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j-208 1 社会科学の歴史的方法 ――国際関係論からのアプローチ―― ISS Discussion Paper Series J-208 保城広至 1 東京大学社会科学研究所 1 hoshiro@iss.u-tokyo.ac.jp 2 はじめに:歴史と理論、古くて新しい緊張関係 農村社会から近代産業社会へと至る様々な国の...
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1 社会科学の歴史的方法 ――国際関係論からのアプローチ―― ISS Discussion Paper Series J-208 保城広至 1 東京大学社会科学研究所 1 hoshiro@iss.u-tokyo.ac.jp 2 はじめに:歴史と理論、古くて新しい緊張関係 農村社会から近代産業社会へと至る様々な国の三つの経路を描いた、B・ムーアの『独 裁と民主政治の社会的起源』(Moore 1966)は、多くの社会学者・政治学者に影響を与え、 今なお読み継がれている名著の一つとされている。彼の研究業績は、比較歴史分析 (comparative historical analysis)と呼ばれるようになる研究分野の基礎を提供し、現在 に至るまでその方法論は、社会学や政治学の学界において一定の隆盛を保っている (Skocpol 1984; Mahoney and Rueschemeyer 2003)。ムーアが試みたのは、イギリス・フ ランス・アメリカ合衆国・日本・中国・インド・ドイツ・ロシアという、8 カ国の辿った 過程を歴史的に比較検討することによって、それらの国々が近代へ移行した三つの経路の 諸条件を明らかにすることであった。農村時代から近代化へといたる非常に長い期間と、 8 カ国という比較的多くの国を分析対象としながらも、ある程度の一般化・理論化に成功 しているムーアの研究は、多くの研究者の称賛を勝ち取り、大きな影響を後世に残した。 しかしそのような比較歴史分析の金字塔的研究ですらも、他方面からの批判を免れている わけではなかった。特に辛辣であったのは、あるいは冷たい視線を投げかけたのは、歴史 .. 家 . によるそれであった(Roberts 1996, 14)。なぜ社会学者や政治学者――彼らは総じて社会 .. 科学者 ... と呼ばれている――から高い評価を与えられてきた研究が、歴史家からは冷遇され たのだろうか。 その理由の一つは、ムーアが採用した方法では、歴史の「新たな事実」を明らかにする ことができないからである。すなわちMoore(1966)は、今までに蓄積されてきた歴史家の 研究業績を「事実」として扱い、利用することで自らの見解を打ち出している。換言すれ ば、もっぱら二次文献に依拠した分析に終始しているのである。イギリスやアメリカ、あ るいは日本を含む歴史的事実を自ら発掘することを、ムーアは試みようとはしていない。 このような研究態度が、歴史的事実を明らかにすることを研究の目的とする歴史家から、 総じて不評な理由の一つなのである。英国の社会学者であるJ・H・ゴールドソープによれ ば、ムーアに代される歴史社会学者たちは、「自ら好きな歴史的証拠を好きなように取捨 選択できる」と警鐘を鳴らす(Goldthorpe 1991, 225)。歴史学と社会学との区別はもはや ないとする「近年の傾向」に対して真っ向から反論するゴールドソープは、歴史家と社会 学者の違いを以下のように説明する。すなわち一方で歴史家の仕事は「史料や遺物から歴 史的事実を推論する」ことであり、他方で社会学者は歴史家の研究蓄積に頼ることである と定義する。そして後者の見解はいわば「解釈の解釈、そしておそらくは、そのまた解釈」 3 となってしまうだろう。ゴールドソープはこのように、ムーアが採用した歴史社会学の手 法を辛辣に批判したのであった(Goldthorpe 1991, 213, 220-223)2 さらにはその方法のみならず、その方法によって得られた理論や結論もまた、必然的に 批判にさらされることになる。すなわち、Moore(1966)の分析が国内経済要因を重要視し 過ぎており、その他の要因(政治や社会構造、国際環境など)を視野に含んでいない点や、 アメリカ合衆国における民主化の起源を独立戦争ではなく、南北戦争に求めている点、ま たイングランド内戦の事例において、ムーアがもっぱら R・H・トーニーの研究を参照し、 トーニーとは異なった歴史家の見解――これはひるがえってムーアの理論の手痛い反証と なる――を軽視している点などが、批判の対象とされてきた(Wiener 1975; Lustic 1996)。 。 このように、自らの理論に都合のよい研究や資料を断片的・恣意的に取捨選択し、それ を利用するような方法的欠陥は、「プロクルーステースの寝台問題」と称される。プロクル ーステースというのは、ギリシャ神話に登場する強盗のことである。この男はつかまえた 人間を鉄製の寝台に寝かせて、相手が長すぎれば出た部分を切り、逆に短すぎれば引き延 ばして寝台と同じ長さにしたと伝えられている。ひるがえって、歴史を理論に適合させる ように取捨選択したり、さらにひどくなれば意図的に事実をゆがめてしまったりする理論 家の試みは、しばしばそう表現される。 もちろん、このような歴史家と社会科学者との関係は、ムーアの研究とそれらの批判に 限られるわけではない。このような例は数多く観察される。