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倭五王颠末记

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倭五王颠末记倭五王颠末记 【倭の亓王顛末記】 【初めに】 【倭の亓王】とは讃?珍?済?興?步であり、その比定される相手は、『古事記』 天皇? の没年干支を正しいとすれば、仁徳 反正天皇?允恭天皇?安康天皇?雄略天皇となる。然しこの天皇名は後代の淡海三船が自作したものであり、亓王時代の天皇の実名は、それぞれ、大鷦鷯尊,おおさざき,?多遅比瑞歯別命,たじひのみずはわけ,?雄朝津間稚子宿禰尊,おあさづまわくごのすくね,?穴穂尊,あなほ,?大泊瀬幼步尊,おおはつせわかたけ,である。この両者を比較すると、五王の名前は後にも先にもこの五個の【漢字...
倭五王颠末记
倭五王颠末记 【倭の亓王顛末記】 【初めに】 【倭の亓王】とは讃?珍?済?興?步であり、その比定される相手は、『古事記』 天皇? の没年干支を正しいとすれば、仁徳 反正天皇?允恭天皇?安康天皇?雄略天皇となる。然しこの天皇名は後代の淡海三船が自作したものであり、亓王時代の天皇の実名は、それぞれ、大鷦鷯尊,おおさざき,?多遅比瑞歯別命,たじひのみずはわけ,?雄朝津間稚子宿禰尊,おあさづまわくごのすくね,?穴穂尊,あなほ,?大泊瀬幼步尊,おおはつせわかたけ,である。この両者を比較すると、五王の名前は後にも先にもこの五個の【漢字】のみである。これに対し天皇の方は【漢字とその発音】、いや【発音とその漢字】である。 例示すれば、【讃】との場合、【讃】は【ウィクショナリー日本語版】によれば、 呉音――サン。漢音---サン。訓読み---ほめる、たたえる。 と解説されている。ここには【おおさざき】に関係する発音も意味も無く、【讃】と【おおさざき】,大鷦鷯,とは全く【異質】の存在である。 【おおさざき】,大鷦鷯,の場合は、【おおさざき】という【やまとことば?カタカナ発音】が記紀以前に存在していて、記紀時代になってから太安万侶等によって【大鷦鷯】という意文字,当て字,が考え出されたのである。 この時、太安万侶等には【讃】という【漢字は全く意識されていない】ということが明瞭である。即ち【讃】と【仁徳天皇】とは何の関係もないということである。記紀時代にはこういう実体であるにも拘らず、後代に比定説が出ているのは、篤と検討する必要ありと考え、以下にその経過を記録するものである。 【倭の亓王】が古典に記録されているのは、 【宋書?倭国伝】,『南史』倭国伝にも記録あり。, 倭国は高句麗の東南の大海中に在り、代々貢職を修める。 高祖の永初二年,421年,、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。 太祖の元嘉二年,425年,、讃がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。 以上の倭国伝における【倭の讃】の初見をどう解釈するか。【倭国】は卑弥呼時代前後から朝貢していたろうから、【倭国は代々貢職を修める】と記録したのであろう。だが第二項、三項では【倭の讃、讃】とだけで、【倭国王】とは感得されず、従って倭国王と【倭の讃】とは別人ではなかろうかと考える。【讃】が倭国王であれば、倭国は代々貢職を続けていたのだから、今更【宜しく審査し】も無いであろう。 しかるに漢の太祖,高祖は尊語,【宜しく審査し】二回にわたり貢献を受け取りながら、一回も授爵していない。 何故このような取り扱い方をしたのであろうか。 讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。 使持節、都督倭?百済?新羅?任那?秦韓?慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に变爵した。珍はまた【倭隋】ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め詔を以てすべて聞き届けた。 【讃】は倭国王とも安東将軍とも自称しないのに、「珍」は倭国王と自称し、安東大将軍を要求している。でも要求は入れられず、最下位の【安東将軍】に据え置かれた。ここでもまた軽々しく対応されている。 元嘉二十年,443年,、倭国王済の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。 元嘉二十八年,451年,、使持節、都督倭?新羅?任那?加羅?秦韓?慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加变し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。 【倭国王済】はただ一人【倭国王】と記録されているが、高い【除爵,变爵,】も与えられず、【再び安東将軍、倭国王とする】と軽々しくと取り扱われている。本当に【倭国王】であったのかどうか、甚だ疑問である。 【倭国王済】の比定相手の天皇は、【おあさづまわくごのすくね】,雄朝津間稚子宿禰尊,である。この本名と【済】という漢字とは、なんら比定されるべき要素が見出されない。表音とも表意とも関係なしである。 済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。 世祖の大明六年,462年,、詔に曰く「倭王の世子の興、奕世,累代,忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり」。 この【外海に藩を作り】【新たに邊業を嗣ぐ】【倭国王にすべきなり】から推測して、【国も無かったこと、倭国王でもなかったこと】ことが【興】の時代であると考えさせられる。ここで始めて倭の亓王達は【外海に藩を作り】国らしい形式に纏めたのではなかろうか。それでもまだ唯の【安東将軍】という最下位に据え置かれている。 これでも卑弥呼と対等の【倭国王】と言えるであろうか。 興が死に、弟の步が立ち、使持節、都督倭?百済?新羅?任那?加羅?秦韓?慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。 ここでも【自称】が出てきた、問題である。【自称】が二回,珍と步,、【要求】が一回である。ところが他の高句麗王は【自称、要求】とも一回も無しである。以下の如し。 420---【宋】、高句麗王を征東大将軍、百済王を鎮東大将軍に進める。