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日本文学史-日文

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日本文学史-日文第一章第一節   古代前期の文学概観 一.文学背景 1.古代前期  おおかた五世紀ごろから八世紀まで、すなわち文学の発生から794年の平安遷都までの間を指す。日本史で古代前期とは大和、飛鳥、奈良時代とも呼ぶ。その中でも、奈良時代を中心にしている。この時期を上代とも言う。 2.国家の成立  紀元前3世紀に、集団による農耕生活が始まり、各地でだんだん小国家が出てきた。4世紀に、大和朝廷が統一国家成立を成し遂げた。 3.律令制の確立  7世紀に、聖徳太子の改革によって、「憲法17条」が決められた。和を尊び、仏教...
日本文学史-日文
第一章第一節   古代前期の文学概観 一.文学背景 1.古代前期  おおかた五世紀ごろから八世紀まで、すなわち文学の発生から794年の平安遷都までの間を指す。日本史で古代前期とは大和、飛鳥、奈良時代とも呼ぶ。その中でも、奈良時代を中心にしている。この時期を上代とも言う。 2.国家の成立  紀元前3世紀に、集団による農耕生活が始まり、各地でだんだん小国家が出てきた。4世紀に、大和朝廷が統一国家成立を成し遂げた。 3.律令制の確立  7世紀に、聖徳太子の改革によって、「憲法17条」が決められた。和を尊び、仏教を信じ、天皇に服従すべきことなどを強調して、すべてが国家の統治に有利である。しかも、これまでの大王の称にかわって、天皇の称号が用いられるようになった。 4.遣隋使と遣唐使  7世紀から遣隋使と遣唐使が大陸に頻繁に派遣されて、中日両国の交流がとても盛んである。聖徳太子の時、小野妹子が何度も隋に派遣された。奈良朝に入ってから、朝廷がさらに頻繁に遣唐使や留学生を中国に派遣して、日本はどんどん中国大陸から中国文化を吸収した。また、日本の留学生も帰国するに際して、唐から大量の書籍を持って帰る。だから、奈良文化の特徴と言えば、貴族的文化、「唐風」であると言えよう。 二、口承文学の時代から記載文学時代へ   ずっと昔、日本の祖先は祭りを通して、共同体を結んでいった.その当時、文字がなくて、祭りの場で、神々や祖先に対して語られ歌われる神聖な言葉は、口々相伝得るより仕方がなく、長い間、子々孫々に言い継ぎ、歌い継いで、伝承されていった。このように誕生した神話、伝説、歌謡、祝詞などを口承文学と言う。  大和朝廷は国家を統一すると、朝鮮、中国との交流が盛んになった。4世紀ごろに、大陸から漢字が伝わってきた。そして、だんだん実用化され、6世紀ごろに、漢字で表記できるようになり、文学作品も漢字によって、記載されるようになった。これは記載文学の始まりである。 祝詞:古代人は言霊信仰によって、神への祈りの言葉を祝詞と言う。その中には、神事の時群臣に読み聞かせるものとか、祭りの儀式のときに神に祈願するものとか、天皇に上奏して御代の長久を祈るものなどがある。現存するのは「延喜式」の27編、「台記」の別記に収められた「中臣寿詞」の一編を合わせて、計28編である。 宣命:宣命と言うのは、天皇の詔を臣下に伝える和文体の詞章である。漢文体を詔勅と言うが、純粋の和文体で書かれたのを「宣命書き」と言う。「続日本記」の62編は現存する宣命である。 1.記紀文学――「古事記」と「日本書紀」 (1)「古事記」  712年に、太安万侶によって編集されたと言うことである。上、中、下の3巻からなっている。日本語で書かれ、前代の伝説、民衆の生活も含み、そこから古代日本人の考え方や個人感情などを理解することができる。文学性がかなり高い。今まで保存している日本最古の書籍である。  しかし、「古事記」は最高権利者である天皇や皇室などが人民を支配することを目的としているのである。  天地初めてひらけしとき、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次御神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして身をかくしたまひき。                                 ――「古事記」 (2)「日本書紀」  720年に舎人親王などが編集したものである。これは漢文体で書いた30巻よりなる歴史書の形をしたものである。中国の史書にならって、漢文の編年体で書かれたものである。天皇の君主としての地位を正当化する目的で、全体の構想が創作されている。  「古事記」と「日本書紀」は日本文学史の中で、最初の整った本の形であろう。記紀文学は人民大衆の文学ではなく、国家最高権利者である天皇、貴族の文学である。しかし、その中から、当時の地方民衆の生活状況や宗教などがわかり、民俗研究の貴重な資料として、かなり大きな価値がある。  また、「古事記」「日本書紀」には、“まこと”と言う文学意識が芽生えていた。しかし、それは個人或いは人民大衆の思想感情の表れではなく、大和民俗固有の信仰、即ち神への崇拝と言う原始的な信仰をもとに生まれたのである。言い換えれば、この文学意識は写実の文学意識の芽えともいえよう。 2.「風土記」  713年、朝廷が諸国に命じて、その国の地理、産物、伝説などを記させた。日本の最初の地誌である。現在5つがまとまった形で残っている。当時の地方の暮らしを知る手がかりとしても重要である。 3.