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关于徂徕学的论文

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关于徂徕学的论文 Ochanomizu University TeaPot - Ochanomizu University Web Library - Institutional Repository Title???????????????(?????????,?4? ????????????) Author(s)??, ?? Citation ????????????????????????? ????????????????, ??21?? ??? ????: 251-254 URL http://hdl.handle.net...
关于徂徕学的论文
Ochanomizu University TeaPot - Ochanomizu University Web Library - Institutional Repository Title???????????????(?????????,?4? ????????????) Author(s)??, ?? Citation ????????????????????????? ????????????????, ??21?? ??? ????: 251-254 URL http://hdl.handle.net/10083/49152 Rights 第 4 回 国際日本学コンソーシアム 251 徂徠学における〈主体性〉の考察 德重 公美 はじめに 荻生徂徠(1666-1728)は江戸時代中期に活躍した 儒学者であるが、その学問は丸山眞男によって日本 近代化の一契機として位置づけられて以来、日本思 想史において重要な分岐的役割を果たすものとして 考察され続けている。その際の論点として取り上げ られたものの一つが、本論において主題としている、 〈主体性〉である。氏の論文を契機に、これまでも たびたび取り上げられてきた主体性の問題は、徂徠 学の歴史的位置づけと関わって、徂徠学それ自身を 理解するための一つの課題として引き継がれるので ある。 丸山は『日本政治思想史研究』において、徂徠学 の持つ近代性を二つの側面から指摘する。一つは、 徂徠学が「リゴリズムよりの解放」を果たしたとす る点である。丸山は徂徠学における「公私」の概念 に注目し、徂徠が「君子といへどもあに私なからん や」(『弁名』公正直 1)1と述べて「私」を容認する こと、すなわち個人的・内面的なもの(人情や欲、 感情など)を容認することを取り上げる。そしてこ れが、「人欲の私」を去って「天理の公」に存さねば ならないとする朱子学的道徳観において示されたリ ゴリズムからの解放を果たしているとし、これを 「「近代的なもの」の重要な標徴」とするのである 2。 二つ目は、徂徠学における「道」の作為性である。 この点については本論において取り上げるが、丸山 は徂徠が「道」を先王による人工物であるとする定 義に着目し、ここに、社会関係が自然界と同様の原 理によって基礎付けられているという「自然的秩序 観」を覆す「主体的人格」が含まれていると述べ、 これを徂徠学に内包された近代性であるとする 3。実 際、徂徠は「道」を特徴づけて、「道と申候は。事物 当行の理にても無之。天地自然の道にても無之。聖 人の建立被成候道にて。道といふは国天下を治候仕 様に候」(『徂徠先生答問書』)4、「先王の道は、先王 の造る所なり。…その心力を尽くし、その知巧を極 め、この道を作為して、天下後世の人をしてこれに 由りてこれを行はしむ」(『弁道』4)5と述べ、「道」 に見られる作為性は徂徠の強調する点でもある。本 論は、以上のような丸山の理解を検討しつつ、徂徠 学における主体性について更に考察を進めることで、 徂徠学の特徴を取り上げることとする。 1. 先王の作為 徂徠における「道」の定義において、特徴的であ るのがその作為的性質である。これに関わる徂徠の 言葉は先に取り上げたが、その前後を含めて改めて 以下に引用する。 先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に 非ざるなり。けだし先王、聡明睿知の徳を以て、 天命を受け、天下に王たり。