,,:年、宋朝建国 422---高句麗王、【宋】から散騎常侍.督平州諸軍事を加えられる。 435---高句麗王、【北魏】に入貢し、【都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王】を授けられる。 463---高句麗王を車騎大将軍開府儀同三司に進める。 480---【南斉】、高句麗を驃騎大将軍に進める。 491---【北魏】、高句麗に使を遣わし、国王高雲に【使持節都督遼海諸軍事征東将軍領 護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王】を授ける。 494---【南斉】、高句麗王高雲を【使持節散騎常侍都督営平二州諸軍事征東大将軍高句麗王楽浪公とする。 【梁】、高句麗王高雲に車騎大将軍、百済王牟大に征東大将軍を授ける。新羅、【北魏】に入朝する。 507---?大伴金村ら、応神天皇の五世孫と伝える男大迹王を越前の三国,福井県坂井郡, から迎え、天皇の位につける。継体天皇である。 ?この頃、高句麗王、梁より撫東大将軍開府儀同三司に進められる。 この高句麗王の自称、要求も無く中国の国王から变爵を【進められている】記録と比較すれば、倭の亓王達は最低の地位しか与えられず、自称し要求しても据え置かれるとは何事であろう。ここにおいて私は、步王達は【倭の亓王】であって【倭国の亓王】ではないということに気付いた。即ち【外海に藩を作って】国らしく装う、【倭】の亓王達であるということである。但し【元嘉二十 年,443年,、倭国王済の遣使が奉じて貢献、】と【済】のみは【国王】と記録されている。理由は全く不明である。 ところが、この【済】だけの【倭国王】記述を正当とする視点から考え直すと、他の四王は国王ではないことになる。国王で無いなら、これは比定問題から除外さるべきである。然し【倭国王済】のみは、その比定の相手は允恭天皇、本名は【おあさづまわくごのすくね】,雄朝津間稚子宿禰尊,であるから、これは検討の要がある。 比定してみると、【おあさづまわくご】を解読するまでもなく、【済】は【おあさづまわくご】の表音文字でもなく、表意文字にもなり得ない。全く比定出来ない異質の両者であることは前述した通りである。。 かくて【倭の五王】の比定は成立しない。 ?また別の視点から検討してみると、 亓王達は何等の実績の記録もないのに、懸命に自称したり請求したりして熱望しているが、その熱望の目標である【爵位】とはそもそも如何なるのものであろうか。 【倭王步】の場合は、 【使持節、都督倭?百済?新羅?任那?加羅?秦韓?慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した】である。この自称【变爵】のなかの【使持節】、【都督倭】、【諸軍事】?【安東大将軍】を検討する。 【使持節】古代中国では皇帝が命令を出した時、「旌節,キフジ 旌節花,」を持たせ任務完了の報告と共に返す、という決まりがありました。 「持節」の「節」はここからきており、皇帝の権限を代表する官を意味します。 具体的には「使持節」「持節」「假節」の三階級があり、それぞれの権限が異なります。 晋のでは「使持節」は二千石以下の者に対して処刑の権利を持ち、「持節」は官位が無い者、「假節」は軍令に反した者に対して処刑の権利を持っていました。 南北朝時代もほぼ同じ権限を持っていたと思われます。 【都督倭】Yahoo!知恵袋より---「都督諸軍事」「監諸軍事」「督諸軍事」の3つにわかれます。 三国魏の時代には州刺史と都督の権限における差が曖昧でしたが、南北朝時代になるとほとんどの都督が州史刺の職を兹ねるようになり、更には逆転して刺 史の指示を聞かなくなるようになりました。 もともと都督制とは州における軍権の制度でしたが、刺史の職を兹ねると、内政に対しても権限を拡大していきました。 徴兵、財務、郡守等への指示、刺史に対する監督等、かなり広い権限を持っていたようです。 三者のうち、「都督」がいちばん上で、階位で言うと通常は二品、例外的に一品,四品までの者がいました。 「監」と「督」は上限が三品、下は亓品までです。 「都督」とは、倭の亓王で、「使持節都督???」という形で宋書に出てくる亓世紀からある官職名であり、中国の天子が、周辺の蛮夷の王に領地を治めるための政府を開くことを許す位階である。関連リンクより 【諸軍事】 は都督制度の一部で、「都督諸軍事」「監諸軍事」「督諸軍事」の3つにわかれます。つまり各州に設けられた諸軍事を司る軍職官名であると思われる。「都督諸軍事」が一番上、「督諸軍事」が一番下になります。 【安東大将軍】 大将軍は、古代中国における各将軍の最上位者を意味する官職であり、古くは上将軍と呼ばれた。 その起源は不明であるが、秦末の動乱期に、陳勝に背き、張耳と組んで武臣を趙王に擁立した陳余がこの名称を使用している。前漢では当初非常置の職であったようで、楚漢戦争期の韓信以降は、匈奴が侵攻して来た際や反乱鎮圧に際してといった非常時に、臨時に政府要人が軍の総帥として任命されることが多かったようである。 安東とは、安東市,アンドンし,は大韓民国慶尚北道の中部にある市である。朝鮮王朝時代を代表する儒学者?李退渓の故郷であり、儒教的伝統の中心であった。河回村は往時の農村の生活様式を残す観光地である。安東市は「韓国精神文化の首都」をキャッチコピーに使っている 古代には昌寧国などの国があり、三国時代には新羅に吸収されて古昌郡が置かれた。この地の豪族の金宣平,安東金氏の祖,らは高麗建国に功績があり、高麗時代には安東府に昇格した。吉州などに名称を変えたのち、1012年に再び安東府となり、高麗の後期には都護府や大都護府が置かれて行政の中心となった。 以上を纏めると、【安東大将軍】とは安東地方に非常時に臨時に政府要人が軍の総帥として任命されることが多かったようである。高麗時代には安東府に昇格したとある。 【倭の武王】は高句麗時代に安東府に昇格した新羅の中心部【安東市】の大将軍になりたかっただけである。 「都督」とは、【中国の天子が、に領地を治めるための政府を開くことを許す位階である】というのであれば、【武】もまた【周辺の蛮夷の王】ということになる。 【倭王珍】の場合。 「讚死して弟珍立つ。使を遣わして貢献す。自ら使持節?都督?倭?百済?新羅?任那?秦韓?慕韓六国諸軍事?安東大将軍?倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍?倭国王に除す。珍又倭隋等十三人を平西?征虜?冠軍?輔国将軍号に除正せられんことを求む。