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日本国家概况(第二篇日本的社会)

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日本国家概况(第二篇日本的社会)bbs.ribenyu.net日语论坛资料免费下载 NHK天声人语 日语猜谜 就来日本语家园 www.ribenyu.cn 第二編  日本の社会 第一章  日本の政治 第一節 天皇の憲法上の地位 日本が国家として誕生して以来、国家の「象徴」としての地位を維持し続けてきたのは天皇である。しかし、天皇が直接国家を統治したのは古代を除いてほとんどなく、現実の政治を行っていたのは、貴族であり、武家を中心とした幕府であった。近代になって、いわゆる「明治憲法」が施行され、天皇が憲法上の統治者となったが、政治制度は「議院内閣制」が採...
日本国家概况(第二篇日本的社会)
bbs.ribenyu.net日语论坛资料免费下载 NHK天声人语 日语猜谜 就来日本语家园 www.ribenyu.cn 第二編  日本の社会 第一章  日本の政治 第一節 天皇の憲法上の地位 日本が国家として誕生して以来、国家の「象徴」としての地位を維持し続けてきたのは天皇である。しかし、天皇が直接国家を統治したのは古代を除いてほとんどなく、現実の政治を行っていたのは、貴族であり、武家を中心とした幕府であった。近代になって、いわゆる「明治憲法」が施行され、天皇が憲法上の統治者となったが、政治制度は「議院内閣制」が採られ、政治の責任は政府が担っていた。しかし、戦前の天皇は神格化され、日本国という大家族の家長のように扱われていた。敗戦処理にあって、欧米諸国は日本の天皇制をどうするか大問題だったということである。「天皇制を廃止すれば、日本は混乱しアメリカの占領は失敗する」という米国政府の判断から天皇制が維持された。天皇自ら「人間宣言」をして、その神格化を否定した。結局、天皇の戦争責任を追及せず、政治の一線から引退させて、名誉ある地位を保つ形に落ち着いた。 現行憲法では、天皇は日本国の象徴であり、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと定められており、憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しないとされる。そして、この国事に関する行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負うことになっている。 この国事に関する行為とは、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命すること、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命すること、また内閣の助言と承認に基づき、憲法の改正・法律・政令及び条約の公布、国会の召集、衆議院の解散、総選挙施行の公示、栄典の授与、批准書及びその他の外交文書の認証、外国の大・公使の接受を行うこと、などに限定されている。 このように、天皇は政治上の権限を有しないが、国家的な礼儀としての国事行為のみを行い、国政に関する機能は持たないというシンボルとしての存在となっており、外交礼儀上は元首として扱われる。 第二節 皇室の歴史 日本にはイギリスの王室のように皇室がある。日本の現存する最古の史書『古事記』、『日本書紀』によると、紀元前660年に初代の天皇が即位したことになっている。しかし、天皇の存在を史実に即して説明できるのは4―5世紀以降である。現在の天皇は「万世一系」の125代目の当主である。古代国家の成立以来日本を支配していた天皇家、つまり「皇室」は、政治的権力者というよりも宗教的・文化的支柱として国民の尊敬を集めていた。 7世紀に中国の法律制度を導入して、天皇は自ら政治をすることになったが、実際に政治を行う期間は短かった。長い歴史を経て種々の変遷はあるが、大政奉還(1867年)によって、天皇は再び国の統治権を行使することになった。しかし、実際は立法・行政・司法の三権分立の形をとった立憲君主制であった。第二次世界大戦後、現行憲法による天皇及び皇室の形になった。天皇が日本国民統合の中心であるとする観念を国民の間に強く根づかせたのは、古代以来の伝統と権威に加えて超然たる存在であったという史実がある。 日本では通常、天皇のご存命中はお名前を呼ぶことはしない。崩御後はおくり名をつける。例えば、124代天皇のお名前は裕仁であったが、ご在位の元号が昭和であったので、今は昭和天皇と呼んでいる。 今の天皇は125代目で、お名前は明仁で、1933年12月23日にご誕生、学習院大学の政治経済学部に学んだ。1959年に旧家としても知られている経営者の子女である正田美智子さんとご成婚をあげて、1989年1月に践祚した。 皇后のお名前は美智子で、民間(元日清製粉社長正田英三郎氏の長女)のご出身で、1934年10月20日ご誕生、聖心女子学院中、高等科を経て、聖心女子大学文学部外国語外国文学科に進学、英文学を専攻した。今皇族以外の民間からの皇后は聖武天皇の光明皇后以来のこととされる。ご趣味が幅広く、テニスのほか文学や音楽を愛好し、ピアノも弾き、英語とフランス語ができる。テニスを通しての今の天皇とのロマンスは有名である。 皇太子のお名前は徳仁で、1960年ご誕生、学習院大学及び英国オックスフォード大学に学ばれた。1993年、民間ご出身の小和田雅子さんとご成婚になった。  天皇、皇族の生活や活動の費用として皇室費があり、予算計上と国会の議決を必要とすることが皇室経済法で定められている。1998年度の総額は約67億円で、内訳は内廷費、宮廷費、皇族費に分かれる。その中で、宮廷費は、儀式、国賓・公賓などの接待、公的旅行、外国訪問など皇室の公的活動や皇室用国有財産の管理、皇居などの施設整備に必要な経費などで、2001年度は約70億円であった。 第三節 日本国憲法 日本で、憲法の制定がはじめて問題になったのは明治維新後のことである。徳川幕府による統治構造を打破したのち、日本は新しい国づくりを試みることになった。こうして国民の中から自由民権運動が起こり、欧米諸国がすでに持っていた憲法にならって、日本国でも憲法を制定して議会を開設し、人権を保障する政府形態を作るべきだ、と主張するようになった。当時の政府当局も近代国家の形を整え、欧米諸国に伍していくうえで、憲法の制定は必要だと考えた。しかし、政府にとっては、天皇を統治の中枢にすえた、中央集権的な強力国家を作ることが最重要課題であった。アメリカ合衆国やフランスのように、市民革命によって古い政治機構を一揆に倒したところで制定された憲法は、明治政府の人々にとっては余りにも民主的、自由主義的でありすぎて、日本に相応しくない。そこで、君主がなお依然として政治の中心にいて強い権力を有したままになっているプロイセンなど当時のドイツ諸邦の憲法は、日本国の憲法のモデルに選ばれた。こうして1889年(明治22)に大日本帝国憲法(明治憲法)を発布した。これは欽定憲法であり、富国強兵の天皇制国家を目指した立憲君主制の憲法であった。 その特色を見ると第1に、天皇主権であった。神聖不可侵とされた天皇は、元首で統治権の総覧者として立法、行政、司法の三権を掌握した。 第2に、近代憲法の形式にしたがって国民の権利に関する規定が定められたが、権利は天皇が「臣民」に与えたものであり、保障される多くの権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」認めるなどの法律の留保がついたものであった。