その心は、一に、天 下を安んずるを以て務めとなす。ここを以てその 心力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為し て、天下後世の人をしてこれに由りてこれを行は しむ。あに天地自然にこれあらんや。(『弁道』4)6 「道」はまた「礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者」 (『弁道』3)7とも述べられ、「道といふは国天下を治 候仕様に候」という現に明らかなように、古代に おいて設けられた政治 8のことを言う。「道」は、 自分に内在すると考えられたものでもなく(「事物当 行の理にても無之」)、天地自然に既に用意されてい るものでもない(「天地自然の道にても無之」)。それ は先王によって作られたものであり、「国天下を治め 候」ためにその知恵の限りを尽くして作為されたも のなのである。 作為を行う「先王」とは、伏羲・神農・黄帝をは じめ、堯・舜・禹・湯・文・武・周公ら歴史的存在 者のことである。彼らは世界の原初的自然状態を文 化・政治制度の完備された状態へと高める過程を担 った人物とされる。先王たちは代々を経て、何の加 工もない世界に文字や楽器などの道具や農耕などの 技術の活用を教える「利用厚生の道」を備え、人々 に徳を正しく獲得させる「正徳の道」を打ち立て 9、 人間はひとえにこの聖人の制作行為によって動物に 近い原初的存在から脱する契機を得るのである。先 王らはまた、この「制作」のわざを以て「聖人」と も称さる 10。徂徠における「聖人」が道徳的人格者の ことを指すのではなく、具体的な存在であるところ の古の為政者(先王)を指すことはその学問の特徴 でもある。徂徠において、具体性を帯び、限定され た「聖人」は更に、「道」を制作したという事実の偉 大さに従って、「聖人は学んで至るべからず」(『弁道』 5)11 と述べられ、他の人間から隔絶した存在として 定められるのである。そして「道」は、「理」でもな く「自然」でもなく 12、「聖人」の、彼らが打ち立て た制度によって人間を自然状態から脱せしめたとい う事実によって価値を持つ。限られた「聖人」とい う存在においてのみであるが、徂徠は、何もない自 然にその「心次第」13に新たな価値を造りだすという 主体的な人間の姿を描き出しているのである。丸山 は、道を作為した先王(聖人)について、「あらゆる 非人格的なイデーの優位を排除し、一切の価値判断 德重 公美:徂徠学における〈主体性〉の考察 252 から自由な人格、彼の現実在そのものが究極の根源 でありそれ以上の価値的遡及を許さざるごとき人 格」14の持ち主であると言い、主体自らが価値を創り 出すことを「近代性」とするのである。それでは、 徂徠学において聖人以外の人間の主体性については どのように考えられたのだろうか。これを「心」を 取り上げて考察することとする。 2. 君子の「心」 「聖人」においてはその「心次第」に自由に価値 を作り出す主体が認められたが、徂徠において広く 人間にこのような主体性が考えられたのではない。 「聖人もまた人」(『弁名』聖 3)15であると言われる が、聖人は決してそれとなる事の出来ない隔絶され た存在であるため、一般に人間は聖人と同様には考 えられなかった。しかしながら、「心なる者は、人身 の主宰なり」(『弁名』心志意 1)16と述べられるよう に、人間は聖人という限られた主体の前にただ対象 としてあるのではなく、その身体を自身の「心」に よって動かす「活物」であると考えられている。 徂徠において、人間は大きく二つ、「君子」と「小 人」に分けて考えられるが、まず「君子」は「先王」 が為政者であることに由来して、それに類して考え られていると言える。すなわち、自身の判断に従っ て制度を作りだす、という行為をなし得る主体であ る。「君子」とは、徂徠においては為政者のことを指 す 17。 「道」は第一義には先王たちの打ち立てた「上古 の法」(『弁名』学 7)18を指すが、堯舜禹を通してま ったく同じ政治制度が用いられたわけではもちろん なく、制度としての「道」は時代によってそれぞれ 特殊な部分も持っている。この特殊な部分を斟酌し て作り出すことが、時代ごとの「君子」に求められ た行為である 19。