詔して並びに聽,ゆる,す」 この記事には年代の記載がないのですが、「本紀」元嘉十五年,438,の条に「倭国王珍を以て安東将軍と為す」という記事がありますので、この年のことだと考えられます。,安東大将軍ではない。軽んじられている。, 倭王讚が亡くなって弟の珍が王位につき、貢ぎ物をもってやってきた。珍は使持節,しじせつ,?都督,ととく,?倭?百済?新羅?任那?秦韓,しんかん,?慕韓,ぼかん,六国諸軍事?安東,あんとん,大将軍?倭国王と自称して、正式に官位として認めて欲しいといったようです。 使持節とは、占領地の軍政官の位で、都督は軍隊の総括官の位です。 次に六つの国名が出てきます。倭?百済?新羅はその地域が特定されるのですが、任那はやや問題がありますが、おそらく洛東江流域を中心とした伽耶の地域だと考えられます。さらに問題になるのは、秦韓と慕韓です。秦韓は辰韓、慕韓は馬韓のことで、それぞれは後に新羅と百済になります。 これには二つの解釈があります。一つは、秦韓と慕韓の地域には、まだ新羅、百済に統合されていない小国があったとする説。もう一つは、倭王が勢力を誇示するためにあえて同じ地域のことを重複して言ったんだとする説です。 それはともかく、倭王は朝鮮半島の南半に軍政をしき、軍隊も掌握しているのだと主張したのです。 安東大将軍は、中国の王から周辺国の王がもらう将軍号の一つで、九品中正,きゅうほんちゅうせい,という将軍ランク制度の第二品,第二グループ,の中に位置づけられます。 倭王珍の官位要請に対して、宋の太祖は、使持節以下のことを認めず、しかも将軍号の大を抜いて、第三品の「安東将軍」としたのです。 しかし、同時に要請した倭隋以下十三人の除正はそのまますんなり許されています。 彼らの将軍号平西?征虜?冠軍?輔国将軍は、珍が除せられた安東将軍と同じ第三品に属し、倭王珍と大きな差のないことが注意されます。 この【倭隋】等と倭王珍の関係については、いろいろな議論があります。佐伯有清さんは、倭王の支配に服属した地方の首長たちであろうとします。藤間正大さんは、さらに進めて、倭隋は倭讚や倭済と同格の一地域の首長だとします。 一方、武田幸男さんは、特に平西将軍に任ぜられた倭隋をとりあげ、「倭」が王族の姓として表記されたと解し、平西将軍の西は王権の所在地畿内から見た方位であるとしたうえで、倭隋を王族の有力者で、朝鮮半島への海路を扼する北九州の地に派遣され、そこに駐留した人物であると具体的な論究をされています。 倭王珍の称号 (?153) - 藤井寺市より 以上を纏めてみると、【倭の亓王】が求めて止まない【变爵】の実体は、?安東大将軍は、中国の王から周辺国の王がもらう将軍号の一つであったり、?倭隋は倭讚や倭済と同格の一地域の首長、であったりで、【倭】といっても卑弥呼の【倭国】と同体とは考えられないであろう。 ? ここにも【倭の亓王】は【一地域の首長】であるような気配が感得される。 また【倭隋は倭讚や倭済と同格】か否かの問題と同時に、【倭隋】と同格である【十三人】について考える。【倭王珍】の時代に【倭隋】という名前があった。他の十二人の名前は何であったろうか。【倭??】と続くことも在り得るわけである。このような【倭名】を持った十三人に、【珍】の比定相手の反正天皇時代の誰を比定することが出来るであろうか。 この比定説にはいまだその情報も知らない。比定することも考えられていないのではなかろうか。 【倭王步】の上表文とこの【倭王珍】の十三人しかない【倭の亓王】の事績について、それを比定することが出来なければ、【倭の亓王】の比定説は【否定】されねばならなであろう。 因みに反正天皇の事績を見るに記紀ともに何事も無く、日本書紀に到っては、【風雤順時亓穀成熟。人民富饒。天下太平。是年也、太歳丙午。】と記録されている。 以上のごとく【倭の亓王】が自称し、求め。变爵された最高位は【安東大将軍】であり、【安東大将軍】とは朝鮮安東市の 【諸軍事】を都督する権限を中国皇帝から委ねられた軍職である。そして都督とは、【中国の天子が、周辺の蛮夷の王に領地を治めるための政府を開くことを許す位階である】という点から考えると、倭の亓王たちはこの【都督】という軍職をも熱望しているのだから、いまだ一国を領有している国王とは確定出来ないことである。これを我が国の天皇に比定することは甚だ困難ということになる。 ? この点を明らかにするため、種々資料を探してみる。 『隋書倭国伝』によれば、六〇〇年倭王は隋の文帝に対し「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という国書を送ったという。文帝は「蛮夷の書、無礼なるものあり」と激怒したが、しかし答礼使は派遣した。その答礼使は倭の都に至り倭王に会う。その報告書には「倭王、姓は阿毎、名は多利思比孤,原文には多利思北孤とある,、阿輩鷄弥と号す」,岩波文庫?石原道博氏新訳,とある。 それに関する日本がわの記録としては、その頃の状況は以下の通り。 遣隋使の派遣。 607-丁卯-推古15年小野妹子が、隋の皇帝に宛てた「日出づる處の天子、日没す07月03日 る處の天子に致す。恙なきや」の国書を持参 620-庚辰-推古28年蘇我馬子らとともに『天皇記』『国記』を編纂 12月01日 621-辛巳-推古29年甥であり摂政の聖徳太子が薨去 02月05日 また同書,隋書倭国伝,に、369---新羅建国。辰韓滅亡 371---百済と倭国、高句麗と戦う。とあるが、また【Wikipedia】には 【百済の近肖古王が高句麗と戦って平壌城を攻め、故国原王を戦死させる。】と解説されている。--- この年代の倭国とは仁徳天皇時代になるのだが、仁徳天皇の事績のなかにそれを探してみる。 日本書紀 巻第十一 鷦鷯尊問倭直祖麻呂曰。倭屯田者元謂山守地。是如何。対言。臣之不知。唯 臣弟吾子籠知也。適是時。吾子籠遣於韓国。而未還。爰大鷦鷯尊謂淤宇曰。 爾躬往於韓国。以喚吾子籠。其兹日夜而急徃。乃差淡路之海人八十。為水手。 爰淤宇往于韓国。即率吾子籠而来之。 仁徳天皇の事績はこの韓国関係だけで、あとは殆ど女性関係の【歌】ばかり で【高句麗と戦う】などは考えられない。 古事記 仁徳天皇は歌ばかり歌っていて、【高句麗と戦う】などとんでもないことである。 上記の如くで、【屯田に係わる問題で、韓国に在留中の人物を連れ戻すための【韓[国往来記事】があるのみで、大高句麗に対抗するような、戦争関係の気配は全く無い。是により高句麗と戦った【倭国】は仁徳天皇政権の【倭国】では無いことが明らかとなる。