また、緊急時には天皇大権によって国民の権利を停止することなどが認められた。そのため国民の権利は法律や勅令で容易に制限されることとなった。 第3に、統治機構は天皇の統治権のもとで権利分立制の形式が採用された。しかし、帝国議会は制限選挙ではあったものの民選の衆議院と、皇族・家族・勅選議員などからなる貴族院から構成されたが、天皇の立法権への協賛機関であり、その権限は限定されていた。 このように、明治憲法のもとでの政治体制は、天皇を頂点に、官僚と軍人が支配する行政優位の体制であり、議会の地位と権限は弱かった。 1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、イギリス・アメリカ・ソ連・中国などに降伏して、戦後の再出発を始めることになる。ポツダム宣言は、連合国の対日基本占領政策を定めた文書で、日本の民主化と非軍国主義化を要求していた。これに基づいて占領軍は10月、民主化政策の一環として、明治憲法の改正を日本政府に指示した。1946年2月、日本政府は憲法改正案を作成して占領軍に提出したが拒否された。それは、政府案が明治憲法の字句を一部修正したものに過ぎず、天皇制の国家体制の維持・天皇主権に固執していたためである。そのため、政府案に代わって、占領軍当局が作成した憲法草案を日本政府に提示した。この草案に基づき日本政府が作成した改正案が、帝国議会の審議に委ねられた。議会は若干の修正を行って、これを可決した。これが現行の日本国憲法で、1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された。これは国民の名によって国民のために成立した最初の憲法であり、平和と民主主義を基本とした新憲法の内容を、国民は基本的に歓迎した。 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の保障、平和主義を基本三原理としている。憲法の前文は「日本国民は……わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と述べて、自由・人権の保障・平和主義・国民主権の三原理をうたうとともに、この憲法が国民の制定した民定憲法であることを明している。 日本国憲法は(1)近代憲法の原理である国民主権、基本的人権の保障、権力分立制などを定めるとともに、(2)20世紀における現代憲法として、自由権に加えて新たに社会権を保障し、(3)さらに他国に例のない徹底した平和主義を採用していることに特色がある。日本国憲法は恒久の平和と民主主義を念願する当時の国際世論を色濃く反映した20世紀後半に相応しい新しい憲法であった。 第四節 日本の統治機構 日本の統治機構は、立法・行政・司法の各機関の分立した三権分立制をとっている。 立法機関たる国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関であり、衆議院及び参議院の両議院から成っている。両議員とも全国民を代表する選挙された議員で組織されている。 国会の権限として、内閣総理大臣の指名、内閣不信任の決議、法律案の議決、予算の議決、条約の承認、裁判官に対する弾劾裁判、憲法改正の発議などがある。 行政権は内閣に属し、内閣は内閣総理大臣とその他の国務大臣で組織し、行政権の行使について国会に対して連帯して責任を負う。内閣は一般行政事務のほか、法律を実行し外交関係を処理し、条約を締結し、予算を作成し、政令を制定する。これらの業務を分担するため、国務大臣を長とする12の省が置かれている。内閣の統一を保つために、内閣総理大臣の任免権を持つ。 司法機関として裁判所がある。最高裁判所と下級裁判所(高等裁判所・地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所)とからなる。すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法及び法律にのみ拘束される。最高裁判所の長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、そのほかの裁判官はすべて内閣が任命する。裁判所は一切の法律・命令が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。 第五節 選挙 国会は参議院と衆議院からなっている。選挙は、国政選挙と地方選挙に大きく分けることができる。国政選挙は衆議院選挙と参議院選挙、地方選挙は、都・道・府・県・市・町・村・区の地方首長選挙とその地方自治体の議会選挙である。国会議員、都道府県・市町村区の各首長、および各議会議員は、直接選挙で選ばれる。 選挙権は、20歳以上の男女全員にあるが、被選挙権は参議院議員と都道府県知事は30歳以上、それ以外(衆議院議員と地方議員)は25歳以上の者にある。女子は1945年に始めて選挙権と被選挙権を得た。 現在、国会議員と都道府県の知事及び同議会議員の大部分は、政党の党員であるかまたは政党の推薦を受けた者である。しかし、市町村の首長及び各議会議員では、特定の政党に属さないという意味の「無所属」を標榜する者が多い。 選挙運動は、ポスター・テレビ・立会演説会・街頭演説などにより行われる。選挙は無記名自由投票で行い、選びたい人の氏名を自分で書く。議員の任期は参議院が6年で、ほかは4年。地方議会はリコールなどによるほかは任期いっぱいで改選される。ただ衆議院議員は任期いっぱいの4年で自然解散するのはむしろ例外で、平均2年半で解散選挙が行われている。 日本の主な政党は、長い間二つの陣営に色分けされてきた。すなわち、一方は政府与党である自由民主党で、他方は日本社会党・公明党・民主社会党・日本共産党などの革新陣営であった。 しかし、1993年の衆議院議員選挙では、選挙民の政治不信などにより新勢力が躍進し、自由民主党は過半数を制することができなかった。こうして、38年間続いた自由民主党の一党政権が終り、選挙制度を中心とした「政治改革」の時代の舞台が整った。2000年現在では、自由民主党、公明党、社会民主党(旧日本社会党)、日本共産党などがある。 第六節 日本の外交と自衛隊 日本は、1956年国際連合に加盟して以来、一貫して次の外交3原則を守り、今日に至っている。 国際連合の目的と原則に従って、国際社会の平和と安全 に寄与するよう努める。 自由・民主主義・基本的人権・不平等の是正などの普遍 的価値を共有する自由主義諸国の一員として行動をとも にしながら、自らの安全と繁栄を求める。 アジア・太平洋地域の一国として、同地域の平和と安全 に貢献する。 日米関係は、近年アメリカの対日貿易赤字が膨大になるにつれ、自動車・鉄鋼・農産物を中心とした貿易摩擦、また防衛問題で、日本の防衛力整備がアメリカの希望どおりに進んでいないことなど、日米間に摩擦が起きている。しかし日本の外交の中で日米間の友好は最優先で、毎年明らかにされる政府の外交青書では、「日米安全保障条約に基礎を置く、アメリカとの友好協力関係は、日本外交の基軸であり、政治・経済・防衛をはじめ、広範な分野にわたり、アメリカは日本の重要なパートナーである」と強調している。日米関係とともに日本が韓国、中国、ロシアなどの国の関係も重視しているが、歴史で残ってきた慰安婦の問題、北方領土の返還問題などの解決に力を入れなければならない。 日本は、第二次世界大戦終了時、降伏の条件に基づいて全陸海軍が解体された。 1950年、日本の治安維持のために、警察予備隊が設置された。