歴史家の積み上げてきた事例 研究すら使わず、政治学者のそれを使って自らの理論を検証するような研究は、国際関係 史家の P・W・シュローダーによれば「すでに漉したティー・バッグを使って新たなお茶 を入れる」ようなものである(Schroeder 1997, 71)。自分の足を使って地道に一次資料を 掘り起こし、それを綜合して新しい歴史的事実を提供し続ける歴史家にとって、二次文献 だけに頼って理論を構築する社会科学者は、反感を持ちこそすれ、敬意を払うべき論敵と して扱われ難い存在なのである。 社会科学者の立場 では逆の立場からは、この問題はどのように映るのだろうか。 2 ただしゴールドソープの言うように、政府内部文書や、各地の文書館などに保存されてあった歴史的文 書――いわゆる一次資料――を直接に使用することだけでは、歴史研究として認められることの十分条件 ではない。それがある理論の検証に使われる限り、資料選択が恣意的になる可能性は常につきまとう。ゴ ールドソープが見落としたこの可能性とその対処法は、第 6 節で論じる。 4 「歴史社会学の観点からすれば、一次資料を掘り起こした純粋な歴史研究を、すべての 事例で行うことは自殺行為(disastrous)である。もしすぐれた歴史家によって蓄積され た研究があれば、それらを使うことは理に適っている」(Skocpol 1984, 382 の要約)。ム ーアの弟子であるT・スコッチポルはそう宣言することによって、ムーアの方法を擁護す る。ゴールドソープと同じく英国の社会学者である T・H・マーシャルもまた、次の発言 に見られるようにスコッチポルと同じ見解をとる。「歴史学者の務めとは、疑わしい典拠の 種々雑多な山を選りわけ、自身の慎重な専門的評価の結果を他者に与えることにある。そ して彼らは、歴史学者が書き記したものを信頼したことに対し、社会学者を責めることは ないだろう」(Marshall 1964, 35)。 つまり、社会科学者は歴史家ではないのである。それゆえ、両者の手法も異なったもの にならざるを得ないし、前者が後者によるすぐれた研究を利用することは当然の権利であ る、と彼らは言う。歴史研究を利用する社会科学者は、適切な方法をとる限り、ゴールド ソープが提起した問題を回避できると述べるものもいる。例えば政治学者の I・S・ラステ ッィクは、次のように論じる(Lustic 1996)。まず過去それ自体の、唯一の歴史(History) というものが厳然と存在する一方で、その大文字の歴史をめぐって、さまざまなヴァリエ ーションを持つ歴史的解釈・歴史記述(小文字で複数の歴史:histories あるいは歴史学: historiography)が他方で存在する。その二つの区別を確認した上で、社会科学者が利用 するのは後者、すなわち多様な歴史研究である。そしてそれら歴史研究の多様性は、統計 法則に従えば、研究蓄積が多くなればなるほど正規分布に近づくと想定しても良いだろう。 ゴールドソープが提起した取捨選択問題を回避するためには、以上のような歴史研究のヴ ァリエーションをできる限り多く紹介した後に、最も説得的でありまた最も信頼できる、 自分の寄って立つ歴史研究を明示することだとラスティックは提言する。このような方法 を採用することによって、理論の切れ味は鈍るかもしれないし、あるいは記述量が顕著に 増える恐れがあるかもしれない。そのような欠点はあるものの、歴史研究の取捨選択問題 を回避するには、この方法は一つの有効策であるとラスティックは言うのである。 さらには、歴史家に対して批判的視点を向けてみよう。具体的な歴史的細部に拘泥して 全体的理解に何ら貢献しない歴史家の視野を、社会科学者が狭いものだと見なすのも理解 できない話しではない。自分の専門の時代、しかも限りなく狭い時代に奥深く入り込み、 同じ時代・領域の専門家でしか理解できないような実証研究に埋没してしまっている歴史 5 研究者は、少なからずいるように思える。そしてそこからつくられた世界像は、狭隘で偏 ったものになる恐れがある。二十世紀を代表する歴史家である F・ブローデルは、「自分の 研究する世紀、『自分の』世紀から抜け出そうとしない歴史家にありがちなように、強盗行 為は十五世紀のコルシカに、あるいは十四世紀のナポリに出現するのだなどと言わないよ うにしよう」(ブローデル 2004、第 3 巻 147 頁)と、自らと同じ職業である歴史家に対 する訓戒を述べている。これは歴史家が自分の研究する時代を特殊だとみなす傾向がある と、ブローデル自身が認めているからなのだろう。仮にある時代、ある地域のみ .. に焦点を 当てて歴史分析を行った場合、どれほど詳細に調べたとしても、その時代や地域で生じた ことが、世界的に見てユニークであると言うことは、論理的に不可能である。つまり例え ば日本の歴史家は日本という国を世界的にみて特殊だとみなす傾向があるが、近代あるい は現代日本という枠の中に閉じこもって、比較の視点を失くしてしまえば、そこからいわ ゆる「日本特殊論」が出てくる余地はないのである。また上述のムーアが成し遂げたのは、 8 カ国という広い視野での比較分析を通じて、近代産業社会へのルートを決定づけた条件 の導出であった。これは一国だけを見ていては、決して明らかにすることはできなかった 条件だったはずである。 まとめよう。歴史分析を通じて社会現象の理論化を試みる社会科学者が、事実そのもの には無頓着、悪ければ歪曲しているという理由で歴史家の反感を買ったり、冷ややかに観 られたりするのは、極めてありそうなことである。