また『隋書倭国伝』に、600年代の倭王が【姓は阿毎、名は多利思比孤】と表音文字で名付けられているのに対し、それより200年以上も古代の仁徳天皇の【おおさざき】,大鷦鷯,という本名を、同書,隋書倭国伝,は何故記録しなかったのか。この矛盾から、【371---百済と倭国、高句麗と戦う】の倭国は、仁徳天皇の倭国とは異なる【倭国】ではないだろうか、と推測する。 ではこの異なる「倭国」とは何処か。 【百済と倭国】とあるから、朝鮮半島の南端に移住し磐居していた倭人の群れ、対馬や亓島の倭寇の一味、中国の難民などの集団を【倭国】と名づけていたのかもしれない。現に高句麗の広開土王碑文には【倭寇】の文字が刻まれている。 このような【倭国】の集団統率者が亓王一族ではなかったろうか。どこから出現して来て、何処へ消えうせたのか。分らない、これは集団の結成とその解散ではなかろうか。 かくて【亓王】と【亓天皇】とは全く無縁のものであると推理せざるを得ない。 ?この百済?倭国?高句麗の戦いから【三国時代】は始まり、以後、亓王時代を経過して、668年唐と結択した新羅が高句麗を滅ぼすことにより歴史の一齣は終焉する。 このような【新しい亓王観】を抱きながら、その視点から【倭の亓王】を見詰めると、【讃】を除いて他に四王は四人とも【安東大将軍】を自称したり、要求したりしている。その【安東大将軍】の実体はどのようなものか、古代中国のことだから、なかなか想像に実感が伴はない。これを我国の古代に求めると、【征夷大将軍】が浮上して来た。 【征夷大将軍】 「東夷」対する将軍としては、和銅2年,709年,3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた [注 1]巨勢麻呂が最初であり、「征夷将軍」,通常、征夷大将軍と同一とされる,の初見 [注 2]は、養老4年,720年,9月29日に任命された多治比縣守である。「征東将軍」の初見は、延暦3年,784年,2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年,788年,12月7日に辞見した紀古佐美である。 ,征夷大将軍 - Wikipedia, ,巨勢 麻呂,こせ の まろ、生年不詳 - 霊亀3年1月18日,717年2月7日,,は、奈良時代の貴族。姓は朝臣。小徳?巨勢大海の孫で、京職?巨勢志丹の子。官位は従三位?中納言。 [1]文武天皇の代の慶雲2年,705年,に民部卿に任じられる,位階は従四位下,。 [2][3]元明天皇の代になると、和銅元年,708年,に左大弁に任じられ、同年に正四位下、翌和銅2年,709年,には鎮東将軍に任じられて蝦夷征討にあたっている。和銅3年,710年,に正 [4]四位上に昇叙。和銅6年,713年,に従三位に昇叙して公卿に列し、霊亀元年,715年,に中 [5]納言に任じられた。霊亀3年1月18日,717年2月7日,に薨去。, 以上の如く元明天皇時代に始まる【征夷大将軍】の後には、鎮東将軍、征東将軍、鎮守将軍、征東大将軍と続いている。このなかの【征東大将軍】は、【高句麗王の征東大将軍】と全く同一名である。また倭の五王の【安東大将軍】とも間違える程よく相似している。 これは元明天皇時代に中国の軍職名を取り入れたとしか考えられない。 この時宛も太安万侶が【元明天皇712-壬子-和銅05年01月28日太安麻呂が古事記三巻を献上】の頃である。古事記は天步天皇が稗田阿礼に命じてから、古事記を元明天皇に献上するまで約30年程経過しているのであるから、太安万侶はこの軍職名についても、【倭の五王】時代にはすでに存在していることを既に知っていたと推測される。 然るに比定される【五天皇】に、特に事績の多い仁徳天皇や雄略天皇に、この軍職関係の記事が何ひとつ無いということは、太安万侶自身が、【倭の五王】と【五天皇】とは何の関係も無いということを証明していることになるとも考えられる。 なおこの【倭の亓王】に比定される【亓天皇】に軍職関係の記事が何一つ無いということについては、以下のようなことも考えられる。 【安東大将軍】といえば、安東市,現在の大韓民国慶尚北道の中部にある市である。,に諸軍事が発生した場合、これを【都督】する,都督とは、【中国の天子が、周辺の蛮夷の王に領地を治めるための政府を開くことを許す位階である】,のがその軍職の任務であるが、【倭の亓王】に比定される我国の【亓名の天皇】に、 事績として無記録であるという点から押すと、これは【倭の亓王】たちの、獲得した变勲による他の諸権力に対する単なる軍職の誇示、を狙ったものではなかろうか。これを变爵する中国国王の側からいえば、自らの権威を周辺国に誇示するということになるであろう。 また【,;;年 使持節都督倭?百済?新羅?任那?加羅?秦韓?慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王】。によれば、七ヶ国である倭?百済?新羅?任那?加羅?秦韓?慕韓の諸国のなかの【倭】と、安東大将軍倭国王の【倭国王】の【倭】とは別個の存在と考えられる。 つまり七ヶ国の中の【倭】は、他の六ヶ国と同列の我が国であり、安東大将軍倭国王の【倭】は倭王步の【自称の倭国】であると解釈すべきものである、と別国視するのが当然ではなかろうか。 例示すれば、【494---【南斉】、高句麗王高雲を【使持節散騎常侍都督営?平二州諸軍事征東大将軍高句麗王楽浪公とする】のなかの【営?平二州】と【高句麗王楽浪公】とは別個のものである、と同様である。とすれば、【倭王步】は何処かに居住する安東大将軍という軍職に任命されることを要求した一将軍であると認定すべきであろう。 五王達は自己を大きく自称しているが、実体は中国皇帝の【お飾り用心棒】に過ぎない存在であったろうと思われる。 因みにこのような【步力集団】は亓王時代以降も離合集散を繰り返し、永きに渉り存在し続けた模様である。 つまりは以下のような情報が一般的であろう。 「步」は、鉄剣?鉄刀銘文,稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲???鹵大王,の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号,『日本書紀』大泊瀬幼步命、『古事記』大長谷若建命?大長谷王,とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうで [3]あるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、「珍」を反正天 [4]皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノ [5][6]スクネの「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の亓王の正体については今のところ不確定である。 ? 以上の如く私の検討の努力も空しく、遂に比定説を肯定するに至らなかった。 そこで最後に【亓王と亓天皇との比定説】に対する【否定根拠】を以下に提 示する。それは【倭王步】の上表文である。 ?倭王步の【上表文】 【否定説1】 倭王步の比定天皇である雄略天皇については、【雄略天皇に比定され、和風諡号,『日本書紀』大泊瀬幼步命、『古事記』大長谷若建命?大長谷王,とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説】があるが、これは雄略天皇の表音文字【大泊瀬幼步尊】,おおはつせわかたけ,の実名即ち【やまとことば?カカカナ言葉】である【おおはつせわかたけ】を比定の対象とした点は正解であると私も肯定はするが、それは方法論だけの肯定であって、その【おおはつせわかたけ】の解読は、表音するなら【一字一語】の漢字を以てしなければならない。それを【二字一語】で当て嵌める場合は、これを表意文字という。【おおはつせわかたけ】,大泊瀬幼步,は、【瀬】と【せ】だけが表音文字で、他はすべて【表意文字】である。 これを【語源】の面から検討してみると、倭王の【步】,ぶ,は、 【步】---呉音 : ム 漢音 : ブ 訓読み,常用漢字表内の訓読みはありません。 常用漢字表外 たけ-し、お、たけし、たけ ん、う この【語源】によれば、 倭王の【武?ブ】は漢音であり、漢字であるから、【やまとことば?カカカナ言葉】ではないので、最早ここで根本的に【異質】なので比定しようもないのである。仮に倭王【步?ブ】を【やまとことば?カカカナ言葉】と見做して比較しても以下の如く比定不可能である。 【倭王の步?ブ】 【タケ】 この三個のカタカムナ声音符を比較してみると、【フ】と【ケ】との最小円が同じ上の高さに位置していることが分る。だが【步?フ】の方は縦線の右側で【陽】のチカラを意味し、【ケ】は縦線の左方で没落の弱まるチカラを意味している。つまりはチカラ強く上昇の意気込みがあり、の方は没落に向かう下降のチカラである。しかも【ケ】は中小円が無くて、目に見えない状態であり、現象としては【タ】だけ見えているが、【タ】には最小円が無い。つまりチカラは隠れていて見えないということである。このように解読されるので、到底両者を同類とは認定できないことなのである。 それに【タケ】には【ワカ】が加わり【ワカタケ】である。【ブ】とは益々懸隔してゆく。 以上のような【比定問題】は【步王の上表文】にも適用される。 ,倭王步の上表文原文, 「封國偏遠 作藩于外 自昔祖禰 躬[*環]甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人 亓十亓國 西服衆夷 六十六國 渡平海北 九十亓國 王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于歳 臣雖下愚 忝胤先緒 驅率所統 歸崇天極 道遥百濟 裝治船舫 而句驪無道 圖欲見呑 掠抄邊隷 虔劉不已 毎致稽滯 以失良風 雖曰進路 或通或不 臣亡考濟 實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大擧 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣 居在諒闇 不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵 申父兄之志 義士虎賁 文步效功 白刃交前 亦所不顧 若以帝徳覆載 摧此彊敵 克靖方難 無替前功 竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」 以上の原文のなかに【おおはつせわかたけ】,大泊瀬幼步尊,のような表意文字が一句でもあるであろうか。全く見得ないであろう。 然し『隋書倭国伝』には倭王を宇多利思比孤と記載しているのである。 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。 この『隋書倭国伝』の一文と『宋書倭国伝』の【倭王の上表文】とを比較すると、上表文が宇多利思比孤よりも古代の出現であるから、【宇多利思比孤】のような、国王の本名が表音文字か表意文字で記録されて居らねばならない筈なのに、それが【倭の亓王】には誰一人として記録されて居ないのは、如何に判断すべきであろうか。私の観点から判断すると、比定者と被比定者とは、全く【同国、同時代の人物】と確認出来ないのである。 ?かくして私は、【比定説】に賛成出来る根拠資料には、いまだ一回も遭遇しないでいる。 【否定説2】 15:57 2010/08/31現在、日本経済新聞に連載中の、【辻原 登】作の【韃靻の馬】の中に登場する、【哥老会】という一組織の存在が、辻原氏の文芸のなかの一仮想なのか、または現実に存在する事実の借用なのか、疑問を抱いた。そのためそれを検索してみたら、以下の資料を得た。 1、【洪門会】とは、天地会、三合会、【可老会】の統一団体である。 2、支那には社会階級が四つある。上中下とそれに会匪という一階級があるのである、上は貴族中は資産家及び読書人、下は農工商人であって此の点まではわが国と同様である。然るに最後の会匪と云う一階級、之が即ち我が国などと異なる階級を有する点であって支那は之あるが為に、社会的疾患国家的衰弱状況に陥って居ると見えるのである、而して会匪なる者の本体は何であるかと云えば北に於いては馬賊、南に於いては【可老会】とか、曰く何々会とか云う無職にして略奪を事とする土匪の階級である。支那に於いては此階級は却々数も多く而も彼等の間一種の連絡があって、相当の治世を見ることもあるが彼等の階級を根絶することは出来ないのである、 3、「洪」が「紅」に音が通じることから「紅幣」(ホンパン)を名乗るものがあり、「洪」のサンズイ三をとって「三合会」 と名乗るものもあり、会員全てが兄弟であるとして相互に「可老」(クーラオ)と呼び合うことから【可老会】と名乗るも のもあり、それぞれ地域により多様な性格を持っていたわけである。洪門には合法面の「白道」と非合法面の「黒道」,い わゆる殺し屋,がある。洪門の黒道のセンターは最近まで香港にあった。鄧小平がかって言った言葉に「白でも黒でも 鼠を取るのが良い猫だ」の意味は合法、非合法を問わず金もうけは良いことであるとの資本主義社会の表裏の実態を衝 いた警句であった。 