1952年保安隊に再編され、1954年現在の自衛隊になった。1947年施行の現行憲法では、国際紛争を解決する手段としては、国権の発動たる戦争を放棄する旨規定している。しかし、このことは国家の固有の権利である自衛権の放棄を意味するものではない。 自衛隊の最高指揮権は、内閣を代表して内閣総理大臣が有しているが、通常の業務は国務大臣である防衛庁長官が当たっている。自衛隊には、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊がある。自衛隊員はすべて志願制度によっている。 日本政府は、2005年度から2009年度までの防衛力整備にあたっては、様々な面で調整し、必要な措置を取っている。この間、自衛隊の規模は、16万6000人程度を編成し、世界で7位の軍事力といわれるまでに整備されてきている。そのほかに、米軍(2万人)は日本に駐留している。 現代の日本 1970年代に入ると、世界の政治・経済体制は、さらに複雑な様相を示しはじめた。1972年9月、日中共同声明を発表し、1931年以来の日中間の戦争状態を終わらせ、日中国交正常化をようやく実現させた。 1973年の第四次中東戦争勃発を契機にアラブ産油国が原油価格の大幅引上げを行うと、中東原油に深く依存する日本経済は、大きな打撃を受けた。「狂乱物価」と物不足が国民生活を混乱させ、翌1974年には経済成長率が第二次世界大戦後はじめてマイナスとなった。1974年12月、田中角栄内閣は政治資金をめぐる疑惑で退陣し、三木武夫内閣が成立したが、1976年になると航空機購入をめぐる汚職が発覚して、田中前首相らが逮捕され(ロッキード事件)、世論の厳しい批判を浴びた。同年12月の総選挙では三木内閣は退陣して福田赳夫内閣が成立した。 石油ショック以来、とくに70年代後半、日本経済は企業の減量経営や賃金抑制などで輸出競争力を強め、低成長のもとで安定を取り戻した。こうした状況下で、国民の間に安定指向と「中流」意識が広がっていった。国民生活も大きく変化した。「消費は美徳」とされ、自家用自動車が普及し、洗濯機・冷蔵庫など家庭の電化が進むとともに、急速に普及したテレビを中心とするマスコミの発達により、都市型生活様式が農村にも広まり、文化の画一化や大衆化が進行した。また、「レジャー」が一般化し、海外旅行も盛んになるなど、国民の消費生活は豊かさを増した。1970年代後半から1990年代にかけて急速に普及したコンピュータの日常生活への浸透は、国民生活に新たな変化をもたらしている。 この間、国民の所得水準の向上に伴って、高等学校・大学などへの進学率が上昇し、教育水準も高まったが、学歴のいっそうの偏重や受験競争の激化という弊害を生み出した。また、核家族化が進み、女性の社会進出に伴って共働き世帯が増加した。一方、非婚や出生率の低下などの現象も見られ、家族の形態が大きく変化した。人口の高齢化が著しい中で、老人問題も表面化し、社会保障制度の充実が求められている。 1980年、大平正芳首相が急死で鈴木善幸内閣は臨時行政調査会を発足させて行政改革の検討を進めた。1982年には中曽根康弘内閣が成立し、日米関係の強化や、行政・教育改革を推進した。1987年、中曽根首相は退陣し、竹下登が首相となった。しかし、リクルート社からの政治家・官僚に対する献金疑惑や、消費税導入によって国民の反発を招き、一年半で退陣した。続く宇野宗佑内閣は、1989年7月の衆議院議員選挙で自民党が過半数を割るという惨敗を喫したこともあり、2か月余りで海部俊樹内閣に交代した。この年1月はじめには昭和天皇が没し、皇太子明仁親王が即位して元号が平成と改められた。 翌年、海部内閣のもとで行われた総選挙では自民党が勝利をおさめて政権を維持し、1991年には宮沢喜一内閣が成立した。しかし翌年には汚職事件が再発覚し、既成政党への国民の不信案が可決され、自民党は分裂した。総選挙の結果、日本新党の細川護熙が非自民8党派からなる連立内閣を組織し、1955年以来の自民党政権が倒れた。 1994年、細川内閣は政治改革法案を成立させたが、首相自らの献金疑惑により総辞職した。続く新生党の羽田孜内閣は、連立政権の内部対立から社会党が離脱してわずか2か月で崩壊した。こののち自民党・社会党・さきがけの連立で社会党委員長の村山富市を首相とする内閣が成立、1996年1月からは同じ連立のもと自民党総裁橋本龍太郎を首相とする内閣が続いた。1998年7月、参議院議員選挙で自民党が惨敗すると、橋本内閣から小渕恵三内閣へと変わった。しかし、2000年4月、小渕首相の急病で、森喜朗内閣が成立した。やがて、外務省機密費問題で野党が厳しく追及し、 90年代に入ってバブル経済は崩壊し、長期の不況が続くこととなった。このように、日本の政治・経済は90年代以降、きわめて不安定で先行き不透明な状況となっている。さらに1995年に入ると、阪神大震災やオウム真理教による地下鉄での毒ガス無差別テロや複数の金融機関の経営破綻などの事件があいつぎ、国民の間に不安が広がっている。 中日関係 1972年9月に中日が国交を回復して25周年を迎えた1997年には、9月に橋本首相が中国を訪問し、11月に李鵬首相が訪日した。橋本訪中では、「今後少なくとも年一回いずれかの側の首脳レベルが相手国を訪問すること」で一致し、「防衛分野でのハイレベルの交流の強化」も合意された。橋本首相は李鵬首相との会談で、旧日本軍遺棄化学兵器処理問題について、内閣に連絡調整会議を発足させ、その下に化学兵器処理対策室を設置したことなどを具体的に紹介し、本気で取組む姿勢を強調した。李鵬訪日に際しての具体的成果としては、新漁業協定の調印、21世紀に向けた環境保護協力についての合意がある。 中日間の主な人事交流としては、1998年4月に胡錦涛副主席が来日した。また、1998年9月には中日平和友好条約締結20周年を記念して江沢民主席の訪日が予定されていたが、中国国内の洪水被害対策のため延期となった。 また、中日両国の国家間の戦争賠償問題は、1972年の中日共同声明で中国が「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したことで決着している。しかし、日本の侵略戦争において、日本軍が軍事国際法を無視して行った非人道的行為によって損害を被った一般中国人の対日賠償請求問題は残っている。1995年8月7日に「従軍慰安婦」「南京事件・七三一部隊」に関する補償を求める裁判が東京地裁に提訴されたのを含め、様々な事件に関する訴訟が日本国内で起こされた。本質的には、日本軍国主義が行ったアジア諸国の人々に対する残忍な非人道的行為や日本軍の捕虜として過酷な待遇・労働を強いられ、命を落とした人々に対する謝罪と補償措置を、日本政府が今日に至るまで認めようとすらしないことを徹底的にただすかどうかが問われている。 一方、1998年4月に胡錦涛副主席が訪日した際、小渕外相の招宴に日本共産党の不破委員会長が出席し、両者は言葉を交わした。胡副主席の東京滞在中に日中両党関係者の接触が行われ、日本記者クラブでの記者会見の席上、「中日両共産党の関係正常化は可能」と発言した。その後の交渉はスムーズに行われ、6月に北京で会談が行われ、関係正常化実現に合意した。日本政治において現実的影響力を強めつつある日本共産党と現実に政権党である中国共産党との関係発展は、今後の中日関係を健全化させる上で大きな可能性を秘めている。 練習問題 一、次ぎの質問に答えなさい。 現行憲法では、天皇は国政に関する権能を有しますか。 天皇は国事に関する行為には、どのようなことが限定されていますか。 