「懐風藻」  中国大陸文化の強い影響で、日本でもずっと昔から日本人の手によって、数多くの漢詩文がどんどん作られていた。殊に天智天皇が漢詩文を奨励するゆえに、漢詩文の知識や創作が盛んになりつつある。その当時、漢詩の習得こそが官人としての欠かない教養であった。奈良時代には、たくさんの漢詩集が出てきたが、現存しているのは「懐風藻」だけである。 「懐風藻」は751年に、編纂された。編者は淡海三船と言われていたが、定説はない。作者はほとんど当時の貴族階級であった。日本の最古の漢詩集として後世によく知られている。その中には、64人の詩120編が収められ、中国六朝の古体史をまねした作品が多い。作品の中には、中国の儒教の思想が明らかに含まれている。殊に「論語」の中の言葉が大量に引用されていた。そうして、中国の伝統的な文化は日本文学に深い影響を与えたと言っても過言ではない。また、この詩集は「万葉集」の編纂にも深い影響をもたらした。 4.「万葉集」  日本最古の歌集であり、その中に収めている歌は約4500首、紀元340年から奈良末期の759年までの間に作られているものである。450年の長時間にわたっている。大伴家持によって編纂されたものだと言われている。から見ると、雑歌、相聞歌、挽歌、比喩歌、東歌、防人歌などがある。その中には、相聞歌は人間同士の贈答の歌、特に恋愛の歌が多い。挽歌は死者を悼む歌である。雑歌はそれ以外の歌や宴席の歌などいろいろなものがある。東歌は東国の一般庶民の生活から生まれた民謡的な歌であり、防人歌は東国から九州防備のために、派遣された兵士や家族の歌である。また、形式から見ると、長歌、短歌、旋頭歌などがある。本文は全て漢字で持って日本語を書いたものである。これを万葉仮名という。その以来、日本語の表記があった。「万葉集」は一般的に、四期に分けられている。  万葉一期(発生期)舒明天皇(629年)の時代から壬申の乱(672年)前後までの間を指す。歌は集団的な生活背景から、個性的な叙情歌へ変わっていった。特徴としては、感動を直接に表現した素朴な風格である。皇室歌人が圧倒的多いが、その中には、額田王がその中の代表的な歌人である。  大和には 群山あれど とりよろぶ 天の香具山 登りたち 国見をすれば 国原は 煙たちたつ 海原は 鴎たちたつ うまし国ぞ あきつしま 大和の国は                       ――舒明天皇・巻一 万葉二期(発展期)天武、持統、文武の三代にわたる藤原時代から平城京遷都までの約40年。律令国家が発展して、王室も繁栄になってきた。歌の思想内容や表現手法がこの前より複雑になった。その中には、長歌が大いに発展した。特に、柿本人麻呂は万葉中最高の歌人と見られ、長歌、短歌など、後世にたくさんの優れた作品を残してくれた。彼の手によって長歌が完成された。そして、彼は典型的な宮廷詩人で、山部赤人とともに後世に「歌聖」と称されている。  彼の歌は、構想が雄大で、技巧の運用に長じるが、ほとんどその当時の大和朝廷や王室貴族を賛美するものである。  淡路の 野島が先の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす                 ――柿本人麻呂 万葉三期(最盛期)平城京遷都(710年)から天平5年(733年)までの約20年間。この時期は万葉集の最盛期であるから、多くの知識人が出てきた。そして、個性豊かな作品がたくさん作られた。その中に体表的な歌人として、山上憶良、大伴旅人、山部赤人などがいる。特に山上憶良は地位があまり高くないが、彼の歌は内容上に優れたところがあり、子を思う歌や貧窮問答の歌などが、人間味があって、われわれには心から親しい感じが沸いてくるわけである。だから、彼は後世に「思想歌人」と評されている。  この時期の歌は繊細で洗練されているが、一期の素朴さは失われてしまった。 富人の 家の子供 着る身なみ くたし棄つらむ 絹綿らはも        ――山上憶良 あしひきの 山の雫に 妹待つと 吾立ちぬれぬ 山の            ――大津皇子 万葉四期(衰退期)天平6年から759年までの20年間。万葉集時代が終わりを告げ、衰退に歩みつつある。歌は次第に固有の力強さを失って、理知的、感傷的となり、繊細優美な情趣を尊ぶようになった。体表的な歌人は大伴家持である。彼は759年に「万葉集」の編纂を完成したので、「万葉集」の集大成者とも言えよう。  要するに、「万葉集」は日本古代における一つの偉大な作品として、芸術的にも、思想的にも、優れたところがある。また、われわれはこの作品を通して、日本古代の文化思想、社会風俗、人間関係、両性関係、それに、古代の農民生活、兵役関係などの面影を見ることもできる。さらに、外来文化摂取の旺盛な意欲と伝統的文化の強い生命力との作用が均衡になっており、古代国家上昇期の社会現実が生き生きと描かれている。  「万葉集」にも、“まこと”と言う文学意識が表れていたが、「古事記」と「日本書紀」の“まこと”とは違い、個人が現実生活への体験をもとに生まれた個人的な真な情感である。“あわれ”と言う文学精神が“まこと”のもとで生まれたのである。“あわれ”とは恋愛への詠嘆或いは死者への追慕であり、個人の心より発する感情や情緒というものである。その後、“あわれ”は物を対象とする“もののあわれ”と言う文学理念に変わりつつある。 5.「歌経標式」  772年に、藤原の浜成によって編集された日本最初の歌学書である。漢詩は和歌の性質と違うので、中国の詩学をそのままあてはめるというやりかたは無理であった。和歌に対する批評意識を理論化しようとした。