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芥川龙之介「鼻」を読む

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芥川龙之介「鼻」を読む芥川龙之介「鼻」を読む 芥川龍之介「鼻」を読む 〈今昔物語の再構成〉 芥川龍之介の「鼻」が、「今昔物語」巻二十八「池尾の禅珍内供の鼻の語」、「宇治拾遺物語」巻二「鼻長キ僧ノ事」を題材にしていることは余りに有名である。 たとえば「今昔物語」では、主人公「池尾の禅珍内供」は「身淨くて真言などを吉く習ひて、懃ろに行法を修して有りければ」、寺に出入りする僧も多く周りの郷も賑わっているとされている。僧としては優秀なこの禅珍内供が反面長い鼻の持ち主であり、これによって後段の童との滑稽なやりとりをするという対照性にこの説話の面白みが...
芥川龙之介「鼻」を読む
芥川龙之介「鼻」を読む 芥川龍之介「鼻」を読む 〈今昔物語の再構成〉 芥川龍之介の「鼻」が、「今昔物語」巻二十八「池尾の禅珍内供の鼻の語」、「宇治拾遺物語」巻二「鼻長キ僧ノ事」を題材にしていることは余りに有名である。 たとえば「今昔物語」では、主人公「池尾の禅珍内供」は「身淨くて真言などを吉く習ひて、懃ろに行法を修して有りければ」、寺に出入りする僧も多く周りの郷も賑わっているとされている。僧としては優秀なこの禅珍内供が反面長い鼻の持ち主であり、これによって後段の童との滑稽なやりとりをするという対照性にこの説話の面白みがある。禅珍内供の長い鼻の描写については、芥川の「鼻」でもほぼ同様に踏襲されている。「今昔」では、禅珍内供が粥を飲むときに鼻持木をもつ弟子の法師がある時気分を悪くし、ひとりの童が代行することで事件がおこる。鼻持木をもった童がくしゃみをした拍子にこの木を落としてしまい、鼻を粥のなかに落としてしまう。怒った禅珍が「私などではない高貴な方の鼻をもちあげる時も、こんなことをするのか、やりはしまい」と非難すると、童は「世間にこんな鼻をもっている人がいるなら、持ち上げもしよう。だが、そんな人間は他にいるはずがないではないか」と反論する。そしてその話を聞いた人は童の反論の面白さに喝采を送った、というのがこの話の落ちとなっている。ここでは真言などもよく研究している優秀な僧が、その長い鼻の御陰で俗世間の童に恥を欠かされるという聖―俗の立場の反転が重要な要素となっている。祝祭的な笑いを描くこの説話は、確かに「本朝世俗部」にふさわしい。禅珍はここでは道化として俗世間の読者の笑いを誘う要素を担っている。 芥川の「鼻」は「今昔」を原典にしながら、かなり大幅にこの話の構成や細部を変えている。まず始めに誰もが気付くのは、主人公の名前?禅珍が「禅智」とかえられていることだろう。この「智」という字は主人公にとって拠り所となっている「知性」を暗示している。同様の言い換えの前例としては、「鼻」の前作「羅生門」で、羅城門とあるべきところを「城」を「生」の字に変えていることが挙げられる。「羅生門」では主人のもとを追われて途方にくれていた下人が、最後には老婆からの強奪という行為によって現実的な「生」を選ぶ過程が描かれていた。この前作の例から考えると、「鼻」における「智」という語の採用がこのテクスト全体にかかわるテーマに密接に結びついていることは十分考えられる。たとえば後半、鼻が短くなった禅智内供がなおかつ人に笑われることを気に病んで「傍らにかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四亓日前の事を憶い出」すが、傍らにかけられたこの普賢とは言うまでもなく理知を象徴する釈迦の脇士である。その他、テクスト「鼻」にはこうした「知」を象徴するもの,観音経、内典外典、法華経、あるいは故事など,が散 りばめられている,ただし、「今昔」に記されている真言は、呪術のイメージが強いせいか、このテクストには一度も出てこない,。 ところで、芥川の「鼻」と「今昔」との、構成上の最も大きな差異は次の点である。,,,「今昔」においては、鼻持木を落とした童の失策とそれに関する禅珍とのやりとりが話の核になっていたが、「鼻」ではそれはひとつのエピソードとしてあっさりと語られていること。,,,「今昔」においては、長い鼻の痒さのために熱い湯に鼻をつけることが描かれているが、これは鼻を小さくするためではない。この行為自体は禅珍の生活上で度々繰り返されることらしく、鼻の「腫れたる日員は多くぞありける」と記述されている。