …權大一圍、袤三尺、西去堪二尺、堪上可道終索。…乃解索、視口鼻渭(喟)然不殹(也)。 及視索迹鬱之狀。道索終所試脱頭、能脱。…(『封診式』「経死」63-72) 40) …外壤秦綦履迹四所、袤尺二寸。其前稠綦袤四寸、其中央稀者五寸、其 (踵)稠者三寸。 其履迹類故履。内北有垣、垣高七尺、垣北即巷殹(也)。垣北去小堂北唇丈、垣東去内五歩、 其上有新小壞、壞直中外、類足歫之之迹、皆不可爲廣袤。(『封診式』「穴盗」78-80)  36)は秦代の布帛の規格を記したもの。張家山漢簡『二年律令』の中に、漢代の布帛の 規格を記した 1簡があり、 41)販賣繒布幅不盈二尺二寸、没入之。…(「□市律」258) とあり、こちらの方には、「袤」が書かれておらず、「幅」の規格だけが記されている。こ れから見て、布帛や繒布の規格の基準は、「幅廣」(「幅」とも記される)にあったことが 知られる。既に上述したように、この基準である「幅廣」から見て、布帛の奥行きに当た るのが「袤」であった。布帛を保存する場合にも、この「幅廣」の最奥を軸にして巻いて ゆくのであり、「袤」は、幅廣から見て、ちょうど視線の先に延びてゆくのである。  この36)の以外の残りのものは『封診式』という、実際に発生した事案に基づく実況検 分の書式の中に見られるものである。  37)は、戦場で二人の兵士が首争いをした時の記録を基にしたもの。その首を実検する に、その右角に痏(傷口)注28があり、それは「袤五寸で、深さは骨に到っていて、剣の跡 Osaka Sangyo University NII-Electronic Library Service 69 張家山漢簡『算数書』の文字・用語について(4)(大川俊隆) のようであった」という箇所で「袤」が使われている。思うに、この場合、傷口は、空隙 である。この空隙が立体として把握されているのであろう。傷口は剣で斬ったものなので、 「廣」は特に記してないが、どれほどのものか常識で分かるのである。そして「袤」が 5寸、 深さは骨までと、傷口という空隙が立体的に把握されている。現在でも、実況検分調書に おいては、凶器の形状を正確に推定するために、人体につけられた傷の形状は立体的に記 録されるようである。では、この空隙において、「正面」はどこなのか。剣で人体を切り つける場合、刀を打ち下ろし、それを手元に引く。最初に打ち下ろされた時の傷口が「正 面」であり、刀が手元に引かれることによってできる延長的傷口の長さ、即ち、傷の奥行 きが「袤」なのであろう。この傷口の長さを「袤」で表すのも、今まで見てきた「袤」の 用例の実質同じであることが知られるのである。  38)は「賊死」と題された死体実況検分の記録である。その死体の頭には、刃物による 傷口が一箇所、背中に同じ傷口が二箇所、すべて頭から背中に縦についており、「袤が各々 4寸、(死後硬直のため)縮んでしまっていて注29、廣は各々 1寸、すべて中に陥没してい て、斧による傷のようであった」と云う。これには、「深」という語がないが、「皆臽中類 斧」がそれを表現している。よってここでも、その傷口が、「袤」「廣」「深」と立体的な 空隙としてとらえられているのである。  この文中で、「皆頭・北(背)を從(縦)にす」と「從」が用いられているが、これは3箇 所の傷が人の身体全体から見て縦の方向に走っているのかを示している。言わば、人体を 俯瞰的に見て、頭・背・臀部・脚部が形成する方向を「從」ととらえているのである。し かし、「袤」自体はこのような俯瞰的な方向性を示す意はない。よって、俯瞰的方向性を 示す場合には、「從」が用いられるのである。「從」には、上で見てきたような、長方形の 面積の「たて」を表す例があったが、その場合にも、あくまで俯瞰的に眺めた場合に用い られていた。この「從」の意と本例の用例はほぼ同意である。  38)にはさらにその後、「脳角・ より皆血出で、汚を被ること頭・背・地に及び、皆 広袤を為す可からず」という記述が続く。この中の「廣袤」とは、脳角・ の傷のことで、 「廣袤を為す可からず」とは、その傷口が血で汚されていて、廣袤を計ることができない、 という意である。ここでは、「深」への言及はないが、「廣を為す可からず」といっている ので、それで「深」の不明は当然のことながら記載されなかった。  39)は、かつて引用したことがある注30。「経死」とは、首吊り自殺のことで、その実況 検分に基づいている。その中で、「袤」は、二箇所に用いられている。前
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