後世の歌学にも深い影響を与えた。 第二章 古代後期の文学(平安時代) 第一節  古代後期の文学概観 一、文学背景 1.古代後期  この時期を中古とも言う。即ち桓武天皇の平安京遷都(794年)から鎌倉幕府の成立(1192年)までの約400年間を指す。また、平安時代とも呼ばれる。 2.政治  律令政治は9世紀に入ってから、急速に崩壊し、藤原一門を始めとする貴族が歴史の舞台に上がった。9世紀中ごろに藤原良房が摂政となり、実権を握るようになった。藤原氏による摂関政治が始まった。そして、11世紀初め、摂関政治は藤原道長が権勢を独占する当時に、全盛期を迎えたが、11世紀後半になって、白河天皇が院政を始めて、衰退期していった。その後、たびたびの戦乱を経て、貴族社会の基盤が大きく揺らぎ、王朝文化も終結を告げた。 二、唐風文化から国風文化へ  平安初期、唐の文化の影響が依然として存在している。その当時、漢詩文が隆盛を極め、「凌雲集」、「文化秀麗集」、「経国集」などの勅撰漢詩集が次々に編集された。日本人は唐風文化一色のこの時代を「国風暗黒時代」と呼ぶ。  しかし、9世紀末、唐の国が衰退するに伴って、日本人のいわゆる国風文化が芽生えるようになった。特に、仮名文字が発明され、和歌が盛んになった。10世紀始め頃に、日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂され、和歌は公的文学として、漢詩文と肩並べ、隆盛期に入った。  また、物語や日記も仮名で書き表れるようになった。たとえば、「物語の祖」と言われる「竹取物語」が伝奇物語の道を切り開く一方、「伊勢物語」、「大和物語」、「平中物語」のような歌物語も次々に書き出された。日記でも、紀貫之が女性に仮託して、仮名で「土佐日記」を書いたが、その後の女流日記文学の誕生を促す。 三、女流文学の開花  10世紀から11世紀にかけて、後宮と宮廷などで、女流文学が開花した。その先駆として、藤原道綱の母が「蜻蛉日記」を書き、以降の「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」に大きな影響を与えた。また、清少納言の随筆「枕草子」と、紫式部の物語「源氏物語」は、古典文学双璧と称されている。だから、この時代に、女流文学が古代文学史の最高峰となった。 四、平安末期の文学  この時期に、貴族階級が次第に没落していくゆえ、「原始物語」のような優れた作品は生み出されていなかったが、「栄華物語」や「大鏡」のような歴史物語がいくつか作られた。しかし、これらも王朝時代の晩鐘とも言うべきものであった。  また、日本の最大の説話集「今昔物語」が編集され、新しい時代の息を感じさせた。 第二節 主な文学作品 1.「古今和歌集」  「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって、905年に編まれた日本の最初の勅撰和歌集であり、平安時代の代表的な歌集である。これ「万葉集」に次ぐ大歌集で、全集20巻、およそ千百種の作が収められている。略称「古今集」。普通三期に分けられている。 第一期        読み人知らずの時代。収集された歌は全体の4割に及び、この時代の初期の作と思われる。「万葉集」と同じぐらいで、歌風は素朴で、明快であり、恋歌が圧倒的多い。前代よりもっと洗練になった。 第二期        六歌仙の活躍した時代。即ち、在原業平、僧正遍昭、小野小町、文屋康秀、大伴黒主、貴選法師。いわゆる古今歌風の確立時代である。               恋歌  思ひつつぬればや人の見えつらん 夢としるせばさめざらましを        ――小野小町 第三期        撰者の時代。古今歌風の完成期にあたる。縁語、掛詞比喩などの手法が発達し、表現がより洗練される。優美典雅の日本的な美を対表する。理知的、観念的に詠んでいる。  「古今集」には、漢文で書かれた真名所と仮名で書かれた仮名序が備わっている。真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が執筆した。特に、紀貫之によって書かれた仮名序が仮名で書かれた文章として注目され、さらに、最初の歌論として、後世のさまざまな評論への影響が多きい。そして、平安中期の国風文化の確立にも大きく寄与し「枕草子」では、「古今集」を暗唱することが平安中期の貴族にとって、教養の一つとになされたことが記されている。  「万葉集」と比べ、感情が繊細に、調べが流暢になり、理知的である。縁語・掛詞・擬人法などの技巧が巧みに運用され、優麗典雅な日本的な美を対表する。「古今集」は長い間、日本人の美意識の原点として文学の規範となった。 2.「竹取物語」  9世紀末~10世紀初め頃に成立したと言われているが、定説がない。作者も未詳で、学者か僧などの知識人がそれまで口承文芸として伝えられたものをまとめたものと思われる。現存する日本最古の物語であり、「物語の祖」と言われている。空想的、ロマン的なつくり物語の最初で、その後の物語への影響もよほど大きい。内容のあらましを紹介しよう。  昔、竹取の翁がいた。毎日毎日野山に行って、竹を取って暮らしていた。ある日、突然竹の中から小さな女の子が出てきて、その翁はその子を抱いて、家に帰り、妻と大切に育てたところ、すくすくと成長して、見る見る間に美しい女となり、その容貌は見る人の目をして、まばゆいほど輝くから、かぐや姫と呼ばれるっようになった。姫のうわさを聞いて、各地から大勢の求婚者が集まってきた。