それに反して「鼻」では、鼻を熱い湯につけるこの行為は、震旦からの最新の治療として期待をもって行われていること。 「今昔」と「鼻」ではこの,,,と,,,の前後が入れ代わっている。「鼻」では、今昔において落ちであった1)が前段で語られ、「今昔」においては前段で滑稽なエピソードとして語られていた2)が、「鼻」ではテクスト上の重要な山場になっている。「今昔」において祝祭として語られた事件が、芥川の「鼻」では遠景に押しやられているのである。こうした「今昔」との差異を念頭において、ここではテクスト「鼻」をその展開にそって読むことを試みてみよう。*1 〈内供の鼻〉 芥川の「鼻」では、「内供が鼻を持てあました理由は二つある」。「一つは実際的に、鼻の長いのが不便だった」こと。そしてもう一つは「この鼻によって傷つけられる自尊心の為に苦しんだのである」。鼻はここで特別な意味や象徴性をもって、他者や読者に見られることはない。例えば聖なる徴、異端などという価値に結びつけて鼻は語られていない。次に見るように鼻は視線,自己のものであれ他者のものであれ,の対象としてしか現出しない。鼻は他者と内供を隔てる確固とした記号であり、読者にとっては最後まで〈他者に見られるものとしての鼻〉という以上の位相をもたない。この鼻を何かの暗喩として理解することは難しい。鼻はそれだけでは単なる奇形なのだ。そしてそれは、何かを意味するのではなく、他者と内供を分け隔てることしかしないのである。 もっともこうした解釈は別として、冒頭のこの長い鼻という非現実的な形象そのものは、確実に読者の笑いを誘う。冒頭で描かれた内供の鼻は、「長さは亓六寸あって上唇の上から顋の下まで下がっている」。これは「今昔」の描写をそのまま踏襲しているものだが、次に続く「形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっている」という部分は、芥川がその長い鼻をさらに具体的に描くために追加したところである。通俗的な精神をここであえて援用すれば、この形象は男根を想起させる。極論すれば内供の長い鼻という戯画的な笑いに、性的な含意を読 み取ることも場合によっては可能だろう。むろん、これは芥川の意図とはおそらく無関係である。 ただ、本文第四段落では、町の者が内供が俗人でないことを幸せだと言っていることが描かれている。俗人であれば、その鼻ゆえに女が寄らないだろうというのである。この唯一異性について触れられている部分に、鼻―男根との無意識の呼応関係があると見ることはできるかもしれない。さらにここで、当時芥川が体験した吉田弥生との失恋の反映を見ることもありうる。芥川が「羅生門」に続いてこの「鼻」「芋粥」といった一連の今昔ものを書いたことについて、この失恋事件という現実から逃避して空想の世界に遊んだ、という観点もあるようだが、ただこれはあまりに芥川本人の事件とテクストを短絡的に結び付けているようにも思われる。ここでは、芥川が冒頭で仕掛けた笑いが、単に自意識といった要素だけでは導き出せない多義性を示唆している、という点だけを確認すればよい。 ところで、内供がこの鼻による「自尊心の毀損を恢復しようと試みた」第一のことはその鼻を実際以上に短く見せる工夫であり,それが鏡を見ながらの行為であったことについては後で触れよう,、第二は「一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心」することだった。内供が他者の鼻に注ぐ視線は執拗である。「内供は人を見ずに、唯、鼻を見た」。もちろん、これは転倒である。本来、他者の視線こそが内供の鼻に注がれていたはずなのだが、ここでは他者のそうした視線は一切描かれずに、内供の視線だけが強調されている。前半では、他者の視線を気にする内供の自意識ばかりが描かれているだけで、肝心の他者の視線は欠如している。内供はそこで、自分の鼻に対する他者の視線を先取りしてしまっているのだ。なお、この部分で注目しておきたいのは、「内供が人と話しながら、思わずぶらりと下がっている鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめた」という描写である。「見る」という視覚と「つまむ」という触覚のこの対比は、結末で再び繰り返されるだろう。 そして最後に「内典外典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようと」思う。こうした行為のあとに内供が参照するものが、「内典外典」の中の人物の鼻という「智」であるのは象徴的である。