また逆に、個別の事例だけに焦点を当 てて自らの分析事例の特殊性を強調する歴史研究に対して、社会科学者が違和感を覚える のも理解できる。そのため、研究方法や態度に対する言わば生理的嫌悪感からくる相互批 判は存在するが、お互いがお互いを、論敵とみなして正面から取り上げ、同じ土俵上で真 剣に反証し合うことはまれである。つまり歴史研究と理論研究の間には、一種の「棲み分 け」が確立しているのである(田中 2009)。 そして図 1 に見られるように、一次資料を広範に渉猟して新事実を提出する歴史家、そ れを利用して理論構築を行う社会科学者という構図は、所与のこととされてきた。ここに は一種の非対称な関係が横たわっているように思える。すなわち、歴史学者の研究を社会 科学者が利用することはあっても、逆に歴史家が社会科学者の理論研究を明示的に参照す ることはあまりない、という非対称性である。 6 図 1 挿入 もちろん、歴史家と社会科学者の上記のような関係は、今に始まった問題ではない。両 者の最も有名な論争としては、十九世紀のドイツに起こった、経済学「方法論争 (Methodenstreit)」がまず思い浮かぶ。これは、当時ドイツ経済学界の支配的な地位を 占めていた歴史学派と、それの領袖であった G・v・シュモラーに対して、経済学は演繹 に基づく理論的科学であると主張する経済学者、C・メンガーが突き付けた挑戦状であっ た(詳しくは、メンガー 1986)。このドイツにおける方法論争が起こってからすでに一 世紀以上の年数が過ぎ去ったが、百年間という歳月は、歴史と理論の緊張関係を解消する に十分な時間ではなかったようである。「政治学者は歴史学者ではないし、またそうなるべ きでもない。両分野の間には、埋められない認識論上のまた方法論上の溝が存在する」(エ ルマン&エルマン 2003, 32)。1990 年代の末、国際関係を専門とする歴史家と政治学者が 一堂に集い、その接点と相違とを探るために生産的な討論が行われたが、その会議の音頭 をとった C・エルマンらが出したのは、上記の結論であった。歴史研究と理論研究は、決 して一つになれないように運命づけられているかのようである。 融合は可能か? しかしながら、この棲み分けを当然のものとして、そのまま放置しておいても良いもの だろうか。両者を全く別のものとしてしまうと、いくつかの問題点が浮かび上がってくる。 まず挙げられるのは、歴史家の側の問題、先に述べたいわゆる特殊性の問題である。比較 し、相対化することで、ある歴史現象のユニークさや他の現象との同質性、あるいは重要 な条件が明らかになるのであれば、歴史家は自分の研究対象だけに集中しているわけには いかないだろう。 逆に社会科学者にも、プロクルーステースの寝台問題が絶えずつきまとう。例えば先述 したスコッチポルのムーア擁護に関して、彼女の言う「すぐれた」歴史研究を、多くのそ れらの中から見つけ出すような客観的、少なくとも間主観的な判定基準はあるのだろうか。 仮にそのようなものが存在するとすれば、すべての歴史家はその基準に則して研究すれば 良いわけであり、結果的にマンネリズムに陥り、学問の自由な発展は阻害されてしまわな いだろうか。またラステッィクの示した歴史研究の取捨選択回避法も、根本的な解決とは なっていないように思われる。なぜなら歴史研究選択の客観的なベンチマークが存在しな 7 い以上、社会科学者に不採用とされた歴史研究は、論敵を使用した理論研究に対して、恣 意的な取捨選択を行っていると主張する権利を常に持っているからである。歴史研究の選 択において、慎重な判断をしていくつかのヴァリエーションを示せば、「恣意的な選択」の 免罪符を得られると考えている社会科学者は、あまりにもナイーブとみなさるかも知れな い。さらには、従来高く評価されてきた歴史研究が、新たな史料の発見や異なった論理な どを駆使した新しいそれに取って代わられることは、しばしば観察される事実である。つ まり歴史研究というものは、ラスティックが言うように徐々に正規分布を形成していくも のとは限らず、一気にパラダイム・シフトを起こす可能性を常にはらんでいるのである 3 歴史研究と理論研究の溝を取り払うことによって、上記のような乖離問題を解決するこ と、これが本稿の目的である。国際政治学者であるR・ジャーヴィスのかなり乱暴な言葉 を借りて言いかえれば、「見ればわかる」(ジャーヴィス 2003, 258)とされている両ディ シプリンを、「見てもわからない」ものにするための方法を提供することにある。答えは至 って単純である。図 1 に描かれている歴史家と理論家の役割を、同一の研究で担えば良い のである。おおざっぱに言ってこれには、二通りのやり方が考えられる。一つはすでに存 在する理論的知見をもって、質の高い歴史分析を行うことである(Trachtenberg 2006)。 例えば合理的選択論やカルテル理論、プリンシパル=エイジェント(principal-agent)理論 といった政治経済学の理論レンズを通じて、寡頭政治家から職業政治家へ、そして軍部指 導者へといたった近代日本の政治支配体制の変遷を分析した、J・M・ラムザイヤーとF・ M・ローゼンブルースの研究(Ramseyer, and Rosenbluth 1995)は――質の高い歴史研究か どうかは意見が分かれるだろうが 。 その場合、社会科学者は大きな問題にぶつかることになる。図 1 に即して言えば、歴史家 Yと歴史家Zの業績が歴史家Xによって反駁されたとすれば、理論家Aと理論家Bの研究 もまた、誤った歴史研究を利用していたという理由で(つまり彼らの責任外のところで)、 崩されてしまうのである。