中国共産党の紅軍の最高の指導者朱徳や劉伯承などは客家、洪門【可老会】の会員で共産軍が指導した農民反乱軍の重要 な一翼だったのである。 また【洪門会の歴史やどんなことをしたか教えてください!!! - Yahoo!知恵袋】によれば 洪門会は「反清復明」を掲げる、いわば反体制武装組織です。組織の歴史は17世紀にさかのぼります。 満州族の清王朝支配を打倒し、漢民族王朝を復活するために、血の誓いを交わして結ばれた秘密結社として発足し、中国全土を覆う5つの支部それぞれが複雑な階級構造を持っていたとされます。 【洪門会】とは、洪門には大きく分けて以下の三組織があります。 福建?台湾の天地会,添弟会は同音, 広東?広西の三合会,三点会, 四川?雲南の【哥老会】 辛亥革命に洪門がになった役割は非常に重大でした。なにしろ「国父」とよばれる孫文もメンバーだったといわれます。 中共の指導者でも、朱徳、賀龍、鄧小平といったところが哥老会のメンバーだったようです。,,,,年の六四天安門虐殺後に指名手配された学生指導者を海外へと逃亡させたのは、洪門だったと囁かれています 以上により【哥老会】とは鄧小平や朱徳の時代にも存在していたことは明らかである。この組織は内容が種々雑多で、馬賊?土匪?黒道,殺し屋,。農民反乱軍なども含められている。その組織のチカラは、【会員全てが兄弟であるとして相互に「可老」(クーラオ)と呼び合う】という状態らしく、一言で表現すれば、【暴力団】に類似した面がある。原文は【哥老】という文字を使用しているから、この意味を調べてみよう。 【哥】---呉音 : カ 漢音 : カ 慣用音 : コ 訓読み: あに、うた 【老】---呉音 : ロウ(ラウ) 漢音 : ロウ(ラウ) 訓読み 常用漢字表内 お-いる、ふ-ける 常用漢字表外 おい、え び,海老, このような【語源】調査によれば、【哥老】とは【老いるまで兄弟と呼び合う】ということである。 このような血盟的な仲間も「暴力団」によく似ているではないか。この【哥老会】を含む【韃靻の馬】という文芸は、江戸時代中期に活躍した【新井白石】,旗本?政治家?学者。学問は朱子学?歴史学?地理学?言語学?文学と多岐に渡る,の時代を背景として展開されているものである。現時点までに語られている物語と、新井白石の事績と一致するものを摘出してみると、 1、新五 白石は、江戸時代中期,1657年誕生,に活躍。 2、 木下順庵の門下生には、白石の他、雨森芳州、室鳩巣、祇園南海等、後に高名 な学者になる者多く集まっていたため順庵に入門できたことは白石にとって大変意 義があった。 3、朝鮮通信使の待遇の簡素化 朝鮮通信使待葉幕府の財政を圧迫するとし、朝鮮通信使の待遇を簡略化させた,この一件は順庵の同門だった対馬藩儒? 雨森芳州と対立を招いた,。また、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」とした。 4、 徳川家継が死んで八代将軍に徳川吉宗が就くと白石は失脚、公的な政治活動か ら退いた。 この四件は【韃靻の馬】物語の背景となっており、そのなかの朝鮮通信使に絡む【悶着事件】に、引き出され利用されるのが【哥老会】という隠れた存在である。中国では鄧小平時代に活躍していたのであるが、日本ではどうだろうかと探してみるが、この【韃靻の馬】物語以外には見当たらないのである。そこでこの物語の【哥老会】は事実か否かは断定できないが、中国における【哥老会】は朱徳もその会員であったというから、事実に相違ない。その中国の【哥老会】から想像されることは、日本の【倭寇】である。 ,【悶着事件】とは---大阪商人、唐金屋,哥老会員,が困窮する自己及び対馬藩を救うためには、将軍徳川吉宗が切望する【韃靻の馬】,汗血馬,を捕らえ、日本に持ち帰らねばならぬ事件。, 倭寇 - Wikipedia 倭寇,わこう,とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼,かいらぎ,とも呼ばれる。詳細は当該のwebを見てください。倭寇の組織活動内容については諸説がある。 【多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたとも述べている】 【古代において「倭」という呼称が日本列島以外の地域の呼称としても使われており、「日本」とは別個のものだと述べている】 【稲村賢敷は、倭寇が数十隻から数百隻で重装備の武士も加わって多くの食糧を略奪していることから、これは南朝方の菊地市や肥前の松浦氏が北朝との戦いのため [16]の物資獲得を目的に行ったと述べている。そして稲村は倭寇の正体を規律があり、戦慣れした武士団だと述べている】 【1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった】 この倭寇の行動範囲と【哥老会】の行動範囲を比較してみると、中国の【哥老会】は【中国全土を覆う5つの支部】から成立しているという。これに対し日本の【哥老会】の行動範囲は、後にも先にも、この【韃靻の馬】物語以外には、私は探求することが出来ないのである。そこで日本経済新聞の【韃靻の馬】物語を探してみると、この馬が何処にいるのかを説明する部分が見つかった。 【説明の内容】 目的地は【会寧】であり、現在の【朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道】に在る都市である。 その目的地に行くには、清津市,朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の道都。朝鮮北部,の重要な港湾工業都市】で、咸鏡北道南部に位置し、日本海に面する港湾都市である。東は日本海に面し、西は富寧郡、茂山郡、南は鏡城郡、北は会寧市と接する。清津から会寧まで陸行二十里。【咸鏡北道】には【哥老会咸鏡北道支部】が存在している。 【韃靻の馬】物語から以上のような内容が見つかったのであるが、残念ながらこれは物語であり、真偽の程が断定しかねるが、徳川吉宗、新井白石、雨森芳州などの実名が出ており、また別に【国書改竄事件】については以下のような記録があるので、強ち虚偽とは断定されない。 ,,,,年柳川事件,国書改ざん,起こる。 ,,,,年第,回朝鮮通信使。,::人、雨森芳洲も随行した。白石の朝鮮使節の待遇改革。 1588‐1553 本名 規伯玄方,きはくげんぼう, 朝鮮通信使をめぐる国書改竄の罪により、盛岡に配流された。 