しかもこれは「消極的な苦心」とされている。ここでは外部の知のもつ無力さがすでに示唆されているのだ。 〈自意識?鏡〉 しかし、この知による精神的な対処の後に選択した手段は「烏瓜を煎じて飲んで見た」り、「鼠の尿を鼻へなすって見」るような、多分に民俗的で即物的な治癒である。前段の「智」による行為に対してこれは自国の「智」による治療の試みであり、「積極的に鼻の短くなる方法」であった。 もっとも、これもまた失敗する。そこで最後に採られたのが、「震旦からわたってきた男」の伝えた治療方法であり、この方法を採用にすることによって「鼻」というテクストは最初の山場を迎えることになる。だが、この方法は先に指摘したように「今昔」では内供が日常行っていたことだった。芥川は、原典において滑稽さを物語るものであったこの生活上の行為を、震旦からの最新の治療の知へと置き換えた。最後の治療の知を外部,震旦,からのものとした点に、テクスト「鼻」の「智」のありかが窺われる,そしてこれは治療の知としては最後のものであり、かつ最も効果的なものであった。同時に、その即物的な鼻の治癒はまた、後半の新たな内供の悩みを惹起するものでもあった、という限界を提示した,。 内供の自意識は、鼻に向けられた他者の視線を気にすることで肥大化する。しかし、内供は「内心では始終この鼻を苦に病んで来た」が、「勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔してすましている」。というのも「自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである」。そして「日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた」。鼻はここでは内供の自意識を生み出す記号をになっている。内供は鼻の奇形自体にコンプレックスをもっているのではない。そうではなく、奇形の鼻を気にしている自意識が露呈することを恐れているのである。それゆえ、鼻の治療についても自分から切り出すのではなく、「弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである」。 内供の自意識はここでは何らかの内実をもっているわけではない。それは自分を意識する意識であるにもかかわらず、他者からの視線の鋭さがなければ成立しえない。先にも触れたように、内供は始めに自分のことを考えるよりも先に、他者の立場にたってその視線を先取りしているのであり、そのことによって内供の自意識が高まるという循環構造がここにはあるのだ。 内供はその自尊心を「恢復しようと試み」るために、まず始めに鏡と向かいあう。内供は「人のいない時に、鏡へ向かって、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたり頤の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事」をした。鼻は「人のいない時」でさえも、鏡を通した内供自身の視線を必要としたのである。他者のものであれ自己のものであれ、視線を媒介にして現出する鼻は、自分の身体の部分であることをやめて、自己から剥離された記号となる。内供はすでに人の眼を気にしているだけではなく、自分の眼をも気にしている。内供の自己は、鼻を見る視線の肥大化にともなって、自らの鼻を見る自己と、見られる鼻をもつ自己とに分裂しているのである。 そしてこの鏡の視線は、もう一度反復される。それは他ならぬ、鼻が治癒された時である。「鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた」。この描写の視線は内供本人のものではなく、鏡に映った方の内供のものである。「眼をしばたたいた」のも、鏡の中の内供なのだ。その意味で、鼻の治癒後も鼻と内供との視線の関係は解消されていない。 それどころか語り手は、鏡の中の内供を主座にすえることで、主体であるはずの内供を「鏡の外に」に追放してしまうのである。鼻の治癒にもかかわらず、内供の自己の分裂状態は、以前にも増して進行していると言うべきだろう。 〈哂う他者〉 内供が視線によってもたらされる自意識に悩んでいたことは先に見たが、「鼻」の前半においてはその他者の視線が「哂う」ものであったことは一切述べられていない。「可笑しそうに」とか「哂う」という語が出てくるのは、実は鼻が治癒された後のことである。童が鼻持木を落とした一件は、「今昔」においては笑いの中心をなしていたが、テクスト「鼻」では「当時京都まで喧伝された」としか語られていない。