社会科学者というものはつまり、常に脆い砂上の楼閣に立って いることにならないだろうか。歴史的な社会現象の理論化を試みる社会科学者にとって、 これは無視できない――ただし等閑視されてきた――大きな問題ではないだろうか。 4 3 もちろんそのようなシフトは、歴史研究だけの現象ではないだろう(Kuhn 1996)。 ――この範疇に入るだろう。本稿はこのやり方をとら ない。なぜならこのアプローチでは、すでに指摘したプロクルーステースの寝台問題が絶 えず付きまとう上に、自分の見解の独創性が多分に損なわれるからである。自然科学など 4 ラムザイヤーらの研究に対するかなり辛辣な批判として、(伊藤 1996)。 8 他分野で発展した理論を自分のディシプリンに適用するならまだしも、自分と同じ専門の 研究者による理論をそのまま事例分析に使うという行為は、オリジナリティを重視する学 問の研究者にとってあまり褒められた行為ではない。 従って本稿は、逆のベクトルを採用する。すなわちそれは、一方で歴史的実証分析を行 い、他方で自ら築き上げた歴史事例でさらに理論を構築する、という時系列関係である。 ただしそのためには、いくつかの限定された条件と明示的な方法論が必要となる。本稿で これから論じようとするのは、国際関係論における歴史分析を理論化するための方法論で ある。 簡単に本稿の構成を述べておこう。次の第 2 節では、「法則定立的(nomothetic)」な研 究を目指す社会科学研究と、一回限りの現象に対して緻密な分析を行う「個性記述的 (idiographic)」な歴史研究と一般に言われてきた区別に焦点を当てる。果たしてこの区 別は絶対的なものかどうか、本稿の目的に沿って両者を統合することができるならば、ど のような理由付けや条件が必要か、その点を考察する。第 3 節では、「説明」とは何であ るのか、という問いを論じる。一見当たり前で取り上げる必要性を感じないこの問題も、 実はなかなか奥深いものが潜んでいるのである。少なくとも、歴史家と社会科学者の考え る「説明」は、必ずしも一致しない。一致させるためにはどうすれば良いのか。これを考 察するのが本節の目的である。第 4 節では、帰納法と演繹法の問題点を取り上げ、歴史分 析の理論化には、どのようなアプローチが適当かを考える。 第 4 節まではやや抽象的な方法論を扱っていたが、第 5 節以降は、具体的なアプローチ に踏み込んでいく。特に筆者の専門である国際関係論・外交政策論の理論化へ向けて、具 体例を示しながら論じる。前節まで社会科学者と歴史家のコントラストをやや一般的・抽 象的に描いてきたが、本節以降はより具体的に、外交史分析の理論化という観点から論じ ていく。第 5 節はリサーチ・デザインの必要性をまず述べた後に、どのような分析事例を 選択すべきか、を論じる。第 6 節では、理論をもって一次資料にあたるアプローチを批判 的に再考し、そこから生じる問題をどのように解決するかを考える。第 7 節では、それま での実証分析結果を総合して理論化する方法を論じ、最後にまとめで締めくくる。 2 中範囲の理論 ―時代・空間の限定― では理論とは何だろうか。本稿では、繰り返して現れる(と考えられる)個々の現象を 9 統一的に、単純化・抽象化されたかたちで説明でき、十分に検証もされている体系的知識 のことを、理論と定義する。従って、歴史とは一過性のものであると信じる歴史家にとっ て、歴史分析を理論化する、という本稿の課題は、そもそも自家撞着である。昨日の自分 は今日の自分と違うし、明日の自分とも異なる。そうであるなら、人間が創り出す社会の 歴史に同じパターンなど現れようがなく、外交史分析の理論化も無意味である。「法則定立 的(nomothetic)」な研究を目指す社会科学者と、特殊かつ一回限りの現象に対して緻密 な分析を行う「個性記述的(idiographic)」な歴史家とはこの点で、大きな断絶が存在す る。実際のところ、歴史は(理論化を目的とする)社会科学にはなり得ない、とする歴史 家は数多いと思われる 5 しかしながら実際には、昨日の自分と、今日の自分、そして明日の自分が大きく異なる ことはほとんどない。仮に人類すべてが一夜にして全く別人格になり、朝起きてその日の 家族、隣人や同僚の性格・行動が全く予想できなかったとすれば、社会が混乱に陥るのは 目に見えている。私たちが日常生活を何の問題なく過ごすことができるのは、かなりの程 度の類似性と連続性とがそこに存在しているからである 。 6 ただしこの考えを大きく敷衍し過ぎてもう一方の極に行き着くと、新たな問題が浮上す る。すなわち、有史以来現在までを、かつ、ありとあらゆる地域社会を包含するような歴 史法則が存在しており、それを発見するのが社会科学者の使命であるという考えである。 このような考えに陥穽を見いだすには、国際政治学において、時代と空間に限定されない 研究がかつて存在しただろうかと問うてみれば十分だろう。大仕掛けの研究業績である 。国際政治においても、我々は 例えば「外交交渉」「同盟の形成」「抑止」など、様々な時代や地域にちらばる現象を表現 するために、抽象的・一般化された語彙を使用している(George 1979, 49)。国際関係を 専門とする歴史家が、上記の語彙を使用せずに研究を行うことは不可能に近い。従って、 人間社会の歴史において、繰り返し現れ一般化できるような、何らかのパターンがあると 信じてそれを探求する社会科学者の試みは、非現実的であるとは思われない。