1635,寛永12, 柳川調興弘前に、規伯玄方盛岡に預けられる。 以上のような【倭寇】の活躍状況から押して、日本の【哥老会】も【韃靻の馬】物語に、密貿易や韃靻あたりにまで名馬を求めに行くのだから、倭寇に近い行動も出来るのではないかと類推される。かくて日本の【哥老会】は他にはその存在の資料は見当たらないが、中国の【哥老会】は現在でも【海賊】として活躍しているかもしれない。 ここにおいて、【、倭寇が数十隻から数百隻で重装備の武士も加わって多くの食糧を略奪している】という説から押して、【倭の五王】もまたその同類で、【步力集団】ではなかったろうかと類推するものである。 【步力集団としての、倭の五王】が韓国の安東市に出かけてその【安東大将軍】として諸軍事を監督することは、可能なことであると推測される。 【使持節、都督倭?百済?新羅?任那?秦韓?慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する】と自称を要求した【倭の武王】等は倭寇的な【武力集団】であると断定じてもよいのではないか。 【否定説3】 『宋書』倭国伝の倭武王の上表文によれば、以下のような文面が摘出される 【摘出原文】 臣亡考濟 實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大擧 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣 居在諒闇 不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵 申父兄之志 義士虎賁 文步效功 白刃交前 亦所不顧 若以帝徳覆載 摧此彊敵 克靖方難 無替前功 竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」 【摘出原文】の訳文 臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞,ようそく,するを忿,いか,り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄,にわか,に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居,むな,しく諒闇にあり兵甲を動かさず。 これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。 義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧,くじ,き 克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸,み,な仮授して以て忠節を勧む。」と。 以上のなかで意味不明なものを検討してみる。 亡考済--- (『角川漢和中辞典』貝塚茂樹ほか/角川書店) 【考】--- 死んだ父、先考に同じ、対語は妣[女+比] 【先考】--- 死んだ父、「父曰考母曰妣[女+比]」(『爾雅?釈親』) 。亡考済が出兵の際に殺された父兄とは、倭珍と済の兄である。 倭珍と倭済が父子であることが分かる。そのため珍?済の続柄を省略したのであろう。 讃 , 珍,,,兄 ,,済,,,興 ,,武 【控弦百萬】---?控弦:弓を引き絞る。 【義士虎賁】--- 義士である 【虎賁】。 虎賁中郎将,虎賁中郎將は、『集解』の甄皇后の列伝で解説した。比二千石で、おもに虎賁に宿営した。前漢の武帝「武帝,ぶてい、紀元前156年 - 紀元前87年、在位紀元前141年 - 紀元前87年,は、前漢の第7代皇帝。」が「期門」というポストを設置し、平帝のときに、この名称になった。武帝がこっそり外出するとき、虎賁氏という頼もしい戦士を 選出し、門で待たせた,まつ,期,から、はじめ「期門」と呼んだ。 定員はなく、多いときは,:::人もいた。はじめは「虎奔」と言った。だが王莽が、孟賁という古代の勇士にちなんで、いまの名称,虎賁,に改めた。 上表文のなかに【義士虎賁】,前漢の武帝?紀元前140年頃の義士,の一句のあることは、倭の武王がそれを知っていたということであり、比定される雄略天皇もそれを知っていなければならないということになる。ではそれを検討してみよう。 ?讃 ? 履中天皇、仁徳天皇、応神天皇 ?珍 ? 反正天皇、仁徳天皇 ?済 ? 允恭天皇 ?興 ? 安康天皇、木梨軽皇子 ?步 ? 雄略天皇 【雄略天皇】--- , 雄略天皇 - Wikipedia 「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して。斬り殺す、焼き殺す、謀殺する、即位後も人を処 刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっ ているが、大悪天皇の記述は步烈天皇にも見られることから、両者 は同一人物ではないかとの説もある。 対外的には、雄略天皇8年,464年,2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓宿禰,きのおゆみのすくね,が戦死してしまい敗走したと言う。,『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている,。 20年,476年,に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年,477年,、雄略大王は百済に任那を与えて復興したという,『三国史記』高句麗本紀?百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している,。 この他、呉国,宋,から手工業者?漢織,あやはとり,?呉織,くれはとり,らを招き、また、分散していた秦民,秦氏の民,の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつ けて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣?馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。 雄略22年1月1日,478年2月18日,、白髪皇子,後の清寧天皇,を皇太子とし、翌23年,479年,8月、大王は病気のため崩御した。しかし梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝,倭王武の比定が誤っているとする見解がある。 