伴侣动物遗伝性疾患
伴侶動物の遺伝性疾患
小川博之
,東京大学大学院農学生命科学研究科高度医療科学研究室,
伴侶動物における遺伝性疾患の重要性
イヌジステンパーウイルスや犬糸状虫などの急性あるいは慢性の感染症、交通事故、中毒など、長い間伴侶動物の命を脅かしてきた後天性疾患の予防や治療が広く行き渡るに連れてこれらの疾患による死亡率は減少し、相対的に先天性、体質性、遺伝性の疾患が伴侶動物診療の中心を占めるようになった。近縁個体内交配の多い伴侶動物の繁殖形態がこの傾向を助長している。このような疾患に対して獣医療はまだ非力で、この十数年の分子生物学の著しい進歩をもってしても、原因遺伝子変異が解明されて遺伝子診断が可能な疾患は少なく、遺伝子治療も実用化されていない。しかし、今後、遺伝子診断可能な疾患は急速に増加し、約40年前に、生化学検査が医学、獣医学を大きく変えたように、近い将来、分子生物学の技術、知識が伴侶動物の医療を大きく変えるものと予想される。
遺伝性疾患の定義と分類
遺伝的に決定されるさまざまな特徴,形態的なもの、機能的なものを含めて形質 traitという,を、臨床獣医学的には遺伝性疾患,hereditary disease,として取り扱う。遺伝性疾患は以下のように分類されている。
,,染色体異常,Chromosomal disorders, 犬は38対の常染色体と,本の性染色体,78XXと78XY,、猫は18対の常染色体と,本の性染色体,38XXと38XY,を持つ。染色体の異常は構成の異常、すなわち染色体数の異常,トリソミー、モノソミー,と、個々の染色体にみられる構造の異常,欠失、重複、逆位、転座,に大別できる。伴侶動物の染色体異常に関する報告は少ない。その理由として、染色体異常には致死的なものが多いこと、日常診療で染色体検査が行われていないことがあげられる。伴侶動物の染色体異常としてよく知られているのは、三毛猫の雄で、多くがXXY染色体を持ち、通常不妊である。ヒトでは、流産胎児に高率に染色体異常が認められている。
,,単一遺伝子疾患,Mendelian or single gene disorders,
ある特定の遺伝子の変異が直接発症の原因となる疾患を云う。変異としては、点突然変異,ミスセンス、ナンセンス、フレームシフト,、欠失、挿入、重複、逆位などがある。単一遺伝子疾患は、変異遺伝子のある遺伝子座によって、常染色体性遺伝と伴性遺伝に、また、異型,ヘテロ,接合体で症状が認められるか否かで優性遺伝と劣性遺伝に分かれる。Y染色体上にはごくわずかな遺伝子しか存在しないため、伴性遺伝はふつうX染色体性であ
る。X染色体性劣性遺伝の代表的な疾患として血友病Aと血友病B,第VIII、第IX因子欠乏症,がある。常染色体性に遺伝する疾患の中で優性に遺伝する疾患は、疾患遺伝子があれば必ず発症するため、繁殖に用いられることも少なく、群内で異常遺伝子が拡散することは稀である。一方、劣性に遺伝する疾患では、ヘテロ接合体は発症しないため繁殖にも使用されて群内に異常遺伝子を拡散することになり、発症個体,ホモ接合体,が目立つ頃には広範に疾患が広がっていることが多い。
,,多因子疾患,Multifactorial disorders, Complex genetic diseases, Common diseases,
複数の遺伝子,疾患感受性遺伝子,と環境要因が合わさって発症すると考えられている疾患の総称で、種々の奇形、股異形成,CHD,、糖尿病など臨床上遭遇する多くの疾患がこの範疇に含まれる。これらの疾患の複雑な病態を解明することは、われわれに課された大きな課題であるが、現状では疾患の予防、治療に直接つながるような分子レベルの知見は得られていない。
遺伝性疾患の臨床