さらに言え ば、具体的現象というものは際限のない異なった様相を持っており、それを完全に描写し たり、説明したりすることもまた不可能である(Roberts 1996, 8)。個別事象の詳細な分 析にのみ関心を示す歴史家もその意味で、ある程度の一般化を行っているのである(カー 1962, 89-93 も参照)。 5 典型例として、マイヤー&ウェーバー(1965)。 6 ただし昨日の自分と今日の自分、明日の自分に類似性があるという命題は、帰納的な一般化に過ぎない。 10 I・ウォーラーステインの世界システム論は、本格的な分析を 1450 年から始めている(時 間の限定)。その上、そもそもヨーロッパ中心的であるにも拘わらず、その地域中の(例え ばイギリス、フランスとプロイセン、オランダとの)違いすら統一的に説明できていない と、その出版直後から批判を浴びたのである(空間の限定)(Wallerstein 1974, Gourevitch 1978, 423-27)。いわゆるグランド・セオリーを目指したK・ウォルツの国際システム論も また、その分析射程のほとんどを近代以降の大国間政治に絞っている(Waltz 1979)。 産業化されていない非国家主体や古代ギリシャからもサンプルを集めているB・ラセッ トらの(初期の)民主主義平和研究は、おそらく数少ない例外の一つと言えるかも知れな い(ラセット 1996)。しかし彼らの研究の問題点は、分析の中心となる概念 .. が歴史的に大 きく変遷してきたことを考慮に入れていないことにある。すなわち近代以前、古代ギリシ ャにおいては、「民主主義」という概念が含意するものはいわゆる「衆愚制」のことであり、 否定的な意味合いの方が強かったはずである。そうだとすると、「民主主義」というような 概念が、古代ギリシャと現代とで同じ意味を持っていたと想定すること自体、誤りである と結論せざるを得ない 7 時間に限定されない法則主義に生じるもう一つの問題点は、予言性、特に予言の自己否 定性(self-denying prophecies)と呼ばれているものである。仮にある「社会法則」が発 見されたとして、その法則が社会全体に広まって万人が知悉するようになれば、その法則 が説明する社会行動自体が変化してしまうというパラドックスである。マルクス主義が破 綻したのは、その教義が持つ法則性が正しくなかったことも一因であろうが、マルクス主 義に警戒心を抱いた資本家階級が、労働者階級を懐柔した結果だったという説明は、あな がち的外れではないように思える 。「民主主義」「革命」あるいは「国家」といった概念は、使用さ れる時代や使用する者の置かれた状況によって変化していく。時代や空間が広がれば広が るほど、その乖離はますます大きくなる。その現実を受け入れずに、比較できないほど異 なった意味内容を持った概念を、同音であるという理由で単純に一つの集合に入れてしま えば、「概念の過剰散開(conceptual stretching)」に陥る危険性が生じるのである(Sartori 1970)。 8 7 民主主義平和論は決して「一般法則」なものではなく、時間・空間・文明(第二次大戦後の欧米国家間) に限定されているという主張は、Cohen (1994)に見られる。 。また例えば最先端の金融工学によって、儲かる確率 の高い株式投資のモデルが開発されたとしよう。少数の個人がそれを利用している間は問 8 もちろんマルクス主義の問題はより幅広く奥深いものであり、本稿のような小論で扱えるものではない。 以後マルクス主義と歴史学の問題は敢えて触れない。 11 題は起きないだろうが、世間に広まって大勢がそのモデルに従って投資するようになれば、 その有効性が失せてしまうのは目に見えている。さらには、マクロ経済学における大恐慌 研究の蓄積によって、1920 年代のような大恐慌の再来は回避できると、ほとんどの経済学 者は考えるようになっている(Mankiw 2007, 323)。社会科学あるいは歴史の研究が、分 析対象である社会に影響を与える可能性は、このように常に存在するのである。そのよう な影響――つまり、自分の研究が社会に与えるインパクト――を乗数効果的に織り込んで 法則を立てたり、予言を行ったりすることは、依然としてサイエンス・フィクションの領 域であろう(安部 1959;ディック 1999)。 社会現象に類似したパターンが認められ、限定された時代横断的な比較と一般化が可能 であることを、歴史家は理解し、少なくともその試みに寛容であるべきである。時代と空 間に限定されない社会理論などあり得ないという現実を、社会科学者は受け入れるべきで ある。つまり社会科学者と歴史家との違いは根本的なものではなく、記述量と範囲幅の違 いということになるだろう。歴史分析の理論化を行うための条件の一つは従って、歴史的 実証分析の質を保ちつつ、特定の時代と空間に限定された範囲の中でのみ通用する理論― ―「中範囲の理論(theory of middle-range)」(Merton 1968, chap.2)、「限定的一般化 (limited generalization)」(ギャディス 2004,83)、「範囲条件(scope condition)」(Goertz 2005, 193-198)と呼ばれているもの――の構築を目指すことにある。 社会学者の R・モートンによれば、中範囲の理論とは、観察される社会行動や組織の行 動からあまりにも遠く離れた一般理論と、詳細ではあるが全く一般化を行わない個別記述 との間に位置している(Morton 1968, 39)。