天皇は政治上の権限を有しないが、外交儀礼上はどのように扱われますか。 現在の天皇は何代目ですか。 明治憲法の特色は何ですか。 現行の日本憲法はいつ公布され、いつ施行されましたか。 日本国憲法の三原理は何ですか。 自衛隊はいつできたのですか。 中日共同声明はいつ発表したのですか。 二、課題研究 明治憲法と日本国憲法の内容(主権、人権、軍事、政治 制度など)について、条文に基づいて比較してみよう。  2、中日関係の未来について、どう考えますか。 第一節 教育制度 日本は明治時代に入り、近代化に伴って、政府は西洋の学問を導入して産業・文化を発展させるために、小学校から大学まで一貫した教育制度を整えた。1872年、日本で初めて義務教育制度が制定された。1900年、就学率は90%であって、1907年には6年制の義務教育となり、就学率は99%になった。 戦後、日本の教育制度は大きく変わった。現在、実施された制度(学校教育法)は1947年に生まれたものである。すなわち、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年が基本になっている。これに伴い、義務教育も6年から9年に延長され、男女共学も一般化した。親は子供に義務教育を受けさせる義務がある同時に、市町村は義務教育のために学校を設置しなければならない。今日の就学率100%、文盲率0%という数字は日本が世界に誇るものである。高等教育(高校)は義務教育ではないが、進学率は96%を超える。 高校を卒業してから大学に入りたい学生は、入学試験に合格しなければならない。大学での教育科目は、広く知識を授ける一般教養科目と、特定分野の学芸を深く学習・研究させるための専門科目からなっている。大学教育の目的は、知識・人格面とともに応用能力を十分に開発することである。すなわち、大学は教育機関であると同時に学術研究機関としての役割も持っている。大学教育は一般に4年だが、医学・歯学部は6年である。大学院では、修士課程が2年、博士課程が3年である(医学・歯学には修士課程がなく、4年の博士課程だけである)。 大学には国立と公立と私立があり、そのうち、国立大学は98校、公立大学は52校、私立大学は415校、全部で565校(1995年)がある。このほかに、596校の短期大学がある。大学・短期大学・大学院生の総数は約298万人である。 国立大学の中では一番有名なのは、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学であり、また一橋大学、東京工業大学、東京外国語大学、大阪外国語大学、筑波大学、お茶の水女子大学、奈良女子大学、東京芸術大学なども有名である。私立大学の中では慶応大学と早稲田大学が一番有名で、そのほかに、同志社大学、立教大学、上智大学、明治大学なども有名である。 第二節 科学技術領域 日本の科学技術開発の現状と動向から見れば、先端分野、人類のための科学技術開発、社会・生活の充実のための科学技術が重視されている。先端分野には、(1)情報・電子系科学技術、(2)生命科学、(3)宇宙・航空技術、(4)海洋・地球科学及び物質・材料科学を含み、人類のための科学技術開発には、(1)自然環境の保全技術、(2)エネルギー、(3)資源開発・リサイクル及び食料などの持続的生産を含み、社会・生活の充実のための科学技術には、(1)健康の維持・増進及び生活環境の向上、(2)社会経済基盤の整備及び安全対策を含む。 従来日本の技術開発は、多くの場合、外国で開発されたものを導入し、それを基礎にして巧みに組み合わせ発展させているのが特徴である。しかし、今後の日本にとっては、いかにして基礎的な科学技術を自らの手で開発していくかが重要な課題である。 1994年における日本の研究費は、総額13.6兆円であった。これは、30.6兆円の米国に次いで世界第2位である。研究費の政府負担割合は21.5%で、その残りを産業界が負担している。研究費総額の13.6%を占める大学では、その53%が基礎研究に、38%が応用研究に、残り9%が開発研究に使われている。一方、民間企業での使用比率は、それぞれ7%、22%、71%である。このように、大学と企業の研究分野は合理的に分担されている。 日本における科学技術研究者は66万人である。米国の96.3万人(1993年)に次いでおり、ドイツ、フランスより多い。また、日本の特許出願件数は、1993年に38万件に達し、世界で最も多く、次いで多い米国(19万件)の約2倍であった。 第二次世界大戦後、電子工学、石油化学などの高分子化学、原子力利用などが急速に発達し、それらは技術革新と呼ばれるほど目覚しいものであった。プラスチックやビニールなどは、新しい材料として多方面に用いられているし、テレビに代表される電子工学技術は、生活にも生産工程にも、大きな変化を及ぼした。とくに、1960年代以降、目覚しい発達をとげたのはコンピュータである.集積回路(IC)の開発と小型化は、コンピュータの普及を加速し、現在では、情報処理や自動制御を必要とするあらゆる部面で大きな役割を果たしている。産業用ロボット、工場無人化、オフィス‐オ-トメ-シュンの動きが、大きなうねりになって進展中である。この状況は新しい産業革命とも言える。 また、新素材、生物工学、遺伝子工学、光ファイバー通信など、高度化学技術の展開が急ピッチである。 技術の発達は、それまでに存在しなかった新しい産業を生み出すとともに、従来からある産業の内容を変えていく。例えば製鉄は、はるか古代から存在していたが、近代的製鉄法を経て今日製鉄法へと、大きな変化を見せている。農業・漁業もまた、多くの点で変化した。 そうした産業の変化をとらえ、それが経済社会に及ぼす影響について考えるのには、産業構造に着目するのが一つのである。産業構造とは、どのような産業が、どんな関連で存在しているかという問題である。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 戦後、日本の教育制度はどう変わりましたか。 日本の義務教育では就学率はどうなりますか。 日本では、どのような科学技術が重視されていますか。 第一節 戦後の日本経済の概観 日本経済は第二次世界大戦後、いくつかの段階を経て今日に至っている。大戦により混乱に陥った日本経済は、1947年頃から急速に復興をとげ、1955年頃からは約20年にわたり高度成長と呼ばれる持続的な経済成長を記録した。1970年代の2度の石油危機を経て、日本経済は安定成長の時代に入ったが、1980年代後半の地価・株価の高騰(バブル)とそれに続くバブルの崩壊、急速な円高の進行などによって、1990年代初めには長期不況に陥り、現在は低成長に直面している。最近、内需主導型経済へ転換しながら、真に豊かな国民生活の実現を追求している。 敗戦直後の日本経済は悲惨な状態にあり、鉱工業生産は戦争勃発当時(1941年)の水準の7分の1に減少し、外国貿易もほとんど停止の状態にあって、国民は深刻な食糧危機とインフレーションに苦しめられていた。 日本を占領した連合軍は、日本経済の民主化のために、三つの基本政策を導入した。すなわち、①財閥解体、②農地制度の改革、③労働権の確立である。戦後の日本経済発展の大きな枠組となったのはまさにこれら3本の柱であった。日本政府は産業の基礎である石炭・鉄鋼のために、資材・資金・労働力を重点的に投入するいわゆる傾斜生産方式を実施した。こうして、日本経済は1948年頃から回復に向かった。その後、1950年に勃発した朝鮮戦争に伴う在日米軍向けの資材・サービスの供給であった。