特に、石作皇子、車持皇子、右大臣阿部御連、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足の五人の貴公子は最も熱心に迫ってくるので、翁は姫にその五人からひとりを選んで、婿にするように勧めたが、姫様がいろいろ考えた結果、五人にそれぞれ天竺の仏の石の鉢、蓬莱山の玉の枝、唐土の火鼠の裘、竜の首の五色の玉、燕の子安貝を取ってくるように注文し、それに応じえるものを婿とするのを約束した。しかし、五人ともしくじってしまう。最後に天皇からも所望があったが、やはり応じなかった。かぐや姫はもともと月界の仙女であるから、ある十五夜の夜、翁の悲しみや天皇の使わした兵2000名の護衛をよそに、姫は天の羽衣を着て、天に昇っていた。 3.「伊勢物語」  日本最初の歌物語で、作者は未詳、10世紀初め頃に成立したと言われているが、定説がない。在り原業平になぞ得られた主人公「昔男」の生涯が、独立した125段の短篇によってほぼ一代風にまとめられている。物語に描写した主人公の姿は、そのまま業平の実像に重なるばかりでなく、いろいろな虚構の世界こそその当時の人々が求めたものであり、時の権勢から退き、「色好み」の世界に生きる主人公のひたむきな愛情の数々と優雅で洗練された「雅」の心、優れた和歌と、簡潔で叙情豊かな美しい文章によって綴られている。古来多くの人々に愛読され、後世の文学への影響はかなり大きい。  昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率いて行きければ、草の上に置きたりける露を、「彼は何ぞ。」となむ男に問ひける。  ――「伊勢物語」芥川 4.「堤中納言物語」  12世紀の平安後期の作品。「虫めづる姫君」、「貝合わせ」などの10編の短篇よりなる物語で、日本文学史における最初の短篇小説集である。作者は未詳。作品には恋愛を主題とするものが半数ぐらいあるが、その他、いろいろな題材を取る。その中でわれわれの興味を引くのは「虫めづる姫君」である。  ある按察使大納言の娘が虫が大好きで、日夜虫の愛玩に夢中になっていた。虫と言っても、胡蝶や鈴虫のようなかわいい、外観綺麗なものではなく、カタツムリや毛虫のような気味悪いものである。中でも特に毛虫が好きで、いつも掌に載せて、観賞している。  それで、親たちもこれに弱って、何度も諌めても「苦しからず。万の事元を尋ねて、末を見ればこそ事はゆえあれ。いとおさなき事なり。烏毛虫の蝶とはなるなり。」と言うし、また「絹とて人の着るも、蚕のまた羽つかぬにしてだし、蝶になりぬれば、いともはてにて、あだになりぬるをや。」とちゃんと理屈をつけて突き返す。召使も若い女房などは弱々しくて、あまりよくないから、男の童を使い、おまけに名前までケラ男や蚱麿磨などという綽名をつけて呼ぶのである。  これだけでなく、この娘さんの身なりから言語、動作に至るまで、全てがその当時の人の意表に出ないものはない。その当時の女性は髪毛を長く伸ばしており、眉毛はすっかり抜き取り、歯を黒く染めるのは美人だと認められていたが、彼女は逆に几自分の髪を耳に挟んだ上に、「梳り繕はねばにや、しぶげに見ゆるを、眉いと黒く花々と鮮やかに、涼しげに見えたり。口つきも愛敬月手清げなれど、歯黒めつかねばいと世づかず。」で、着物までも、頭へ衣著あげているくらいで、化粧といったら更にない。  この作品の時代は平安末期で主人公は徹底的な反逆児で、頭から現実を否定していた。作者は主人公に託し、現実社会を否定して、何か新しいものを求めとしている。 5.「源氏物語」  1008年に、紫式部と言う女流作家によって書かれたのである。作品は主人公の光源氏の誕生、愛の遍歴、出家を願う姿、死、主人公の死後、残された人々の世界が雄大な構想の中に語られている。  「源氏物語」は日本古典文学の最高峰であるだけでなく、今でも世界文学史で第一流の作品に見なされている。更に、また世界最古の長編小説としても名が高く、陰影に富んだ美しい文体、巧みに配された和歌、繊細な人物性格や生き生きとした心理描写など、中世から近代の作家に大きな影響を与えた。全書は54巻からなっており、4代約80年間にわたり、登場人物は400二余り。その内容は三つの部分に分けられている。 第一部 「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖   ある帝(桐壺)が后の中では身分の低い桐壺更衣を特に愛し、その間に、美貌な皇子が生まれた。権勢と縁のない更衣は迫害の中に、悲惨にこの世を去った。帝は後見のない皇子を非常に愛する。その将来を思い、臣籍に下された。この皇子は主人公光源氏である。帝は更衣の死後、藤壺女御を愛したが、光源氏は彼女に亡き母の面影を求めてみたい、思いを寄せるようになった。ついに不義な関係を結んでしまった。女御は身ごもり皇子を生む。しかし、二人は生涯を通じて、その罪にさいなまれることになる。その後、光源氏は他の多くの女性とも関係する。その中に、右大臣の娘朧月夜がある。右大臣は娘を后に奉る心づもりがあったので、この機会をつかまえて、政敵の光源氏を政界から追放する。  須磨に流された光源氏は明石に移り、明石上とめぐり合い、彼女を娶り、二人の間に、後に中宮となる明石姫君が生まれた。右大臣の孫にあたる朱雀院が在位の時代に不遇であった光源氏も冷泉院(光源氏と藤壺の間に生まれた皇子)が帝位につくし少し前に、都に召還された。帰京後の光源氏はこの世の栄華の限りをつくした六条院を完成し、臣下として、これまでに例を見ない準太上天皇という位を極めた。 