モートンが特に批判的なのは、あらゆる現象 を一つの理論で覆いこむものの、実証的な確証がないパーソンズやマルクス流の全システ ム社会学理論(total sociological system of theory)である。物理学ですら、数世紀とい う長い間時間を経てもなお一般理論を構築するに至っていないのに、一般化するに適当な 実例がようやく蓄積され始めた社会学が、それを目指すのは時期尚早であるとモートンは 警鐘を鳴らす(Morton 1968, 48)。社会学が目指すべきなのは従って、論理的に導きださ れてある程度の抽象化が行われていながらも、その説明する範囲が存在し、実証的に確証 することができる理論(empirically grounded theory)、すなわち「中範囲の理論」であ る(Morton 1968, 68)。 12 図 2 と図 3 は、「中範囲の理論」のイメージを視覚化したものである 9 以上のような限定的一般化の構築が、歴史分析の理論化にとって不可欠な土台となる。 。前者は時間的限 定を、後者は空間的限定を示している。例えばある地域における被説明変数が、長期的な 傾向としては時間とともに増大している傾向を示していたとする。ただしこの傾向が千年 単位といったかなりの長さであれば、データ・資料不足や研究者の時間的制約により、千 年にわたって全体的な傾向を捉えることは困難であろう。そこである部分を明示的に切り 取って、その範囲内で実証分析と理論化を目指す。これが時間的限定である。図 2 の左側 で切り取られた範囲では、時間が経過してもデータはほとんど変化しない。逆に右側では かなり急激な変化が観察されている。もちろん両者は長期的傾向からは乖離しているのだ が、この長期傾向が実際には捉えることができない以上、両者の一般化は許容される。た だしそれは、「1900 .... 年から ... 1920 .... 年の間 ... は変化がなかった」あるいは「冷戦期に .... は . 急激な 変化が見られた」といった、時間的な限定符を付した場合だけである。同様に、ある特定 の期間においてあらゆる地域で、図 3 のような現象の散らばりが生じていたとする。この データをすべて把握していれば、回帰直線はbeforeのようになるだろう。しかしながらあ らゆる地域を包含したデータを集めるのは容易ではないため、我々は一部欠損したそれで 満足せざるを得ない(水色部)。そのようなデータ欠損の結果、afterのような回帰直線が引 けることになるが、それもまた地域的な限定として許容される。 図 2、図 3 挿入 3 「説明」という概念をめぐって 「説明」とは何だろうか? 我々は、日常的に、頻繁に使用する単語の厳密な定義や意 味を述べよと問われたとき、答えに窮したり、あるいは個々人によって見解が異なってし またったりすることがしばしばある。おそらく、「説明」という語もその一つではないだろ うか。本稿では、「説明」という概念は 3 つに分類できるという立場をとる。そして歴史 分析の理論化のためには、そのうちの 2 つを同時に満足させることが必要であると主張す る。 説明とは、第一に、それが因果関係の解明であるという意味に使われる。北米を中心と 9 図 3 自体は、Berk(1983, 389)から借用した。 13 する政治学者、特に「実証主義者(positivist)」とラベル付けされる研究者は、政治現象 の因果関係を明らかにすることを所与の前提としている。古くはJ・S・ミルも「説明」 を因果関係の解明であると述べているし、実証主義者に名を連ねる科学哲学の大家や近年 の社会科学方法論を扱った教科書も、圧倒的多数が「科学的説明」を「なぜ疑問(why question)」に答えること、すなわち因果関係の解明であるとしている(Mill 1875, chap.12; Hempel 1965, 334-335; Salmon 1984 ;Little 1992, chp.2 Van Evera 1997, 8-9; キングほ か 2004, 89-90)。このような見解はもちろん社会科学者の専売特許ではなく、歴史家にも 見いだすことができる。「歴史の父」と言われるヘロドトスの『歴史』はその序文で、ギリ シャ人とペルシャ人が、いかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情を明らかにする こと、すなわち因果関係の解明を本書第一の目的として挙げている(ヘロドトス 1972, 9 頁)。さらには L・フェーブルとともにアナール学派の基礎を築いたM・ブロックや、外交 史家E・H・カーなども、「歴史の研究は原因の研究」と述べ、上記のような「実証主義者」 と調和的である(ブロック 2004,167; カー1970, 4 章)。近年においても、政治学者から好 んで引用される Roberts (1996)は、歴史的因果関係についての包括的な解説書であり、様々 な原因の重要度を近因/遠因、日常性/非日常性との違いなどから推定する方法や、行為 者の動機や願望が結果に影響を及ぼすのかどうか、という問題などを論じている。 彼らに通底しているのは、ある社会現象にはそれを生じせしめた原因があるという存在 論的な同意であり、その因果メカニズムを明らかにすることが自分たち研究者の役割であ る、という共通の了解である。ただし言うまでもなく、ある社会現象に対して、それが生 じたすべての原因を枚挙することはとうてい不可能である。その因果メカニズムはあくま で蓋然的で仮説にとどまらざるを得ない、という了解もまた存在する。 説明の二つ目は、それが統合的という意味において使用される。