「道」の全体を作り上げることは「聡 明叡智の徳」を持ち得た先王にのみ可能なことであ り、その知恵に拠った道は基本的には「万世に亘り て、得て易ふべからざる者」(『弁名』学 7)20である ため、「道」を全く新しく作りかえることがその時の 為政者に求められたことではないが、過去の歴史を 学び、その時代を知り、その時に合わせて制度の詳 細な部分を作るのである。この時、君子の行為を導 くものが「仁」である。 先に先王の制作について取り上げたが、その際に 先王が「心」としていたものは「一に、天下を安ん ずるを以て務めとなす」ことであった。徂徠はこれ を「仁」と言う 21。そして、「君子なる者は上に在る の徳、その心は民を安んずるに在り。」(『論語徴』)22 と述べられるように、君子の行為は必ず「仁」に基 づく。「天下(民)を安んずる」「仁」とはすなわち、 天下を構成する民を「我を待ちてしかる後に安んず る者」(『弁道』7)23 であると自覚して、彼らを自ら が養うべきものとしてその責任の内に認識し、その 義務を達成しようとする意思であるが、君子はこの ような「心」を、歴史を学び、「先王の道」を学ぶこ とで、その学びの到達点として養い、「その心の聖人 の仁と相離れざる」(『弁名』仁 1)24時、徂徠は君子 の判断を容認するのである。 3. 小人の「心」 次に、小人の「心」について、徂徠は「小人なる 物は細民の称にして、その心は己を営むに在り」(『論 語徴』)25と述べる。「己を営む」ということは、単に 生きる(「生を営む」26)という事も含むが、更には 自分個人の完成ということを含む。この小人として の生き方について徂徠は次のような表現を用いる。 天下を安んずるは、一人の能くなす所に非ず。必 ず衆力を得て以てこれを成す。これを春夏秋冬備 りて、しかるのち歳功成すべく、椎鑿刀鋸備りて、 しかるのち匠事なすべく、寒熱補瀉備りて、しか るのち医術施すべきに辟ふ。錐はその鋭ならんこ とを欲し、椎はその鈍ならんことを欲し、石膏は 大寒、附子は大熱なり。しからずんば、先王、天 下を治むるに、その材を用ふる所あることなきな り。(『弁道』14)27 ここでは、個々人がそれぞれに特有の能力を磨か なければならないことの是が説かれており、またそ れが「天下を安んずること」に、すなわち、為政者 がその「仁」を達成させることに不可欠であるとす る。しかしこれは「天下を安んずる」という為政者 の意思が、その他の人間を、あたかも目的を達成さ せるための手段として考えていることを言っている のではない。徂徠は、人間はそれぞれ特殊の性質を 与えられて生まれていると考えており、生得的に異 なる存在であると考える 28。そして、それぞれ異なる 人間のそれ自身の完成とは、すなわち、上の引用に 見られるような、鋭さを誇る錐、凹凸のない椎のよ うに、固有の特性がより明らかにされた姿であると 考えたと言える。すなわち「己を営む」という小人 の主体性とは、他者を養うことを自らの責任の内に 引き受けることではなく、自分を養うことを目的と し、生まれ持った性質により近い自己を実現させよ うとする意思である。上記の引用に見られるような 人間観は、このような人間の姿を政治的・社会的側 面から叙述したものであり、君子以外の人間がただ 「衆力」として活用され、それによって強引に「天 下」に組み込まれる道具のような存在であると考え られたわけではないのである。 しかしながら、徂徠の考えた人間は、自分の利益 のために他者を犠牲にする自己本位的な存在や、権 利を主張する強い意思を持った存在としては理解さ れてはいないということに注意しなければならない。 徂徠が考える人間の性質には「人人殊なり」と表現 される特殊性以外にも、相互に助け合おうとする意 思が含まれている。すなわち「かつや相親しみ相愛 第 4 回 国際日本学コンソーシアム 253 し相生じ相成し相輔け相養ひ相匡し相救ふ者は、人 の性然りとなす」(『弁道』7)29 と述べられる性質で ある。自分自身を完成させようとする意思は、一方 でこのような性質にも方向付けられているが、「理」 や「聡明叡智の徳」と言われるような絶対的な指針 を持たない個々人は、自分の判断のみに従って行為 をなしたとしても目指した相互性に背く結果を導く 可能性を持つ。さて、このような性質を助けるもの が「先王の道」である(「能く億万人を合して、その 親愛生養の性を遂げしむる者は、先王の道なり」30)。 