第二部「若菜上」から「幻」までの8帖  朱雀院の内親王女三宮は父の思慮により、光源氏に降嫁する。そのため、愛妻紫上との間に、感情的な波乱が生ずる。紫上は悩んだ挙句、病床に伏し、光源氏はその看病に心を向ける間に、女三宮に前から思いを寄せていた柏木(光源氏の最初の妻である葵上の甥)は彼女と不義を犯してしまう。これを知った光源氏は激怒し、柏木を責めるが、一方では、自分が藤壺に通じた過去の因果を思い、宿世の業に驚かされてしまった。  女三宮は柏木の子薫を生み、間もなく、出家する。柏木も自責の念にかられ、病にかかった。やがて、この世を去ってしまった。また、病床に伏した紫上もしばらくして、他界してしまった。光源氏はこの世の無常に出家を思い立つ。 第三部 「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖  既に光源氏はこの世になく、子薫が登場する。薫は宇治に隠居していた八の宮を訪れる。その娘の大君に心を引かれた薫は八宮の死後、彼女に求婚するが、彼女はそれを拒み、妹の中君を薫と結婚させようとしたが、それもかなわずに、中君は匂宮(明石中宮の子)と結婚した。薫が大君を思い切れずにいるうちに、彼女は病死してしまった。中君から大君に似た異腹の妹浮舟の要ることを知らされた薫は、浮舟とあい、宇治に住ませる。ところが、既に中君と結婚した匂宮は浮舟をも訪れ、彼女と関係してしなった。薫と匂宮との間に立たされた浮舟は悲しく迷い、悩んだ挙句、身を宇治の流れに投げたが、横川の僧都に救われ、佛門に帰依した。  最後の10帖は舞台が宇治に置かれたため、「宇治十帖」と言われる。 *作者――紫式部    清少納言を初めとする多くのこの時代の女流作家と同じように、紫式部も漢学の素養の高い官吏の家で生まれたのである。祖父藤原謙輔は名他界歌人であり、父藤原為時は和歌、漢詩文に通じており、祖父一門に文人が多い。作者はこのような文学的な環境に育ち生まれたゆえ、幼少から聡明で、和漢の典籍に通じ、音楽にも通じていた。  作者が生活した時代は、平安朝の末期にあたり、藤原氏の貴族専制が退廃してしまう。天下が大いに乱れた。紫式部は豪華な宮廷生活をしているが、その表面的な華やかに陥ることなく、理知的な、明晰な頭脳で、その時代の真の様相を眺めることができた。彼女は清少納言が時代を大いに賛美し、宮廷貴族の豪華な遊宴生活を礼賛する創作態度に対して、不満を満たしたのである。ただ、彼女は時代の本質的なものの存在を信じ、それをとらえようとしていた。 *「源氏物語」から表れた文学思潮 写実的な「まこと」とロマン的な「もののあわれ」。これは成熟した王朝貴族文化の頂点を極める最高の美意識といえる。  須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の「関ふき越ゆる」と言ひけむ浦波、夜夜は、げにいと近う聞こえて、またなくあわれなるものは、かかる所の秋なりけり。                            ――「源氏物語」須磨巻  いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなききはにはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり。初めよりわれはと思ひあがりたまへる御かたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下葛の更衣たちは、ましてやすからず。                           ――「源氏物語」桐壺冒頭 6.「栄花物語」  日本最初の歴史物語で、正編と続編に分けられている。六国史の後を継ぎ、宇多天皇から堀川天皇までの約200年間の歴史が編年体で綴られている。藤原道長の栄華を中心に描き、ひたすら道長を賛美している。全体的に感傷的な筆致で、歴史への批判性は欠けている。国文体の歴史の初めとも言われる。 7.「大鏡」  11世紀末頃成立した「大鏡」は、「栄花物語」と同じように、藤原道長の栄華を中心とした歴史物語で、最初の鏡物である。「今鏡」、「水鏡」、「増鏡」を合わせて、「四鏡」と言うのである。紀伝体で書かれたものである。道長への賛美だけに終わらず、非情な政界についても描いたので、歴史への批判性を一つと特徴としている。その中から歴史の真実が見られる。 8.「今昔物語集」  日本最大の説話集として、12世紀ごろに書かれたのである。主に庶民、武士の生活を生き生きと写した。昔の社会、風俗の研究にとって、貴重な材料として、重視されている。  文章はだいたい漢文と日本文の中間に位置する一種の新文体で書かれており、各章ごとに「今は昔」という言葉で始まっているのである。この文体は、中世の和漢混交文の先駆ともなっている。  「今昔物語集」は近代にも影響をもたらした。芥川竜之介の「鼻」、「羅生門」、谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」などは、これを取材したのである。  今は昔、信濃守藤原陳忠といふ人ありけり。任国に下りて国を治めて、任果てにければ上がりけるに、御坂を越えゆる間に、多くの馬どもに荷を掛け、人の乗りたる馬、数知らず続きて行きけるほどに、多くの人の乗りたる中に、守の乗りたりける馬しも、かけはしの端の木後足をもて踏み折りて、守さかさまに馬に乗りながら落ち入りぬ。 9.紀貫之と「土佐日記」  「土佐日記」は930年ごろに、作者が土佐の守として、赴任する時から、935年都へ帰る時まで書いた紀行文である。