こうして、日本経済は復興の歩みを速め、1950年代半ばまでに、ほぼすべての経済指標が戦前の水準にまで回復した。 1956年以後1960年代末まで、日本経済は徐々に進んで、国民総生産は年平均10%の高い成長率で伸びていった。この間、日本の産業は重化学工業の飛躍的な発展によって、生産規模・生産性などを大幅に向上させる基盤を固めた。さらにこの時期には国際競争力の強化を図るための大型合併が目立った。また、日本は輸入・為替の自由化を進め、国際経済への一層の適応をはかった。また資本の自由化も進んでいるため、1960年代後半には輸出が拡大し、国際収支も黒字基調に転じた。日本は50年代にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫があって、60年代にはクーラー、自家乗用車があり、さらに教育水準の高まりによる質の改善があった。 1970年代に入ると、経済成長にもかげりが見え始めた。さらに国外からも重大な撹乱要素が相次いで生じてきた。1973年の第一次石油危機は世界同時不況をもたらしたが、その衝撃は日本のような資源輸入国には特に痛烈であって、1979年には第二次石油危機によって世界経済は再び大きな混乱に陥った。2度にわたる石油危機、外国との通商摩擦によって、日本経済は長い間に低迷を続けた。 こうした危機を切り抜けるために、日本の各産業は省エネルギー技術や自動化技術の開発・導入を推進した。また、日本経済全体として、産業構造の「重厚長大型」から「軽薄短小型」への転換が進んだ。米国の高金利によるドル高・円安を背景に、輸出も日本経済の牽引力の役割を果たした。こうして、1980年代前半、日本経済は4―5%の安定成長軌道に乗った。 しかし、1988年から地価と株価などの資産価格が急騰し、1990年代には逆に急低下して、バブルの発生と崩壊である。バブルの発生期に過剰に行われた実物、金融両面の投資はその後に不良資産として残り、日本経済はなおその影響から抜けきっていない。1997年度の経済成長率はマイナス0.7%と戦後最悪の状況に陥った。97年には特別減税の廃止し、消費税や社会保険料の引き上げが実施され、約9兆円に及ぶ負担増を国民に強いた。97年から98年春にかけ、大型の企業倒産が続き、東証一部上場企業でも11社が破綻した。この中には北海道拓殖銀行や山一證券などの大手金融機関も含まれる。また完全失業率は上昇を続け、98年4月には4.1%に達し、失業者も290万人と戦後最悪を記録した。今、日本政府は経済の不況から抜けきるために、様々な政策をつくって対応しているが、短期間に景気回復は極めて難しい。 第二節 日本経済の成功の要因 日本は、第二次世界大戦後、奇跡とも言われる高度成長を実現した。戦後の日本経済の高度成長の要因については多くの議論があるが、それをまとめると、次のようである。 ①教育水準が高く勤勉な人的資源があった。②古い設備が戦争で破壊されたため、世界最新の設備・技術で装備できた。③自由貿易体制の下で、原燃料を世界中から自由に輸入でき、また、各国、特に米国が日本の商品をかなり自由に受け入れてくれるなど、輸出市場にも恵まれた。④企業と労働組合がヨーロッパや米国に追いつくという共通の目的を持ち、まず経済的なパイを大きくするために協力した。⑤国民の貯蓄性向が高く、また銀行が積極的な融資を行ったため、投資のための資金が十分に供給された。⑥平和国家の道を選んだため、資金や人材を経済活動に集中できた。 このように、日本の高度成長には国民の一致した努力と外的 条件に加えて成功した。しかし、こうした急激な成長は、様々なゆがみをもたらした。重化学工業の発展は公害問題を発生させ、政府による積極的な産業育成政策は、住宅・公園など国民生活に必要な社会資本の整備をおくらせた。また、工業の発達が都市部に集中したため、都市の過密や農山村の過疎が深刻になった。 第三節 日本の貿易 どのような商品を、どのような国に、どれだけ輸出しているかという問題が輸出構造であり、同じ問題を輸入について考えるのが輸入構造であり、それらを合わせたものが貿易構造である。貿易構造は、国内の産業構造と深い関連を持っている。国内で生産できないものは輸入しなければならないし、生産できても輸入したほうが有利なものもある。また、外国から求められるものを輸出できるだけの産業があるかどうか、外国製品と品質や価格で競争できるだけの産業があるかどうかが、輸出力を決める。産業構造の変化と、輸出構造や輸入構造の変化とが密接に結びついている。 日本は輸出品の大部分が重化学工業製品であることがきわだっている。アメリカの場合、大豆、玉蜀黍、小麦などの食糧品や、綿花、木材といった一次産品の割合が先進工業国の中では群を抜いて高いことが注目される。 輸入のうち、現在とくに難しい問題点を抱えているのは石油と食糧である。石油輸入の代金は、日本の輸入代金全体の3分の1を上回るようになっている。石油の需給関係は、80年代に入って供給過剰型に変わってきたが、エネルギー源としての重要性は、短期間に基本的に変わりはない。また、日本の食糧自給率は低く、輸入に頼って食糧の割合が大きい。 日本が原材料を輸入し、工業製品を輸出しているように、各国の間では、輸入と輸出の関係がある。日本が輸出できるのは、輸入してくれる相手がいるからである。もし、日本がその輸出額に等しいだけ、その相手国から輸入をするなら、おたがいに貿易収支はバランスする。しかし、日本からその相手国へ輸出する額が、日本が輸入する額よりも大きくなりすぎると、その相手国を困らせることになる。日本の工業製品は、品質・価格の両面で国際競争力が強く、とくに自動車やテレビやビデオなどの輸出では、長く続いた世界的な不況のもとで世界貿易の伸びが小さかったこともあって、欧米との間で経済摩擦と呼ばれるような対立を招いている。 日本は貿易額では米国・ドイツに次いで第3位である。1994年には世界の輸出の9.6%、輸入の6.6%を占めた。日本の貿易が輸出超過基調に転換して20年以上たち、今や貿易黒字減らしが、国内的にも国際的にも重要課題となってきた。 日本は原料やエネルギー資源のほとんどを輸入しなければならず、その調達のためには輸出による収益が必要だからである。つまり、輸出・輸入が双方ともに不可欠なのである。 日本のドル表示の名目輸出額は、1952年以降ほぼ一貫して増加してきた。1995年は貿易黒字額は1.068億ドルで、全輸出額は4.429億ドルに達している。日本の貿易黒字は1997年以降、再び増加傾向にある。商品構成では、機械類が圧倒的に多く、輸出総額に占める比率は49.7%である。次いで多いのは自動車の12.0%で、そのほか精密機械の4.7%、鉄鋼の4.0%、船舶の2.5%などがある。1995年はアジアへの輸出の伸びが著しく、ヨーロッパは減少した。 輸入も増加を続けているが、輸出よりは変動の振幅が大きい。その主な理由は輸入が輸出に比べて景気の影響を直接受けるためである。輸入品の構成は1980年代に大きく変化した。1995年の主なものは機械類18.6%、原燃料12.2%、食料品9.1%、衣類5.6%、木材3.0%などであり、輸入先はアジア、ヨーロッパ、中南米などである。 しかし1997年後半からワインの輸入量が著増しており注目される。1998年上半期で前年同期比3倍増で、輸入先はフランス、イタリアが5割を占めている。 日本の経常収支は、1960年代半ば頃まで赤字基調であった。そのため、経済成長は原燃料などの輸入品の支払いに必要な外貨保有高に左右されていた。しかし60年代半ば以降は、石油危機の後など例外的な時期を除いて、貿易収支・経常収支のいずれにおいても黒字基調が続いている。