これはもちろん笑いの対象として喧伝されたはずなのだが、「鼻」の語り手はそれがどのように人の話にのぼったのか触れていないのである。ところが鼻の治癒後、これらの語は内供を評する言葉や行為として反復して現れてくる。「折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた」。「同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子がちがう」。これら後半の描写によって、かつて内供は鼻が長いとき人に哂われていたことが初めて分かる仕組みになっている。前半において他者の視線の存在が欠落していたことと、同様に前半の「哂い」にまつわる語の欠如とは相関している。そしてこの二度目の「哂い」がテクスト上で最終的にクライマックスを迎えるのは、鼻持木の例の童が「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と犬を追い回した時である。 芥川は前半において、明らかに「哂い」を隠蔽している。テクスト上に「哂い」が顕現するのを延期させているのだ。それはテクスト「鼻」の展開において、「哂い」がきわめて重要な役割を持たされている、ということを逆説的に示している。小説の技法という観点から言えば、「哂い」は後半の展開でのインパクトを高めるために、前半ではあえてその顕現を控えさせたということになるだろう。そしてこのテクスト上の延期によって、「哂い」は複雑な陰影を持たされることになる。前半で隠蔽された「哂い」は、単に長い鼻という奇形に対するものであったが、後半で現出する「哂い」はすでにそうした単純なものではなくなっているのである。 この二度目の「哂い」について、内供自身は前の「哂い」とどう違うのか、明確に分析することができない。しかし、語り手は内供の無意識の内実を次のように分析している。 人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。尐し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうして何時の間にか、消極的ではあるが、或る敵意をその人に対し て抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。 つまり二度目の「哂い」は、「傍観者の利己主義」による「或る敵意」、すなわち「同じ不幸に陥れて見たい」という他者の心情によるものだと言うのである。しかし、メタ?レベルで説明されるこの語り手の分析にどれだけ説得力があるだろうか。語り手はここで、内供の「顔がわりがしたせいだ」という単純な解釈をした上で、もちろん「原因は、そこにあるのにちがいない」としている。その上でそれだけでない理由を先のように分析したのである。しかし、「傍観者の利己主義」といい「或る敵意」といい、そうした言葉で他者の「哂い」を分析するにはある飛躍がある。特に、内供が鼻の治癒のためにどのような滑稽な行為をしたか、それを知っている読者にすれば、その内供の自意識の喜劇的な努力に触れることを省略した、このような「哂い」の分析は違和感を免れえない。 繰り返すように、内供の鼻の自意識が冒頭から執拗に語られる割には、長い鼻の内供を哂う他者は前半では一切描かれていない。テクスト上から分かることはこの「哂い」が、単に長い鼻に結びついたものではなく、鼻を不自然に治癒?変形した内供の自意識の行為にともなって現出した、ということである。「傍観者の利己主義」といった語り手の解釈とは別に、ここでは自意識に衝き動かされた内供の滑稽な治療行為そのものを「哂」う他者の現出こそが、実は問題なのだ。前半では「自分で鼻を気にしていると云う事を、知られるのが嫌だった」と語られているが、この自意識が白日に晒されることこそが、他者の「哂い」を誘発したのである。滑稽な治療行為は鼻の奇形を解消したが、それは鼻によって肥大化してしまった内供の自意識の治療,解消は成しえなかった。それどころか、隠蔽していた内供の自意識を他者に対して顕現させてしまったのである。 この二度目の「哂い」が内供を逆上させるというクライマックスを迎えたのは、童子による「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」という言葉が契機になっている。これは「傍観者の利己主義」による悪意というよりも、「鼻を打たれまい」という内供の自意識の喜劇的な防衛行為を鋭く突いた「哂い」と見る方のが、読者にとっては自然であるだろう。