そして小人は、道のより基本的な一部分(「孝弟忠 信」)にのみではあるがそれに則ることで、「己を営む」 という主体のまま社会の構成員となるのである 31。 おわりに 以上、道と先王の関係における先王の主体性、人 間の「心」についての考察を取り上げた。徂徠学の 理解をめぐって、たとえば本郷隆盛氏のように「主 体は政治的君主一人であって「満天下の人」は、君 主が仁(治国―引用者注)を行うに際しての、賛助 者に他ならない」32と限定して、徂徠の提唱する人間 観に広く主体性は認められず、全体主義的であると 結論する見方があるが、これがやや違っているとい うことは明らかである。 丸山が聖人だけを指して「近代的」とするように、 徂徠学全体において自由で束縛のない意思が主体性 として認められたのではないが、後世の君子や、そ の他の人間にもそれぞれの主体性が考えられている ことは、先に取り上げた通りである。「民を安んずる」 という責任感を君子の「心」として考察し、自己の 完成を目指すことを小人の「心」であると考えたこ とは、徂徠の関心が政治にあることに大きく由来し ている。そして、その上でどちらかを一方を排する のではなく、二者をそのまま認めようとした点は徂 徠学における特徴であると言えるだろう。 注 1. 『弁名』(『日本思想大系 36 荻生徂徠』岩波書店・1973、 以下『大系 36 荻生徂徠』と略記する)105 頁。 2. 丸山眞男『日本政治思想史研究』新装版(東京大学出版 会・1999、以下略記する)106‐110 頁。 3. 丸山眞男『日本政治思想史研究』新装版、208‐222 頁。 天道・人道・地道を分けて考える方法は徂徠に先立つ古学 者、伊藤仁斎に見える考え方でもあるが、「道とは、人倫 日用に行くべきの路、教えを待って後あるにあらず、また 矯揉して能く然るにあらず。みな自然にして然り。四方八 偶、遐陬の陋、蛮貊の蠢たるに至るまで、おのずから君臣・ 父子・夫婦・昆弟・朋友の倫有らずということなく、亦親・ 義・別・序・信有らずということなし」(『語孟字義』)と することなどから、道の自然性が否定されたのは徂徠にお いてであるとしている。 4. 『徂徠先生答問書』(島田虔次 編輯『荻生徂徠全集 1 学 問論集』みすず書房・1973、以下 島田編『全集 1』と略 記する)469 頁。ここで挙げられている「事物当行の理」 や「天地自然の道」は朱子や、老子・荘子の言葉を背景と している。たとえば、朱子に「道者事物当行之理」(『中庸』 朱注)「道者事物当然之理」(『論語』朱注)と、また『老 子』に「人法地、地法天、天法道、道法自然」、『荘子』に 「夫道…自本自根、未有天地、自古以固存」とある。 5. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)14 頁。 6. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)14 頁。 7. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)13 頁。 8. 具体的には六経(詩書礼楽易春秋)を指す。「礼楽」の語 からも分かるように、徂徠の言う「政治」は広く道徳規範 も含むと考えられる。しかし、この場合の道徳規範は「孝 弟忠信(中庸の徳)」に限られ、基本的なもののみを指す。 徂徠が退ける「道徳」とは、朱子学的「修身」のことであ り、そのひとりよがりな修養方法を含意していると、発表 者は考えている。 9. 「古の天子は、聡明叡智の徳あり、天地の道に通じ、人 物の性を尽くし、制作する所あり、功、神明に侔く、利用 厚生の道、ここにおいてか立ち、しかうして万世その徳を 被らざるはなし。いはゆる伏羲・神農・黄帝は、みな聖人 なり。然れどもその時に方りて、正徳の道いまだ立たず、 礼楽いまだ興らず、後世、得て祖述するところなし。堯舜 に至りて、礼楽を制作し、しかうして正徳の道初めて成り、 君子は以て徳を成し、小人は以て俗を成し、刑措きて用ひ ず、天下大いに治まり、王道ここに肇まる」〔『弁名』聖 1 (『大系 36 荻生徂徠』)64 頁〕。その他、先王が「道」を 創ったことについての叙述は『徂徠先生答問書』中〔(島 田編『全集1』)478‐479 頁〕にも見え、「道」が「自然」 であるように思えるのは、先王の制作が巧みだったためだ と考察されている。 10. 『弁名』聖 1(『大系 36 荻生徂徠』)64 頁。 11. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)16 頁。 12. 本稿 注 4 を参照。 13. 『徂徠先生答問書』(島田編『全集 1』)451 頁。 14. 丸山眞男『日本政治思想史研究』新装版、238 頁。この ような理解に対し、平石直昭氏は、聖人の「あくまで人間 に過ぎない」事を取り上げて、敬するしか出来ない「不可 知の天」の下、いったいどうやって歴史的存在である聖人 自身が普遍妥当性を得たのかを疑問視する。彼岸性や絶対 的人格を聖人に求めるとき、聖人は天に相対化されて考え られていると言え、そうであるならばここで聖人の道に普 遍妥当性を与えているのは天であり、聖人という歴史的存 在ではないと考えられるとする〔平石直昭「戦中・戦後徂 徠論批判―初期丸山・吉川両学説の検討を中心に―」(『社 会科学研究』第三九巻・東京大学社会科学研究所・1987) 110 頁〕。平石氏の述べるように、先王に制作を可能にさ せた「聡明叡智の徳」は「天」に由来しているが、「道」 の正当性は背後にある「天」ではなく、「聡明叡智の徳あ りと言へども、まさにいづくんこれを用ひんとするか。か つ先王のこの道を立つるや仁を以てす。」〔『弁名』仁 1(『大 系 36 荻生徂徠』)54 頁〕とあるように、先王の「仁」と いう方向付けであり、「制作」という事実であると発表者 德重 公美:徂徠学における〈主体性〉の考察 254 は考えており、本論においても丸山氏の説に沿っている。 15. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)67 頁。 16. 『弁名』(『大系 36 荻生徂徠』)144 頁。 17. 「子は男子の美称にして、これに尚ふるに君を以てす。 君なる者は下を治むる者なり。士大夫はみな民を治むるを 以て職となす。」『弁名』君子小人 1(『大系 36 荻生徂徠』) 181 頁。 18. 『弁名』(『大系 36 荻生徂徠』)170 頁。 19. 「制度ヲ立替エンコト、珍シキコトニアラズ。…聖人ニ 法リ古ヲ稽ヘテ、制度ヲ立替タランニハ、世界新シクナリ テ、政道安ラカニ行ハルベシ。」『太平策』(『大系 36 荻生 徂徠』)484 頁。 20. 『弁名』(『大系 36 荻生徂徠』)170 頁。 21. 「仁なる者は、人に長となり民を安んずるの徳を謂ふな り。」『弁名』仁 1(『大系 36 荻生徂徠』)53 頁。 22. 『論語徴』(小川環樹 訳注『東洋文庫 論語徴1』平凡 社・1994、以下略記する)74 頁。 23. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)17 頁。 24. 『弁名』(『大系 36 荻生徂徠』)53 頁。 25. 『論語徴』(小川環樹 訳注『東洋文庫 論語徴 1』)74 頁。 26. 「民の務むる所は、生を営むに在り」『弁名』君子小人 2 (『大系 36 荻生徂徠』)182 頁。 27. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)24 頁。引用中の「椎鑿 刀鋸」は「つち・のみ・はもの・のこぎり」のこと。「寒 熱補瀉」は「ひやす・暖める・滋養物を与える・吐瀉させ る」のこと。 28. 「凡ソ人タル者ノ生レ附、其器量・才智、人々各別ナル 者ニテ、一様ナル人ハ天地ノ間ニ無之」『政談』(『大系 36 荻生徂徠』)375 頁。 29. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)17 頁。 30. 『弁道』(『大系 36 荻生徂徠』)18 頁。 31. 「各其自の役をのみいたし候へ共。相互ひに助けあひて。 一色かけ候ても国土は立不申候。人はもろすぎなる物にて。 はなればなれに別なる物にては無之候へば。満世界の人こ とごとく人君の民の父母となり給ふを助け候役人に候。」 『徂徠先生答問書』(島田編『全集 1』)430 頁。 32. 本郷隆盛「荻生徂徠の公私観と政治思想」(『日本思想史 学』第 22 号・日本思想史学会・1990)85 頁。 とくしげ くみ/お茶の水女子大学大学院 人間文化創成科学研究科 比較社会文化学専攻 博士課程 2 年
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