もはや日本の問題は、黒字基調の国際収支をどう削減するかになっている。 国際収支の内訳を細かく見ると、貿易外収支と移転収支はほぼ恒常的に赤字であるが、貿易収支の大幅な黒字がこの赤字を上回っている。また、貿易外収支の中では、運輸・旅行・特許権使用料などが赤字であり、投資収益は黒字でその幅が急速に拡大しつつある。また近年、対外投資の活発化などのため、国際収支に占める資本収支の重要性が著しく増大している。 日本の貿易収支は、相手国によって著しく状況が異なっている。例えば、主として製品輸出の市場である米国・EU・東南アジアに対してはほぼ恒常的に黒字であるが、主として原燃料の購入先である中東の産油国やオーストラリアに対しては赤字が続いている。 第四節 日本の産業 日本は、1945年頃までは農業が産業の中心の国であった。しかし、戦後の高度成長期は、第二次産業が大きく成長したのが特色であった。やがて、経済の発展とともに第三次産業が急速に拡大し、1994年現在、一次・二次・三次産業の比率は、就業者数でそれぞれ5.8%、33.4%、60.3%、国内総生産では、2.0%、34.1%、63.9%であった。 農業や林業、水産業などを第一次産業と言い、鉱業、工業、建設業、製造業などを第二次産業と言い、商業、運輸通信業、サービス業(洗濯・理容・浴場・旅館・修理・宗教・娯楽・放送・広告・医療・教育・国家機関)などを第三次産業と言う。 経済成長に伴って、産業構造が変化するといわれる。日本の場合も、産業別の就業者を見ると、第一次産業就業者が減って、第二次・第三次産業就業者が増大しており、近年では第三次産業就業者の伸びが著しい。それを各産業の実態でみると、構造変化の原動力として、コンピュータの発達による情報処理、伝達技術の進歩が大きく影響していることがわかる。 製造業においては、コンピュータを利用した各種の機械や装置が増加し、これらが生産の自動化や省力化に貢献している。その際、モノの製造そのものよりも、その周辺の研究開発や設計、機械や生産システムの制御などの、いわゆる「ソフト」部門の比率が増大している。 第三次産業では、サービス業の増加が著しい。サービス業の中では、外食産業や宅急便、各種レンタル業など、新しい産業が生まれ、所得の上昇や余暇時間の増加などを背景にその比率が増加した(サービス経済化)。また、流通業でも、コンピュータの発達に伴って、通信販売や訪問販売などの無店舗販売やコンビニエンスストアなど新しい販売形態の成長が目覚しい。また、ソフトウェア関連の情報処理業も大きく伸びている。さらに、コンピュータが通信回線で結ばれたことによって、情報産業と通信産業とが結合して新たな産業分野が形成されてきている。例えば、90年代以降に急速に普及し始めたインターネットと呼ばれるコンピュータ・ネットワークは、大学や企業、行政機関だけでなく、様々な組織や個人も自由に、世界的な規模で情報を交換することができるようになった。また、こうしたネットワークを利用して音声、画像、情報を双方向でやりとりできるマルチメディアも、実用化の段階に入った。 現在、通信・映像ソフトなどの製造や、情報・通信分野へ様々な企業の進出や新規開業が目立っているが、21世紀には、距離と時間に影響されない新しい経済体系の出現が予想されている。   第五節 農業 日本は温帯に位置しているので、農作物を育てるのに適した気温帯にある。また、雨が多く、湿度も高いので、農作物を育てるのに十分な水にも恵まれている。さらに日本は南北に細長いので、南方の作物も北方の作物も育てることができ、農作物の種類が多い。これらは農業の発展にとって有利的条件である。日本の農用地面積は国土の14%で、農家一戸あたり1.2ヘクタール(ha)にすぎない。それで、農家は狭い耕地で生産を多くするために、米を作った後に野菜を作ったり、肥料を沢山使ったりして収穫を多くしている。耕地面積が少ないので、収入が少なく、農業だけでは生活するのが難しい。それで、農業以外の仕事をする農家が多くなってきた。例えば、漁業や林業や牧畜業をしたり、近所の工場や会社に勤めたりする。 農業だけをしている農家を専業農家と言い、農業をしているが、それ以外の仕事もする農家を兼業農家と言う。1950年頃までは、日本の働く人の約半数は農業に従事していたが、1988年には就業者のうち農業に従事する者の割合は7.0%に過ぎない。専業農家というのは、その家の収入の50%以上を農業から得ていて、65歳より若い人が農業をしている農家である。今、日本では専業農家が大変少なくなって、農業をしている人も高齢化している。 日本の農業は米作が中心で、耕地の約40%で米を作っている。米作は昔からしていたが、稲は暖かい地方の植物なので、北陸、関東、瀬戸内海沿岸、九州などで盛んに作り、北海道や東北地方というような寒い地方ではできなかった。それで、寒さに強い稲の種類に品種を改良する研究をして、今、寒い地方でも米が作れるようになった。米が一番とれる所は北海道であり、次が新潟県である。 米は日本人の主食である。日本には食糧管理法という法律があって(1961年、農業基本法)、その法律によって、自立経営農家や大規模農家の育成を進めてきたが、米は、政府が値段を決めて農家から高く買い、消費者に安く売っていた。こうして農家の所得保障が重視され、経営規模の小さな兼業農家を保護する結果になって、経営の効率化を妨げてきた。しかし、1994年に新食糧法を定めて、企業的経営の育成や米の流通制度へ市場原理を導入することなどによって、輸入の自由化にも対応できる農家の育成を目指している。新食糧法によって、米は1995年秋から自由に売買できるようになり、国内消費量の一定割合を輸入することになった。米は内外価格差が大きく、国内農業に与える影響が懸念されている。日本では1969年頃から人々の食生活が変化し、パンを沢山食べるようになった。しかし、日本でとれる麦はパンの原料には適しない。それで、麦はアメリカなどから輸入している。日本では1960年頃は、食糧の農産物は国内の消費量の90%を生産していたが、1993年には、58%しか生産できなくなった。 日本は世界でも有数の農産物輸入国であり、先進国の中でも食糧自給率はかなり低い。主食の米以外の農産物は輸入に頼る比率が高く、とくに穀物の自給率は約30%程度しかない。日本が先進国として、国際協調の観点から諸外国の農産物を積極的に輸入すべきであるという意見や、消費者の立場から安い農産物の輸入を歓迎する意見がある。その一方で、米などの主要穀物や肉類などについては、食糧安全保障論の立場から自給体制を確立する必要があるという指摘や、輸入農産物の農薬残留による安全性をあやぶむ声もある。また、日本の稲作農業に見られる潅漑設備や水田は、環境保護や国土保全の立場から再評価する必要があるという主張も見られる。 さらに、近年アジアの国々の工業化による経済発展は目覚しく、これらの地域では食糧の輸出が減って、逆に輸入が増えている。このことから21世紀には農産物の価格が上昇し、食糧不足が発生すると予測する意見もある。経済のボーダーレス化が進む中で、日本の食糧問題をどのように考え、それを農業問題とどう結びつけるかが、大きな国民的課題になっている。 日本では野菜の種類が多く、生産量も多い。野菜は昔からあった大根・白菜・茄子・胡瓜・人参などのほか、キャベツ・ピーマン・レタス・セロリなどの西洋野菜も作られる。今、これらの野菜がたいてい一年中食べられる。それはビニールハウスで野菜を作る促成栽培が行われるようになったからである。 日本には、暖かい地方の果物や、寒い地方の果物があって、種類も非常に豊富である。