主な内容は、任地に永眠した娘への追慕や帰途の険難や海賊襲来への憂慮、帰京への喜びなどである。作者は女性の名に仮託して、仮名文字で書いた日本の最初の日記である。  「土佐日記」は新しい日記文学の形態を創り出し、後の女流日記文学隆盛に深い影響を及ぼした。  男もすなす日記といふものを、女もしてみんとてするなり。   ――「土佐日記」冒頭 10.「蜻蛉日記」  974年に、藤原道綱の母の手によって書かれた作品であり、女性が書いた最初の仮名日記である。上、中、下の3巻から成っている。作者は結婚後、幸福ではなく、苦悶に満ちていた。それで、日記の内容には、こうした苦悶、悩みなどの気持ちが書かれていた。自照性の女流日記の先駆として、後世の文学にも大きい影響を与えた。  また、心理をつぶさに描写し、精緻な芸術的香気の高い筆致は「原始物語」にも深い影響を与えた。  かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけり。                             ――「蜻蛉日記」冒頭 11.「和泉式部日記」  1007年に、和泉式部が書いたものである。作品は主に作者が帥宮敦道親王との恋をめぐって、書き綴った物語風の日記である。  夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。                           ――「和泉式部日記」冒頭 12.「紫式部日記」   1010年に、紫式部が書いたものである。日記の中に、清少納言への批判はよほど猛烈である。  清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたべむこと大かり。  ――「紫式部日記」 13.「更級日記」  1060年、菅原孝標の娘の手によって書かれた自伝的日記である。物語の世界にあこがれた少女時代から、親しい人々との死別、結婚生活、晩年生活などが生き生きと描かれていた。13歳から52歳までの長い間にわたっている。作品には、作者のロマン的で、繊細な感情が表れている。 14.清少納言と「枕草子」  「枕草子」は日本最初の随筆の代表作であり、作者は清原元輔の娘である。彼女は紫式部と同時代の人として、一条天皇の中宮定子に仕えていた近侍である。女性ながらも男性と同じように、同時の男性の必須の教養である漢詩文によく通じていた。  「枕草子」は1001年に、書き上げられたと言われている。主な内容としては、作者が中宮定子に仕えていた時、宮廷生活を通じて、自ら体験した自然や人事に関する出来事を自由な筆致で記録しており、作者の自然に対する鋭い感性、人物批判、自然風景に対する描写、美に対する追求などが至る所に見ることができる。しかし、特に目を向けたところは、やはり宮廷貴族の遊園生活への賛美や中宮定子に対する褒賞であり、また、自らに対する誇示でもあった。したがって、清少納言の文学思想は、徹底的な貴族主義であり、貴族社会に対する無条件的擁護である。日本文学者はいつも清少納言を自然美の愛好者で、美の世界の礼賛者であると称えているが、彼女の美観は貴族階級の美であり、決して人民大衆の美ではなかった。 内容から次の三種類に分けられている: (1)類聚的章段 「ものづくし」と呼ばれる段で、作者の鋭い感性のままに、同種のものを列挙し、感性を述べたものである。「山は」などのような「-は」型のものと「うつくしきもの」などのような「-もの」型の二種類がある。 (2) 日記の章段 豪華な宮廷生活への回想であり、日記回想章段とも言う。 (3)随想の章段 これは随筆らしい章段で、「春はあけぼの」のように、自然や人事についてのを自由に書いたのである「枕草子」は古来から文学界に重視されており、「源氏物語」とともに、古典文学双璧だと称されている。作者の客観性や知性がよりはっきり発揮され、「源氏物語」の「もののあわれ」に対して、「をかし」の世界を形成した。簡潔で独創的な鋭い文体は批判的であり、時には哲学的でさえある。  春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ。蛍の多くとびちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。  秋は夕暮れ。「略」冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも。                              ――「枕草子」第一段 15.「日本霊異記」  平安時代初期、882年に、景戒の手によって編集されたということである。三巻よりなっている日本最初の仏教説話集であり、因果応報の仏教思想が主調とされている。この説話集からその当時の世の中の人々の考え方や生活ぶりなどを知ることができる。 16.「千載集」   作者藤原俊成(1114年~1204年)は、藤原定家の父である。彼は清新な歌風を持っている源俊頼古典主義を唱えた藤原基俊の考えを十分に取り入れ、「千載集」を編纂した。この歌集は20巻に分けられ、「幽玄」と言う世界を作り上げようとしていた。「幽玄」とは、奥深く繊細で表現の外ににじみ出る余情である。これは後世の「新古今和歌集」の歌風に対する影響がよほど大きいのである。     17.「梁塵秘抄」  12世紀後半に後白河法皇の手によって編纂されたと言われた。当時流行していた今様や催馬楽などの歌謡を集めたのである。