これを主張している科 学哲学者の P・キッチャーによれば、説明とは、被説明項を導くための推論パターンを減 らすことであると言う(Kitcher 1976)。例えば従来はばらばらであったケプラーの法則や ガリレオの落体の法則を、一つのニュートン力学で綜合することは、「統合という説明 (Explanation as Unification)」である(Kitcher 1981, 519)。 説明の第三番目としては、それがある状態や性質を描写する、という意味に使われる。 第一の意味の説明を使用する社会科学者や旧世代の歴史学者とは対照的に、近年の歴史学 においては、因果関係の解明というのは決して万人に受け入れられている前提ではなく、 むしろそれを否定的に論じる歴史家は少なくない(White 1973, 11-13; ヴェーヌ 1982, 14 170-172、269-275; Vincent 1995, 70-76; Elton 2002, 10)。彼らにとっては、そもそも実 証主義者が持つ上記のような存在論的な同意がないのに加えて、ある社会現象を「何であ るか」を描写、理解することも「説明」(explaining what)の一つに含まれるからである (Dray 1959)。すなわち例えば、ある国家の「国民性」やある時期の「時代精神(zeitgeis)」 を特徴付けたり、ある政策の意図や目的を「解釈」したりすることもまた、因果関係を解 明した訳ではないにも拘わらず説明であって、重要な学問的貢献と見なされる。特に 1970 年代以降、アナール学派の歴史人口学に見られる過度の計量分析重視姿勢や、経済決定論 的なマルクス主義史学に代表される「科学的歴史学」から、社会史や生活史における特定 的で個別的なもの、従来少数派として見過ごされてきた人々を「叙述」する方向――いわ ゆるミクロの歴史――へと世界の歴史学が舵を切って以降、ますますその傾向が強まって いる(Stone 1979; ギンズブルグ 1984; コルバン 1999; 網野 2000; ル=ロワ=ラデュリ, 2002; Pedersen 2002, 51)。つまり上記 E・H・カーや M・ブロックなどの方法論的認識 は、もはや支配的なパラダイムと言うよりは、歴史学の数あるリサーチ・プログラムの一 つに後退した観がある。 また、上記のような歴史家と同じく、因果関係に対して懐疑的な立場をとる研究者とし て良く引き合いに出されるのは、文化人類学者のC・ギアーツである。ギアーツによれば、 ある特定の文化を「解釈」することが、自らの研究目的となる(Geertz 1973)。例えば片 目をつむる行為ひとつとっても、それは目配せかもしれないし、ただ片目をつむるのが無 意識な癖なのかもしれない。カメラで撮ったならば、あるいはただ「片目をつむる」とい う事実を描写するだけなら、双方の行為は全く同じであるだろう。しかしながら我々は、 その片目をつむるという行為になんらかの意味を求める――解釈する。同様に、異国の地 で研究者が自己の常識から判断して不可解な行為なり儀式が観察された時は、それを理解 し、その通常性を明らかにする必要がある。これがギアーツの求める文化人類学の学問姿 勢、解釈学である 10 そして国際関係論において上記のような歴史学・文化人類学の傾向と軌を一にするのが、 フェミニズム、批判理論といった「ポスト実証主義」と、1990 年代以降国際政治学の主流 。ギアーツらの文化人類学者と歴史家に共通するのは、抽象的規則性 の否定、因果関係が存在するということへの懐疑、あるいは因果関係を明らかにしなけれ ばならないという社会科学者的な義務感への批判であろう。 10 ちなみにこの「解釈学」の社会科学的起源は、マックス・ウェーバーの Verstehen という概念と、彼 が提唱した理解社会学に遡る(ウェーバー 1987)。 15 の位置に躍り出た、社会構成主義(social constructivism)である。彼らにとって、研究 上の問いの中心になるのは「なぜ?」ではなく、「どのように(how?)」あるいは「何であ るか(what?)」であり、これが実証主義者との(決着がつきそうもない)論争の原因の一 つとなっている。特にA・ウェントに代表される社会構成主義者は、国際社会における規 範やアイディアが「構成されるのを明らかにすること」をも「説明」と呼ぶ(constitutive explanation)(Wendt 1998, 108; Ruggie 1998, 24)11 。このような認識は実証主義的な社 会科学者のそれよりも、近年における歴史学のそれに近いと言える(表 1)。 表 1 挿入 そしてもちろん、このような「解釈」学に対して、因果関係の解明を重視する社会科学 者は批判的である。例えば D・リトルは、ウェーバーやギアーツの解釈学というのは特有 の方法論や首尾一貫性があるわけではなく、ある現象を「説明」するにはあまりにも弱い、 と批判する(Little 1991, 72-73)。さらには、ギアーツ流の解釈学はある特定の文化を記 述するにとどまり、文化を越えた一般化や普遍化などを目指すものではないとして、それ を可能とする合理的選択論や唯物論的な社会科学に軍配を上げるのである(Little 1991: 80-97)。 二つの説明概念を同時に使用する さて、我々が目的とする説明とは、上記三つのうち第二の意味ではない .. ことは明らかで あろう。前節で述べたように、歴史分析の理論化は、「中範囲」の一般化を目指すものであ り、統合論のようなグランド・セオリーの構築ではないからである。