テクスト上の展開にそって言えば、ここで読者は語り手の「傍観者の利己主義」という唐突な分析に同意する必然性はほとんどないと言っていい。テクスト「鼻」に「傍観者の利己主義」を見る読みは、テクストに所々現れる語り手を絶対化した上でのものである。語り手はここで「哂い」を分析するに当たって、そのテクスト上における本来の中性性を失っている。その意味で、テクストへ不意に登場するこの語り手は、読者にとってはその身振りそのものが読みの対象となってしまいがちである。そこでは容易に、この唐突な語り手,芥川個人という図式が成立してしまう。しかし、テクスト全体において語り手は必ずしも全てを統括し一貫させる絶対者とは限らない。「鼻」と芥川本人を結びつけてしまう読みは、この語り手のテクストへの唐突な登場、という事態に誘発されたものなのだ。こうした事態は「鼻」がすべて芥川の虚構ではないことに起因している。「今昔」という素 材との対話によってテクストが書かれているために、語り手は自分に都合のいいような展開をとることができない。「今昔」という素材の磁力、つまり「哂い」が語り手の展開に微妙に作用してしまっている。この「哂い」が、語り手の分析する「傍観者の利己主義」という視点とは別に、喜劇としての自意識という予想外の文脈を産み出してしまっているのだ。それは芥川が「今昔」を引用するにあたって、原典を十分に消化できなかったという失敗を意味しているのではない。そうではなく、語り手が原典を語り直すことによって展開される対話が、テクストを語り手の絶対性に収斂することなく、多義性を呼び込んだということを意味しているのである。 語り手と読者による「哂い」の解釈のこの分裂が、鼻が元通りになった結末部分の「こうなれば、もう誰も哂うものはいないにちがいない」という内供の独白の捉え方を不安定にする。果たしてこの独白は、「傍観者の利己主義」に翻弄される内供の悲劇を意味するのか、あるいは結末にいたってなお他者の「哂い」を気にしてしまう内供の自意識の喜劇の末路を意味するのか、読者はどちらに加担すべきか分からなくなる。テクストの多義性に彩られた結末のこの宙吊り状態が、「鼻」のテクストを際立たせているのだ。 〈テクスト「鼻」の転回点〉 テクスト「鼻」が、構成上の最大の転回を迎えるのは、言うまでもなく内供の治癒された鼻がまた元通りに戻るところである。この転回を迎えるにあたって、語り手は次のような風景描写をする。「寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている」。この描写は映画的である。語り手のカメラ?アイが、下方の庭と上方の塔の先端とを鮮烈に対比している。この下方から上方へという視線の転換を語ることによって、内供の再生が「光」のイメージとともに予兆されている。 元の鼻に戻ることで内供の自意識は確実に、かつての長い鼻の自意識,他者に対して隠蔽していた,とは違った次元に移行する。それはまた、内供にとって「哂う他者」との関係の新たな定位を意味している。隠蔽していた長い鼻の自意識が他者にさらされたことで、「鼻などは気にかけない」という内供の虚偽はここで暴かれた。それによって、長い鼻は他者や内供自身にとって触れてはならぬタブーであることを終えたのである。 そしてそれは、視覚による描写から「殆、忘れようとしていた或感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。,手にさわるものは昨夜の短い鼻ではない」という触覚の描写への転換をともなっている。「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」という結末にしても、「風」という触覚を連想させる語を用いていることは示唆に富む。この視覚から触覚へという転換が、テクスト「鼻」において重要な転回点となっている。ここで内供の自意識ははじめて「鼻」という身体をもつことになった。視覚的な記号としてしかなかった「鼻」 が、記号と身体という二者が結合する同一性をもつとともに、他者の視線とも等号関係を結んだのである。それは、開き直った内供が初めてありのままの自己を獲得したとも解釈される。ここで内供はそれまで分裂していた記号「鼻」と身体、他者の視線を総合して、即自的な「自己」を創出した。しかし、再生した内供の「自己」は、そのありのままの同一性にもかかわらず、きわめて不安定な仮初の境位を仄めかしている。