一般庶民の日常生活に触れたもなが多く、伝統和歌の貴族趣味と異様な世界を伝えた。 第三章 中世の文学(鎌倉、室町時代) 第一節 中世の文学概観 1.時代背景  中世というのは、鎌倉幕府成立から(1192年)、江戸幕府成立まで(1603年)の約400年間の歴史を指す。政治史には、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、安土・桃山時代に分けられている。  中世は、承久の乱、南北朝の争乱、戦国時代など、何度もの政権交替と戦乱頻繁の時代である、当時の人々はこの世の無常を自ら体験し、仏教に救いを求めるほかはない。まだ、文化的には、都と地方との交流が盛んになり、地方の文化が発展するとともに、一般庶民の文化も歴史の舞台に登場し始めた。 2.王朝美に対する思慕と憧憬  中世初期、武士が政治の実権を次第に握るようになり、貴族らは没落しつつある。彼らはひたすら王朝時代を思い、先代の優美繊細な文化に憧れを抱いていた。この時期に、後鳥羽上皇の院宣によって編集された「新古今和歌集」は王朝和歌の夕映えの美しさを示し、撰者の一人である藤原定家は父俊成の「幽玄」をもう一歩進めて、「有心」と言う高度な象徴美の詩境を目指したが、その以後、「新古今和歌集」を超える歌集は生まれず、和歌の世界に輝きは二度と戻らなかった。貴族はもう真に新しい文学を創造する力がなく、退廃しつつある。 3.仏教の普及と隠者文学の誕生  中世は新仏教誕生の時代で、法連の浄土宗、一編の時宗、栄西の臨済宗、日蓮の日蓮宗など、いろいろな新仏教の宗派が誕生した。そして、庶民や武士の間に広まったが、人々に生きる力を与えた。  中世文学は、こうした仏教の影響を受け、仏教の無常観が深く作家の頭に浸透して、代表的な文学理念になった。隠者文学はこの理念の影響によって生まれたのである。隠者文学双璧だと称されるのは鴨長明の「方丈記」と吉田兼好の「徒然草」という両随筆である。 4.説話文学の流行  中世初期は説話の黄金時代である。「宇治拾遺物語」などの世俗説話集、「発心集」などの仏教説話集が編まれた。特に、庶民的点民話的な話を多く収めた「宇治拾遺物語」は「今昔物語集」とともに、説話文学の傑作であり、近代の芥川龍之介などにも創作のヒントを提供していた。 5.軍記物語と新興文学  源平合戦から戦国時代に至る戦乱の中で、多くの軍記物語が書かれた。深い仏教の無常観に基づいて、平家一門の栄枯を描いた「平家物語」や南北朝の戦乱を描いた「太平記」はその代表作である。 第二節 主な文学作品 一、公家貴族の文学 1、「新古今和歌集」  中世になって、和歌もあたかも退廃した貴族のごとし、もはや万葉集時代の新鮮味がなくなり、無力で、懐古的な物になってしまった。だから、この時代の和歌は貴族的であり、時代遅れの没落貴族の象徴であり、民衆とあまりにもかけ離れたものである。その代表作は「新古今和歌集」である。  「新古今和歌集」は1201年に、後鳥羽院が藤原定家、寂連などの六人を選び、八番目の勅撰和歌集の撰進を命じた。1205年に完成披露宴が行われたが、その後、院自らの手によって改定作業が続けられ、「八代集」の最後を飾る「新古今集」が成立した。全20巻で、上代から当代にいたる歌、約2000首が収められている。しかし、ほとんど藤原俊成及び藤原一族の作品である。  「新古今和歌集」の歌風は、「新古今調」と呼ばれ、縁語、掛詞が多く使われ、初区切れ、体言止によって映像を鮮明にして、言外に豊かで複雑な余韻余剰を漂わせている。その中に、俊成は和歌の真髄が「幽玄」にあると主張した。幽玄とは、現実社会を遠く離れ、人々が容易に探り知ることが出来ない理想郷である。 第四章 近世の文学(江戸時代) 第一節 近世の文学概観 一、近世の文学背景 1.江戸時代の政治と経済  中世後期の長い戦乱を経て、17世紀の初期、徳川家康が天下を統一し、新たに江戸で幕府を開設して、世は江戸時代に入った。これは日本封建社会の最後の段階でもあり、また封建社会の完成期でもある。歴史上この時期を近世とも言う。この時代は、1868年の明治維新まで260年もの歴史が続いていた。  江戸幕府は、日本全国の各地に藩を配置して、領内を統治させると言う幕藩体制を敷くとともに、集団の秩序を重んずる朱子学による文治を取り、士、農、工、商という身分によって、人々を厳しく支配した。また、中国、オランダ、朝鮮以外の国と貿易を断絶する鎖国政策を取った。  このように、近世は、幕府の強固な支配体制のもと、戦乱のない太平の時代が維持され、経済が飛躍的に発展したため、町人を中心とした庶民階級が強い経済力を背景に、文化、芸術の鑑賞、文学創作に参加するようになった。  さらにまた、印刷術の進歩によって、書物の大量生産が可能になったこと、営利を目的とした出版業が誕生し、文学が印刷された書物として多くの読者に行き渡るようになったことも、一部の特権階級が占有していた文学を一般庶民に開放する力となった。 2.上方文学と江戸文学  近世文学は、前半は上方(京都、大阪)を中心に展開し、享保年間(1716-1735)を今日として、後半は江戸を中心に展開する。したがって、前半を上方文学期、後半を江戸文学期と言う。また、上方文学は元禄時代に頂点に達するため、元禄文学と呼び、江戸文学期は、前半を天明文学、後期を家政文学と言う。 3.芭蕉、西鶴、近松の時代  近世文学は、新興町人相のエネルギーが頂点に達した元禄年間(1688-1703)に初めての黄金時代を迎える。