従って本稿が目指す のは、第一と第三の「説明」概念の統合である。これは概念を無理に一つにすると言うよ りは、両者を同時補完的に使用する、ということで解決可能である。新事実の記述あるい は解釈と、その事実に関する因果関係の解明とは、対立する概念ではないからである。 両者を同時に追究した例を我々は、F・ブローデルの代表作である『地中海』に見いだ 11 ただし、これを「説明」と呼ぶことに対しては、実証主義はもとより、ポスト実証主義の立場からも 批判があり、ウェントは両者に挟撃される形になっている。実証主義的な立場からの批判としては、 Dessler (1999, 123-130)、ポスト実証主義の立場からのそれは、Smith (2000, 156-160)参照。表 1 は単純 化のために構成主義とポスト実証主義を同一の枠に入れたが、以上の理由により、この類型に問題がない わけではない。この論争をまとめたものとしては、Tannenwald (2005)が参考になる。 16 すことができる(ブローデル 2004、第 2 巻 361~418 頁)。ブローデルはまず、地中海世 界は 16世紀を通じてしだいに衰退していったとの支配的な考えに対して、意義を唱える。 すなわちブローデルは、地中海の衰退はいつ始まったのかという What 疑問に、1580 年 代、というかなり明確な答えを提出する。もちろんこの見解は先行研究と異なるものであ り、新たな事実の提示である。さらに、なぜ衰退が起きたのか、という Why 疑問には、 以下のように説明する。すなわち 1580 年代は、飢饉がスペインとイタリアを襲い、オラ ンダの船がジブラルタル海峡を渡って、飢えた地中海へバルト海地域の穀物を運んだ時期 である。また、フェリペ二世が地中海から大西洋に目を転じたのが、まさしく 1580 年代 だったのである。このようなブローデルの説明はまさしく、「What 疑問」と「Why 疑問」 両者に答えた例に他ならない。 歴史分析の理論化にとっての説明とはすなわち、ブローデルが行ったように、まず新し い事実を(先行する研究と異なったかたちで)明らかにした上で、当該事実が起こった原 因を明らかにすることである。これによって、歴史家と社会科学者(実証主義者)との説 明概念双方を満足させることが可能となる。 4 帰納/演繹、アブダクション 「さて、私の考えでは、帰納と言うものは存在しない」(ポパー Popper, 2002b: 18) 「現実の社会現象から観察された経験に基づく研究と、例外のないことを保証する理論 研究とは全く別物であり、後者は経験から隔離しなければならない」(メンガー 1986 年)。 20 世紀初頭に、反証可能性という科学哲学の概念を提唱したカール・ポパーと、19 世 紀末のドイツにおいて、経済学「方法論争」の引き金を引いたカール・メンガー。理論は 観察データの集積から生まれなければならないとするベーコン流の帰納法への懐疑、両者 に共通しているのはこの懐疑であった。ひるがえって、理論というものは、前提をアプリ オリに立て、結論を論理的に導き出す演繹法によってしかつくられないというのが、彼ら の主張である。 それとは対照的に、歴史家の仕事とは、過去についての手掛かりを教えてくれる広範な 資料を発掘・渉猟し、それらを組み立てて何らかの知見を提出することにあったはずであ る。すなわち、事実観察の集積によって結論を導きだすという、帰納法的な手法をとると 17 言える。そうであるなら、歴史事象を演繹的に分析するということは、非現実的というこ とになるだろう。最終的には、帰納法から理論を形成することはできない以上、歴史分析 の理論化は不可能である、という結論が導きだされるかもしれない。 本節では、上記で浮上した問題点を検討した後に、歴史分析の理論化にはどのような推 論の方法を採用するべきかという問いに、一つの解答を提出する。すなわちまず帰納法と 演繹法それぞれの問題点を、具体的な歴史分析に照らして明らかにする。その上で、純粋 な帰納、純粋な演繹とは異なった方法、アメリカの論理学者・科学哲学者であった C・パ ースが「アブダクション」と呼んだ方法が、歴史分析の理論化に最も相応しいツールであ ることを提唱する。 帰納法の陥穽 なぜ帰納法からは、理論は形成できないのだろうか。その疑問には「帰納的飛躍 (inductive-leap )」と、「理論負荷性(theory-ladenness)」、という二つの観点から説明 可能である。 前者の帰納的飛躍につきまとう欠陥は、以下のように説明される。観察から得られた単 称言明(singular statements)から普遍言明(universal statements)へ一般化する推論 は、「帰納的推論」と呼ばれている。例えばある国際危機において、政府首脳による命令と 矛盾した軍部の行動が観察された事実から、「官僚組織は標準作業手続きに従って行動する」 という組織理論を、ある研究者が導き出したとしよう。通常のルーティンワークが支配し がちな平和時ではなく、例えばキューバ危機のような、リーダーの命令が比較的重要な意 味を持つ危機時で見られたならば、当該組織理論にとって、これはかなり強力な事例―― ハード・ケース――となる(Allison and Zelikow 1999, 7)。その研究者は、自分の発見し た事実を驚きと興奮を持って迎えるだろう。ただし同時に、一つの事例だけで一般化する ことは心もと
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