古くから、動物の遺伝性疾患が無かった訳でも、知られていなかった訳でもないが、この10年余の間に動物医療,産業動物を含めて,におけるその重要性は飛躍的に増大し、小動物,内科、外科,、牛、馬の臨床教科書には遺伝性疾患の長いリストが掲載されるようになった。リスト上の遺伝性疾患の中で原因遺伝子が特定されて、遺伝子診断が可能となっている疾患は、現時点で犬猫合わせて74品種38疾患であり、まだまだ少ないが、その数は研究の進歩とともに日々増加している,表,、,,。これらの情報は、検査センター、大学、ケンネルクラブなどによりインターネット上で公開されている,表,,。
遺伝性疾患も診断手順は他の疾患と変わるところはないが、品種あるいは臓器固有の既知の遺伝性疾患を網羅したリストを照合しながら診療を進めることによって早期に診断にたどり着ける可能性がある。疾患の遺伝性を証明することは容易でないが、同腹子を含めて家系内における同一疾患の発症、発症時期の一致、発症後の病状進行などがあれば、遺伝性疾患の疑いが強い。遺伝性疾患の可能性があれば、血統書を調べ,家系内発症の状況から遺伝様式を推定するとともに、ゲノムDNAを採取、保存しておくことが重要である。DNAサンプル遺伝子型検査可能な疾患では診断に使用し、遺伝子変異が明らかでないものについては、冷凍して保存する。リストにあがっていない遺伝性疾患の原因を分子レベルで解明するためには、大学等、研究施設の協力が欠かせない。
遺伝子型検査
遺伝子型検査は、原因遺伝子変異を特異的に検出する検査法で、単一遺伝子疾患では非常に有用な診断法であるが、現状ではCHDなどの多因子疾患には適用できない。現時点で
は、国内に検査施設がなく海外の検査施設や大学に依存しなければならないこと、遺伝子型検査で診断可能な疾患がまだ少ないことなどの欠点はあるが、以下のように、他の診断法に比べてさまざまな利点を持っている。
,,検査に使用するゲノムDNAは非常に安定であり、かつ少量で診断が可能である。
,,年齢に左右されないため、新生子等でも診断可能である。
,,ゲノムDNAは有核細胞があれば簡単に採取できる。
,血液、口腔粘膜、毛根、精液など、フォルマリン処理検体も使用可能,
,,操作は比較的簡単で、正しい対照を置けば確実な検査結果が得られる。
,,劣性遺伝性疾患において、発症,劣性ホモ,個体ばかりでなく保因,ヘテロ,個体
を検出することができる。これは、遺伝子型検査の最大の利点である。
なお、原因となる遺伝子変異が確定していない遺伝性疾患の中にも、直接遺伝子変異を検出するのでなく原因変異遺伝子に連鎖するDNAマーカーの多型を利用した連鎖解析による遺伝子型検査を使用して診断するものもある。今後、海外の情報を利用しながら、我が国特有の遺伝性疾患について原因遺伝子変異を明らかにするための研究を推進するとともに、国内での検査体制、登録体制を整えることが必要である。
遺伝性疾患の治療と予防
遺伝性疾患は、症状が軽微で治療を要しないものから致死的経過をとるものまでさまざまである。遺伝子治療は、重度の症状を示す遺伝性疾患に対して研究的に行われているが、臨床的に応用することは現実的でなく、遺伝性疾患の治療としては対症療法が中心となる。形態形成に関わる遺伝性疾患に対しては、停留精巣、ヘルニア、動脈管開存等のように外科療法が適応となることもある。一方、酵素欠損など量的異常を示す遺伝性疾患では、血友病に対する輸血のように欠乏成分を補充することによって治療できる。
しかしながら、伴侶動物は、人に比べて寿命が短く、人為的な交配が可能であることを考えると、既に遺伝性疾患を発症した動物を治療しつつ、予防に主体を置いた対策を講ずることが望ましい。優性に遺伝する疾患では、発症した動物を繁殖に使用しなければ、それ以上疾患が発生することはない。しかし、臨床上問題となることの多い劣性遺伝性疾患では、ヘテロ個体は症状を示さないため、発症個体を交配に使用しないだけでは、いつまでもヘテロ個体の子孫が群内に残ることになる。ヘテロ,保因,個体が特定できれば、交配様式を変えるだけで、次世代から疾患をなくすことが可能となる。従来の生化学的診断
法等でも、ある程度保因個体を特定することは可能であるが、確実性に乏しい。現在では、
遺伝子型検査のできる疾患であれば、ヘテロ個体を確実に診断し適切な繁殖計画を立てれ
ば、疾患をなくすことができる。