蜜柑は中部地方以南の太平洋に面した日当たりのよい山の斜面で、林檎は青森県や長野県の寒い地方で作られている。葡萄は雨の少ない中部地方の甲府盆地で沢山とれる。このほかにも、柿、梨、桃などが各地で栽培されている。 日本で畜産が一番盛んなのは北海道で、牧場が多く、特に乳牛、馬、綿羊の飼育が盛んである。肉用の牛は九州の鹿児島、宮崎、熊本などの諸県で多く飼われている。 農業の機械化は1960年代に入って急速に進み、今、ほとんどの農家は機械で農業をしている。日本の農業技術の発展と農業の機械化は日本の農業の一つの特徴である。 しかし、経済成長と生活様式の急速な変化に対応できない日本各地の村落では、都市へ移住する人々が多く、いわゆる過疎現象を起こしている。医療や教育、消防や祭りなど基礎的な人口の減少によって、社会生活の維持に様々な問題を生じることである。農山村の場合には、大雪や大雨の被害をきっかけにして挙家離村が増加して、ついに廃村になった例もある。 第六節 水産業 日本の周りには、暖流と寒流が流れている。暖流は太平洋を南から北へ流れる暖かい海水の流れで海の色が青黒く見えるので、黒潮と呼ばれている。カツオやマグロはこの黒潮に乗って日本の近海へ来る。寒流は、北の方から流れてくる冷たい海水の流れである。この海水は栄養に富んでいて魚類や海藻類をよく育てるので、親潮と呼ばれている。親潮に乗ってニシンやサケが日本の近海へ来る。黒潮と親潮が交わる三陸沖は、暖流と寒流の魚が沢山とれるよい漁場である。そのほか、日本の西南の大陸との間にある海は、深さが200メートル以下の所が多い浅い海であり、ここも魚が沢山とれるよい漁場である。 日本人は魚が好きで、沢山食べる。それで漁獲量は大変多い。その上、外国からも沢山の水産物を輸入している。漁業には色々な規模のものがある。海岸の近くで魚を捕る日帰りの小規模な漁業、これを沿岸漁業と言い、5-30トンの船で40キロぐらいまでの沖で漁をする漁業を沖合漁業、大型船の母船と数隻の小舟とが船団を作って、遠くの海へ行き、数ヶ月も続けて漁をするものを遠洋漁業と言う。遠洋漁業の母船には、捕った魚を保存するための冷凍設備や、魚を缶詰などに加工する設備もある。 近年、水産資源を保護する考えが国際的に広まって、200海里水域内で外国の船が漁をしたければ、その国と漁業協定を結んで、多額の金を払わなければならない。日本では、以前から北洋でサケ、マスを沢山捕っていたが、この規制で、北洋で自由に漁のできる所は、米・ソの200海里の挟まれた狭い海域になってしまい、日本の北洋漁業は厳しい状態になった。従って、日本の漁業は、捕る漁業から育てる漁業に変わっている。魚の養殖は以前から行われていたが、最近注目されているのが栽培漁業である。栽培漁業というのは、稚魚を海に放して、海の中で大きくして捕るものである。現在、栽培漁業で栽培している魚や貝の種類も多くなった。また、海上に音を出すものを置いて魚を集め、餌をやる海洋牧場なども盛んになってきた。 第七節 日本の工業 日本の工業は、20世紀になってから始まった繊維工業から発達した。戦後は、1950年頃から急に伸びて、1960年にはアメリカに次ぐ生産をあげるようになった。特に、石油・石炭・塩などを原料にして化学肥料・プラスチック・薬品などを作る化学工業、多種類の機械を作る機械工業、鉱物から鉄・銅・アルミニウムなどの機械の材料を作る金属鉱業などが発達した。 しかし、原料を輸入し、それを加工して輸出する日本の工業は、1970年代の二度の石油ショックで大きな影響を受けた。原油の値上がりで最も影響を受けたのは、製品を作るのに大量の原油や電力を使う金属鉱業、セメント産業、原油を原料とする石油化学工業であった。 一方、自動車、電気製品、工業機械などの産業はよい品物を作って海外に輸出することで石油ショックの影響をできるだけ少なくし、その後も発展した。また、鉄鋼業は、エネルギーを節約して鉄を作る高度の技術があったので、石油ショック後も生産量が高かったのであるが、最近、鉄の輸出や国内の需要が減少し、今後も多くなることが期待できないので、エレクトロニクスなどの産業へ進出し始めている。 日本には、京浜・阪神・中京・北九州の一帯に工場が集まっていて、そこを四大工業地帯と言って、すでに第二次世界大戦前にできあがった。そこは原料を輸入し、製品を輸出する関係から、海のそばにある臨海工業地帯であった。その後、それらの地帯が過密になり、太平洋に面した地帯に沢山の工場ができた。しかし、製品が重化学工業からエレクトロニクスなどの先端技術産業に移ってきたので、海に面した所に工場を造る必要がなくなり、神奈川・埼玉・群馬・栃木などの関東内陸の地域に自動車・電気・電気製品などの機械工業の盛んな地域ができた。 日本の自動車は、ガソリンの消費量が少ないうえに、故障も少ないので、大変人気がある。また、日本の二輪車(オートバイ)の生産技術は世界一だと言われている。それで、日本は世界一の自動車・オートバイの輸出国になった。しかし、最近は、円高の影響で、大量の輸出が困難になってきた。1995年の自動車の生産台数は1,020万台で、そのうち輸出は379万台であった。1995年には、二輪車生産は275万台、輸出が133万台に達した。近年来、海外に工場を造って、その国で日本製の自動車・二輪車を作る現地生産を進めている。しかし、これによって、色々な産業が海外に移り、国内の生産は空洞化が問題になっている。 日本の家電産業は、国民の生活水準の向上や輸出によって発展し、大型カラーテレビ・VTR(家庭用ビデオテープレコーダー)・電子レンジなど新しい製品を次々に生み出して成長してきた。1994年には洗濯機・冷蔵庫・掃除機をそれぞれ500-600万台、エアコン、ビデオカメラ、テレビをそれぞれ800-900万台、VTR1,900万台、テープレコーダー3,200万台を生産した。現在、日本の電器メーカーはパソコン・ワープロなどのOA(オフィスオートメーション)関連機器、コンピューター周辺機器(ハードウエア)、集積回路(IC)などの半導体産業に進展し始めている。 近年、コンピューターは科学技術の計算や工場の生産管理などの広範囲で使われている。現代のような情報化社会では、将来もますますコンピューターの需要は増すだろう。日本は1995年には、総数634万台のコンピューターが生産された。パーソナルコンピューター(パソコン)は600万台以上で、数の上では圧倒的な比率を占めた。コンピューター産業の生産額は1994年で総額2.4兆円で、ほかに端末などの関連機器の生産額は2.7兆円であった。 パソコンが普及し始めたのは80年代半ばからであり、米国に比べて遅れている。日本では今までハードウエアの開発に重点が置かれていたが、今後は遅れているソフトウエア分野の開発が注目されている。 日本は、機械工業の基礎を成し「機械の機械」と言われる工作機械については、1994年に8万8,000台を生産した。そのうち、2万9,000台がコンピューター制御のNC機であった。日本の工作機械工業は質・量ともに世界の最高水準にあり、生産量は1990年には約8万台が生産された。その後景気後退で減少を続け、1994年は6万台弱にとどまっている。日本では産業用ロボットの利用度が世界第一位であり、この高い利用度が日本の工業製品の国際競争力を強くしている。 また、日本はヨーロッパやアメリカから技術を導入し、外国の安いエネルギー資源を利用し、外国の原料資源を輸入・加工して、工業製品を輸出するという加工貿易を発展させ、世界中に日本製品を売り込んだ。1980年代に入ると、円高や日本の労働費の高騰、貿易摩擦などから、外国に進出する企業が急増した。