「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」というペーソスを含んだ結末は、内供の再生が完結したものとして、手放しで祝福されるべきものではないことを読者に予感させているのである。 〈「鼻」の解釈不能性〉 東郷克美は芥川のテクストに頻出する「佇立する」「佇む」という語に注目しているが、「鼻」について言えば、それはこの不安定な内供の状態を指している。,「佇立する芥川龍之介」、『異界の方へ―鏡花の水脈』所収、有精堂、一九九四年,。東郷はテクスト「鼻」について、「今の自分とは別の自分になりたいと願いながら、その不可能を認識し、けっきょく自らの資質?性情のうちに生きる以外にないことを知った芥川の、苦い挫折感がこめられていることはほぼ確実だろう」と指摘する。しかし、これまで見てきたように、内供は結末のその「苦い挫折感」にもかかわらず、確実に自意識の位相を転換している。「自らの資質?性情」という同一性は、テクスト「鼻」においては先在していたものではなかった。それは、テクストの展開にそって鼻という記号が身体という同一性に再統合された、その結果なのである。「苦い挫折感」は、「別の自分にな」ることの「不可能性」というよりも、テクスト「鼻」を通して新たに創出された内供の自己の、その不安定さと言うべきだろう。 「国文学?芥川を読むための研究事典」,一九八八年?學燈社,の「芥川の文学の本質、文学史的位置」の項で、関口安義は「羅生門」に始まる読み直しに関連して、「鼻」が吉田精一の解釈の延長線上で「〈憂鬱〉〈諦念〉〈悲哀〉〈やり切れないペーソス〉といった評語が連ねられてきた」と指摘する。その上で、「〈他人の目からの解放〉を成就した主人公のすがすがしい姿を認めることもできる」という新しい読みの*2傾向を示唆している。しかし〈他人の目からの解放〉を果たした内供が、はたして「すがすがしい姿」であったかどうかは疑問である。関口の読みは、吉田精一の「暗い」読みに過剰に反応している。尐なくとも、「鼻」の結末部に吹く「秋風」*3は、そうした読みを肯定するものではないだろう。確かに、鼻が元に戻る明け方の描写は「光」に彩られたものであった。その点で、それは「すがすがしい姿」を予感させるものであったかもしれない。しかし、結末の「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」という独白は、先にも触れたように、他者の「哂い」の有無が内供にとっては未だ重要な要因であることを示唆している。内供が結末で、新たな自己として完全に再生したのであれば、ここで内供は他者の「哂い」とは無縁な独白を語らなければならないはずである。確かに語り手は、結末で「鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた」と語っている。しかし、その次に語られる内供の言葉が他 でもない、この「もう誰も哂うものはないにちがいない」という独白なのだ。語り手が語る「はればれした心もち」は、内供の独白を読む限りおそらく幻想としか言いようがない。元の長い鼻がすでに哂われていたことを思えば、この「もう誰も哂うものはないにちがいない」という甘い見通しは、それ自体他者の存在を見落とした期待でしかない。内供の再生の認識は、読者からすれば「哂う他者」の有無をいまだ気にしている点で、〈他人の目からの解放〉を結局は成就していないことは明らかなのである。 では、それはやはり吉田精一に始まる「〈憂鬱〉〈諦念〉〈悲哀〉〈やり切れないペーソス〉」という解釈に戻るべきであることを示唆しているのだろうか。吉田は「芥川龍之介」,新潮文庫?一九亓八年,の中で、「鼻」を次のように解釈している。 しかし、表面的なユーモアや諧謔にもかかわらず、この作品の根底には人生に対する懐疑的な精神や、心をひらいて温かい愛情を授受し得ない利己的な人間性に対する諦観が、色濃く流れていることを否定出 来ない。そうして自己を把握すること弱く、他人の眼にうつる自分の姿に始終注意をひかれるばかりで、自己を絶対的に生かし得ない鼻長内供の姿は、やがて彼が眺めた人間性の本然の相だった。人生の満足も不満足も、要するに対世間的なものであって、自己の内部に存在するものではない。人間は世間や世評に 絶えず心をわずらわされている。真の幸福と見えるものも、結局相対的なものにすぎない。そう観じる彼の前に人生は憂鬱な渋面を見せて動いている。龍之介は大人ぶった微笑を以て、それを冷やかに傍観しているのである。 この解釈が決定的に排除しているものは、現にテクスト上で現象している「哂い」をどう読むか、という問題である。