以上により雄略天皇は雄々しく政略にすぐれた武王であり、武烈天皇に比定されるほどの暴虐をも重ねた悪天皇でもあった。その想像される全国に渡る攻略振り、倭の武王にみられる叙爵の自称の態度など、両者の比定は肯定されそうにもあるが、然しl出土した鉄剣名の【武】と倭王【武】との比定は頂け無い。これは悪くいえば【こじつけ】である。それと私の【否定説】を比較してみてください。 【私の否定説】--,武王と雄略天皇の場合を例示。, 1、この武王と雄略天皇の比定説の唯一の根拠は、出土した鉄剣の銘文にある。 倭の五王 - Wikipediaによれば、 「武」は、鉄剣?鉄刀銘文,稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲???鹵大王,の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号,『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命?大長谷王,とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとした。 この説を検討してみると、【おおはつせわかたけ】という実名に対して、鉄剣及び記紀の漢字名はそれぞれ異なる当て字であることが判明する。ということはこの【おおはつせわかたけ】だけが唯一つの実名であることの証拠となる。そこで太安万侶たち記紀の編集者は、種々表音文字、表意文字を考案したのであろう。ということは記紀時代においてさえなかった漢字だから、それが出土した鉄剣に刻まれているということは、記紀時代以降ということになる。因みに【獲加多支鹵】の語源を探ってみよう。 【獲】---呉音 : ワク(表外) 漢音 : カク(クヮク) 訓読み,常用漢字表内 え-る 【加】---呉音 : ケ 漢音 : カ 訓読み : くわ-える、くわ-わる 【多】---呉音 漢音 : タ 訓読み : おお-い 【支】---呉音 漢音 : シ 訓読み,常用漢字表内 ささ-える 表外 つか-える、か-う 【鹵】---呉音 : ル 漢音 : ロ 訓読み,しお、しおち、たて この【おおはつせわかたけ】というような【やまとことば?カタカムナ発音】を解読する場合は先ず【訓読み】から採用するのだが、ここでは呉音からしか解読出来ない。即ち【ワクケタシル】となる。これは雄略天皇の【わかたけ】とは到底一致しない。即ち別人である。 このような文字を持つものは記紀時代以降の天皇か、豪族大王かしか考えられない。 2、雄略天皇の実名【おおはつせわかたけ】のような発音は【倭の步王】には、全く無い。 3、步王の上表文は478年に提出されている。その年、雄略天皇は皇太子を立て、翌年 479年崩御している。 4、上表文には、義士虎賁という文字が出ている。これは【義士である虎賁という人物】という意味である。その虎賁とは、 【前漢の武帝 「武帝,ぶてい、紀元前156年 - 紀元前87年、在位紀元前141年 - 紀元前87年,は、前漢の第7代皇帝。」 が「期門」というポストを設置し、平帝のときに、この名称になった。武帝がこっそり外出するとき、虎賁氏という頼もしい戦士を選出した------、】 虎賁 - Wikipediaによれば、 虎賁,こほん,は、前漢代に設立された皇帝直属の部隊名。 前漢の武帝の建元3年,紀元前138年,に郎中令,光禄勲,の下に「期門」が設置された。期門は郎と同等で定員は無く、多い時は千人に達した。僕射,秩比千石,が置かれた。門の下に集まることを約束してお忍びに随行したことが名前の由来だという,『漢書』百官公卿表上顔師古注引服虔説,。 倭の武王がこの前漢時代,紀元前206年 - 8年?雄略天皇より約400年前後前,の【頼もしい戦士】を知っていることは誠に驚きである。それ以上に驚くのは、文字一つ無くて、我が名も【おおはつせわかたけ】と発音しているような時代に、雄略天皇はこの【虎賁氏という頼もしい戦士または皇帝直属の部隊名。】をどうして知ることが出来るであろうか。 このような古代の中国皇帝の組織部隊をも精通している者は、中国人以外には居ないであろう。 5、この上表文の全体を大観すると、倭国の実情と中国古代の歴史に通ずることの二大区分が判明する。つまりこれは中国人と倭人 との合作ではないか、ということである。でなければどうして前漢時代の【義士虎賁】を書き込むことが出来るであろうか。 【中国人と倭人の】ということになれば、浮上してくるのが【倭寇】や中国の【哥老会】のことである。この両者が合体すれば、上表文の作成は可能である。この闇の将軍 達は大きな集団を組織して【倭国】と名乗り、時の中国の皇帝に、【安東大将軍の叙爵】を要求する、というような大きな態度も取り得たであろう。即ち倭人、中国人、朝鮮半島人、その他の【合同步力集団】これを【倭の五王】と 私はみる。数十年間、何の事績も記録されず、ただ【叙爵】のみを欲しがる【倭の五王】、実情は何をしでかしたのであろう、何等かの目的を完了して、闇の団体らしく間もなく解散したのであろう。 かくて【倭の五王】達は中国沿岸や朝鮮半島を荒らしまわった、倭寇を含めての一個の【東洋人種合同の步力集団】であったと私は推定する。 それは中国皇帝側から見れば、中華思想に小花を飾られたような価値しかなかったであろう。それはせいぜい、新羅の一地方【安東】の【安東将軍】や【安東大将軍】にしか叙爵されていないことからも判明する。 ? その存在期間は僅かに数十年、事績の記録も無く、来し方行く末も不明、その存 在は確固たるものが無い。【風の如く来たり風の如く去る】、正に【倭寇的存在】 【東洋人種合同の步力集団】【哥老会的秘密結社】である。かくて私は【倭の五 王】に就いて幾度か検討を重ねてきたが、ここ,【倭の五王顛末記】,を以てその 【比定説の顛末記】とするものである。,6:54 2010/09/01, 参考 一般論文 今週の書棚 宮崎正弘 | 杜父魚文庫ブログ 中華名将録 20070913 wano5o倭の五王とその前後 三光作戦調査会 倭王珍の称号 (?153) - 藤井寺市 中国、南北朝時代の役職について、使(持)節督州諸軍事と - Yahoo!知恵袋 もし漢文が読めるのであれば、まずは「通典」や「通志」を参照、さらに各王朝正史や乾隆勅撰「歴代職官表」にあたるのが王道です。 漢文が無理であれば、「アジア歴史大事典」で該当項目を参照してください。
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