この時代を代表する文学者は俳諧の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、演劇の近松門左衛門である。まず、俳諧では、松尾芭蕉が言語遊戯による滑稽文学であった俳諧を芸術性の高い人生詩、自然詩に高め、蕉風俳諧を確立した。小説では、井原西鶴は浮世草子という当代の庶民の現実生活と人間模様の諸相を活写する小説を創始した。彼の優れた町人物、好色物などは多くの読者を獲得し、西鶴をベストセラー作家におしあげた。演劇では、人形浄瑠璃、歌舞伎の脚本作家である近松門左衛門が、独自の劇的世界を作り出した。 4.天明期の文学  江戸文学期は、安永 天明年間(1772-1789)が前期の中心である。享保期までは子供を対象とした低級な絵本である赤本や黒本の種類や僅かな浮世草子ばかりしか成立せず、注目すべき文学を持ち得なかった江戸は、18世紀の半ばになって、経済的な成熟を遂げ、江戸独自の文学を生産する活力を持つに至った。  この時期の江戸文学――黄表紙・洒落本・狂歌など、知識階級である武士の余技として作られた戯作であり、「笑い」「おかしみ」を誘う技巧と趣向の限りを尽くした表現に満ちていた。山東京伝は黄表紙や洒落本の頂点に立つ代表的作家である。なお、俳諧では、与謝蕪村が俳諧中興運動を進め、芭蕉の俳諧の卑俗化に歯止めをかけようとした。 5.文化・文政期の文学  松平定信の寛政改革は、法による文学の厳しい規制も進められ、山東京伝らの筆禍事件が相次いだ。そのため、多くの作家は、筆を折ることになり、洒落本など天明文学を特色付けたジャンルは急速に衰えた。江戸の文学生産の力がもとの勢いを回復するのは文化・文政年間(1804-1830)であるが、主流は勧善懲悪の読み本、滑稽本、人情本、合巻などであった。  一方、低俗な月並み俳諧が流行する中で、小林一茶は日常の体験や生活心情を自由自在に詠んだ。そして、人間味のある句をたくさん残してくれた。また、劇文学では、浄瑠璃は衰退し、歌舞伎では、江戸歌舞伎の爛熟期を迎えた。 6.新しい文学理念の確立  この時期の文学理念としては、蕉風俳諧の「さび」「軽み」町人文学に通じる通・粋など、さまざまある。  また、浄瑠璃に見られる「義理」、読み本に見られる「勧善懲悪」なども重視され、儒教の強い影響力を窺い知ることが出来る。 第二節        近世の小説  江戸時代、町人の経済力が増大して、寺小屋を初めとする教育が普及されるにつれて、中世以来の御伽草子から、もっと生活に密接した読み物を求める庶民の動きに応じて、浮世草子を初めとする江戸時代特有の小説形態が誕生した。一般的に、この時期の小説を町人文学と言う。また、草子文学とも言う。ぉの内容から細分すると、仮名草子、浮世草子、草双紙、読み本、洒落本、滑稽本、人情本などがある。代表的な作家は浮世草子の井原西鶴、読み本の滝沢馬琴、上田秋成、滑稽本の式亭三馬、洒落本の山東京伝、草双紙の柳亭種彦、黄表紙の恋川春町、人情本の為永春水などである。 一、井原西鶴と浮世草子  「浮世草子」という言葉は、もともと「好色本」のような意味を持っていたが、西鶴の書いた小説は後世の人々に「浮世草子」と称されているようになったあと、現代的な小説、即ち町人を対象とした通俗的な小説を指すようになった。  井原西鶴は1642年大阪の裕福な町人の家に生まれ、1693年52歳で死んだ。彼は若いうちに商売を通じて、莫大な財産を創り出していた。しかし、晩年商売も止めて、専ら文学活動に専念し始めた。小説を書き始めたのは約40歳頃であった。彼は談林派俳諧作者として、鋭い写実的精神を持って、人生の種種相を俳諧的手法で生き生きと表現した。日本的リアリズムの最高峰の一つである。  西鶴の作品には、主に町人生活を中心として描いたものが多い。彼は伝統的な神権、封建道徳に比べて、現実生活において、人間の創意と工夫によって富を作るのを主張する。彼は人間の物欲や愛欲を汚れたものと見るのではなく、それは人間の本来の姿であり、生の動力であると大胆率直に肯定した。  西鶴の作品をその性質上から分類すると、「好色物」「町人物」「武家物」「雑話集」の4種類に分けられる。中には「好色物」と「町人物」は彼の得意な作品である。  西鶴は浮世草子を書き出した最初は、いわゆる好色物から書き始めたのである。まず、「好色一代男」を発表し、好評を博して、その後、「好色二代男」を発表した。  彼は「好色一代男」において、好色児世之介という人物を設定した。7歳で腰元に恋するのを皮切りに色恋の様々なものを遍歴する。乱行、勘当、放浪のあげく、親の莫大の遺産によって、三都の遊里で色道の極地を表現し、結局、好色丸に乗って、友人とともに女護島へ渡った。  当時の封建論理によって、「男女7歳にして、席を同じうせず」と厳しく規定していたが、世の介は7歳から女に通ずる。これは封建社会の男女観に対抗するものであると言えよう。同時に、封建儒教思想への対抗である。次はこの作品の一節である。  (略)  44歳の時、「好色五人女」を書いた。「好色一代男」と違って、この作品は普通の家庭における男女恋愛を取り扱ったのである。内容はいずれも事実であったことを西鶴の手によって、加工潤色されたのである。第一巻はお夏と清十郎の物語である。姫路但馬屋の娘お夏は手代の清十郎と恋に陥り、二人がこっそり出奔したが、引き戻され、清十郎は盗嫌疑を受けて、死刑に処され、お夏は狂乱し、自殺を覚悟したが、止められて尼になる話である。
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