「ユーモアや諧謔」が果たして「表面的」であったかどうかは、ここでは全く検証されていない。先にも触れたように、ここでは語り手の分析に一方的に加担した視線が、「ユーモアや諧謔」を「表面的」だと断定している。評伝というジャンルからすればやむを得ないことかもしれないが、語り手,芥川という立場で、テクストに現象している「哂い」を読みの対象から外しているのである。結末の内供の姿は、繰り返すように読者からすれば「哂い」の対象ともなる。そして穿った見方をすれば、ここで語り手の視線*4も同様にその内供の姿を「哂」っているのかもしれないのである。そして、こうした「憂鬱」を「大人ぶった微笑」で「冷やかに傍観」するだけであれば、芥川は何も「今昔」の本朝世俗部という祝祭的な「哂い」を素材とする必要はないと言ってよい。確かに、芥川個人においては、吉田の指摘するような心情なり視点はあったかもしれない。しかし、問題にすべきなのは、そうしたものを芥川は、直接テクスト上では扱えなかったということであり、あえて滑稽譚をその素材に選んだということである。そしてそのことによって、他ならぬテクスト「鼻」は初めて成立した。読者は、その屈折した過程を含めて、「鼻」というテクストの全体を引き受ける。そうでなければ、読者はテクスト「鼻」を単に芥川個人の自己の状況証拠としてしか読めなくなるだろう。吉田の分析が芥川個人に対して正確であったとしても、テクスト「鼻」がそこからの再生を図ったものであったという点は、やはり無視できない。読 者にとって、再生ということを無視してこのテクストを読むことはほとんど無意味である,その再生が成功したかどうかは別としても,。 繰り返すように、テクスト「鼻」は、自分や他者の視線の対象としてのみあった鼻という記号を、触覚のもとに自己という身体の方へ再統合する過程を描いている。しかし、その再統合は緊密な確固としたものではなく、不安定さをともなっている。それは内供の再生を語っているにもかかわらず、新たに獲得された自己という状態の脆さを示唆しているのである。その意味で、前作「羅生門」の下人とは位相を異にする。前作「羅生門」が、最終稿で下人の「行方は、誰も知らない」として、テクスト上から主人公の生の選択の先にあるものを追放し、読者に委ねたのとは逆に、内供の生はその不安定さ,「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせ」る状態,に留まっている。テクスト「鼻」の主人公の「行方」は「羅生門」のようにテクスト外へ送られることなく、相変わらず読者にはさらされたままなのだ。テクスト「鼻」の語り手は、内供の再生を語ろうとして様々に語りながら、ついにその祝福された再生を語り終えることができなかった。結末の部分は、この語りと内供そのものとの乖離を「ぶらつかせ」たまま終わっているのである。 そしてそれは〈憂鬱〉〈諦念〉〈悲哀〉〈やり切れないペーソス〉、〈他人の目からの解放〉といった一連の言葉で括られることを拒んでいる。「鼻」というテクストは、「暗さ」においても再生の「すがすがし」さにおいても読むことはできない。これらの読みは一見対立的だが、一義的な解釈の定位という点で同種の読みの様相を呈している。そうではなく、これらの解釈すべてに対して「鼻」というテクストは過剰なのである。このテクストでは、語り手―内供の〈ずれ〉に読者が参加することによって、ある決定的な解釈をすることの不能性が立ち現れる。前作「羅生門」のように、語り手が主人公に寄り添ってテクストを完結させているわけではないのである。 〈おわりに〉 「今昔」では、主人公?内供はその人となりを語られた後になって、初めて長い鼻が語られる。「今昔」の内供は、彼が僧という聖なる身分であることによって、祝祭の反転劇の支点となりえた。ここでは長い鼻というのは、言わば反転劇の小道具に過ぎない。一方芥川の「鼻」の冒頭では、主人公?内供の鼻が「池の尾で知らない者はない」という他者の評判の方が、まず先に語られている。芥川の「鼻」において、内供は「今昔」におけるように、始めから身分や経歴による自己同一性は保証されていない。芥川の内供は、断片化?記号化された鼻の持ち主として登場する。芥川の語る内供の「自己」は、この鼻という他者によって断片化?記号化された部分からしか導き出されはしない。もちろん、こうした鼻の断片?記号化の状況から、「自己」という全体を獲得すべく語りは進められる。語りは、全体的な「自己」のこの不在によって衝き動かされている。そうして、物語上の構成としては内供の「自己」の獲得で終えられている。しかし、物語上のそうした結節とは裏腹に、鼻は解釈不能の断片と して、あるいはどこにも還元できない記号として、テクスト上に残されてしまうのである。しかも、それは読者の「哂い」を呼び込むような形象として。 芥川の事実上の処女作「鼻」は、このもろい自己――自意識と身体の結合――を、危うい均衡のなかで構築した。芥川におけるこうした「自己」の事態が、それ自体危機的なものであることは、後期の作品,たとえば「歯車」など,を知っている者には容易に想像がつく。だが、この時点ではそれはいまだ明確な事態とはなっていない。ここで尐なくとも言えることは、芥川はテクスト「鼻」において、いささかも分裂を含まない全体的な「自己」というユートピアへの志向を語り出すと同時に、その文脈を逸脱した鼻という零度の形象をもテクスト上に顕在化させてしまったということである。この観点から言えば、「鼻」というテクストは、内供の「自己」再生にまつわる物語ではなく、長い鼻という記号が内供の自意識の懊悩や語り手の解釈という地平から分離されて、まさに「長い鼻」という形象そのものとして自立してゆく物語と読むこともできる。語り手―内供の〈ずれ〉の過程の果てに、読者は再び冒頭で語られたのと同じ「長い鼻」と向き合うことになる。東郷克美は先に触れた論文のなかで、「読者は、この作にこめられた寓意をよみとるよりは、内供の中を吹き抜けて行く『秋風』をこそまず感じるべきなのかもしれない」と言っているが、厳密に言えば「秋風」は「内供の中」ではなく、その「長い鼻」そのものに吹いている。ここに至って、冒頭で他者の評判から語られた「長い鼻」は、「寓意」の網の目からすり抜けてようやく「秋風」に身を任す形象そのものとして読者の前に回帰してくるのだ。題名の「鼻」はそこでは、もはや何物かの隠喩と化すこともなく、この物語の言説の収斂する中心をあからさまに告げるものとなるのである。 注 ,,,テクストにそって読む、ということはある意味で愚直さを標榜することである。近代文学研究者の小森陽一は次のように言っている。「〈研究主体〉の仮面を被ることで、対象とする作品,作者,との関係を特権化し、本来恣意的な〈読み〉を絶対化するよりも、あらかじめ自分を選ばれなかった読者として設定し、自らの感性や知の枠組を、作品,作者,のテクストが要請する方向で組み替えていくことにこそ、より豊かな可能性があるように思われる。,中略,〈選ばれなかった読者〉としての位置から、作品,作者,とかかわり始めていくことが必要とされる時期に来ていると思うのである」。小森陽一の言うこの〈選ばれなかった読者〉という立場での〈読み〉が、ここでは読解の根拠となっている。,「〈語り〉の空白,〈読者〉の位置―他者の原像―」、「構造としての語り」所収、新曜社、一九八八年,。,本文へ, ,,,「日本文学講座, 近代小説」,日本文学協会編?伊豆利彦他著、大修館、一九八八年,に収録された論文「芥川龍之介の再検討―『鼻』を例として」,関口安義,を参照。関口はこの論文のなかで吉田精一に始まる〈読み〉に対して、「あえて〈明るい『鼻』〉の〈読み〉」を持ち出している。,本文へ, ,,,前掲論文の中で、関口はこのテクストの時間の流れを分析した上で、この物語が「平安朝のある年の秋の一ヵ月ぐらいの時間背景を念頭に、作者はこの小説の時間を処理している」と論じている。もちろん、原典である「今昔」では、特に季節についての限定はなされていないので、この時間設定が芥川の創作になることは自明である。しかし、関口はそれがなぜ「秋」なのかについて全く言及していない。仮にこのテクストが内供の再生を中心に描かれたものだとしたら、時間設定は「秋」よりもむしろ「春」の方が通俗的であるがはるかに印象深いだろう。,本文へ, ,,,前掲論文において、関口は春陽堂版新興文芸叢書,大正七年,の「鼻」の結末部では次の文が加わえられたことに触れている。「しかし何をどうしても、鼻は依然として、亓六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか」。現在公表されているテクストの〈読み〉にそって読む立場から言えば、この付け加えられた結末部をここであえて分析する必要はない。しかし、この追加された部分は、「鼻」の語り手が当初、再生した内供の姿をシニカルに見ていたことを明確に示唆している。,本文へ, Copyright(C) 1999.tsuzura. 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