日本企業の外国への進出のうち約40%が香港・台湾・シンガポールを中心とする東南アジアである。その主な進出要因は日本よりもはるかに安い労働力である。 一方、日本は製造業の衰退である「産業の空洞化」が見られる中で、知識集約型産業や研究開発型産業への移行が始まっている。また、日本人の所得水準の向上に伴い、余暇や消費生活の重要性が増加し、第三次産業の比重が高まっている。一人当たりの国民所得はアメリカやヨーロッパ諸国と同一水準となり、外国の企業にとって日本は魅力的な市場となっている。また、民族・宗教・教育水準などがかなり均質で、優れた人材が得られ、高水準の技術が利用できるため多くの企業が進出し、日本での製品製造をしている。その結果、生活の中に外国企業が日本で生産した製品が数多く出回っている。 中小企業 現在日本の産業社会では、様々な企業集団が形成されている。大企業のほか、中小企業がたくさんあり、大企業と中小企業との関係は完成品製造の大企業と部品加工・製造の中小企業という垂直的分業の関係にあると言えよう。中小企業は、企業数では全企業の約99%、就業者では全就業者の約80%、総売り上げ額では約60%を占めて、日本経済において重要な役割を担っている。 中小企業の中には、大企業の「下請け」として大企業のもとで事業活動を行う企業が多い。近年低下しているとはいえ、中小企業の半数以上が下請け企業になっている。下請け企業は、発注元の「親企業」から受注の確保、技術・資金面での援助などにおいて便宜を受けることができる一方、「親企業」の業績の変化に影響を受けやすく、コストダウンや製品の納期の面などで「親企業」からの要求が厳しい、自社製品の開発がしにくい、などの問題点もある。しかし、日本ではとくに高度成長期以降、大企業が中小下請け企業と密接な関係を持って生産活動を行い、効率的な生産システムを確立してきた。 中小企業は大企業に比べて、資金・販売力・技術などの面で弱いとされている。また、労働者の待遇についても、賃金や労働時間、福利厚生面を中心に大企業との格差があるという指摘もある。これらの問題に対して、政府は中小企業基本法や中小企業近代化促進法などを定め、中小企業の経営基盤の強化や近代化の促進などの政策を進めてきた。また、近年中小企業の廃業が開業を上回り、企業数が減少していることから、政府はこれまでとってきた大企業の中小企業分野への進出を規制するなどの保護政策を一部修正して、新規開業や新分野への進出の支援政策をとり始めた。 中小企業の中には、円高やアジア諸国との競争という厳しい環境の中で新たな活路を見出し、発展している企業が数多くある。例えば、産業用ロボットやNC機械を積極的に導入して技術・技能を高度化させ、「多品種少量生産」を行うなど専門企業として自立している企業や、大企業が参入しにくいすき間分野で独自の製品や技術を持ち、着実な経営を行っている企業がある。また、情報通信や医療福祉、環境関連など、今後発展の期待できる分野に進出して、大きく成長しているベンチャー企業もある。さらに、地域の歴史、文化、気候風土などの特性を活かした事業活動を行う地場産業と呼ばれる企業群もある。経済の国際化に伴って、積極的に海外に進出する中小企業も多い。中小企業には大企業とは異なった活躍の場があることも確かであり、その健全な発達は日本経済にとって重要な意義を持つと言えよう。 第九節 工業の特徴 日本の近代的工業は1868年の明治維新以後発展し始め、第二次世界大戦後、特に飛躍的な発展をとげた。今日の日本の工業は次のような特徴を持っているだろう。 第一、日本の工業は重化学工業を中心にしている。重化学工業とは冶金工業、機械工業などの重工業と化学工業を指す。戦後、日本の工業は鉄鋼、船舶、自動車、石油化学などの重化学工業を中心にして発展したので、1970年代になると、重化学工業の生産額は全工業生産額の62%以上にも達し、重化学工業国となった。 第二、戦後、日本の工業の発展速度は非常に速い。日本の工業生産は1951年までに、戦前の水準に回復し、1955年から1973年まで、「高度成長」と言われる高速度の発展をとげた。1960年代末にはアメリカ、ソ連に次ぐ経済大国となった。 第三、日本は工業の原料となる地下資源が乏しいため、原料の多くを外国から輸入し、工業製品の多くを外国に輸出している。だから、日本の工業は一種の原料加工工場の役割を果たしており、加工工場型の工業である。 第四、日本の工業は欧米諸国に比べて、中小工場の比重が高い。日本では300人以上いる工場を大工場とし、ごくわずかである。従業員9人以下という非常に小さな工場が沢山あり、日本の工業はこうした多くの中小工場によって支えられている。 第十節 工業地帯 日本の工業地帯は一般に海に近く、交通が便利で、工業用水と労働力の得やすい所にある。日本には戦前から京浜、阪神、中京、北九州の四つの大きな工業地帯があって、この四大工業地帯が今でも重要な役割を果たしている。しかし、今日では、四大工業地帯を除いて東海工業地域と瀬戸内工業地域が生まれた。この六大工業地帯は次のような特色がある。 京浜工業地帯: 工業生産高は日本一多い工業地帯で総合工業地帯である。以前は東京から横浜に至る臨海地域が工業地帯であったが、今日では、東京から千葉県・埼玉県に至る地域にも工場が広がっている。この地帯は機械工業が発達しており、その他に出版、印刷工業、日用品の製造などが盛んである。また東京から千葉にかけての地域には火力発電所、製鉄所、石油化学コンビナートなど重化学工業が発達している。日本全国生産額の半分以上を占めている。 阪神工業地帯: 日本第二の工業地帯で、大阪を中心として、西は尼崎・西宮・神戸まで、南は堺あたりまでの地域を指していたが、工業の発展につれてその地域が広がり、今では、南は和歌山県の海南・下津、北東は大阪から京都を経て、琵琶湖の南岸に至る広い範囲にわたっている。この工業地帯は京浜工業地帯に比べて、軽工業が盛んで、繊維工業が発達している。日本第二の工業生産額を占めている 中京工業地帯: 日本第三の工業地帯で、名古屋を中心として愛知・岐阜・三重の3県にまたがる、半径約40キロの範囲を指している。この工業地帯は繊維工業、陶磁器工業、自動車工業などが盛んで総合工業地帯となり、日本第三位の工業生産額を上げている。 瀬戸内工業地域: 日本第四の工業地帯で、本州と四国の瀬戸内海沿岸に広がっている。この工業地帯は第二次世界大戦後新しく発展したもので、製鉄所や石油化学コンビナート重化学工業を中心としている。 東海工業地域: 日本第五の工業地帯で、中京と京浜の工業地帯の中間に位置し、愛知県の豊橋市あたりから富士山の麓の三島あたりかけての東海道本線の沿線地域を含む。この工業地帯も第二次世界大戦後発展したもので、重化学工業と製紙、繊維、楽器、オートバイなどの工業が盛んで、工業生産額では北九州工業地帯を凌いでいる。 北九州工業地帯: かつては京浜・阪神・中京工業地帯とともに日本第四の工業地帯であったが、今では第六の工業地帯になっている。北九州市を中心にその周辺地域に及んでいる。鉄鋼業が最も盛んで、そのほか、ゴム工業、化学工業、造船業なども発達して中間製品を多く生産している。1970年代後半から安い労働力を指向したIC(集積回路)工場の立地が相次ぎ、今では日本最大の生産地である。また、80年代以降自動車工場の立地や生産増加が見られ、首都圏、中京圏に続く第三の自動車生産地域となった。九州の産業構造は、資源や資源加工型から自動車や電気などの機械工業、およびサービス産業中心に変化している。しかし、工業用水や用地の不足、公害の増加などの問題が現れてきたので、ほかの工業地域に比べて工業生産が伸び悩み、日本全国に占める地位も年々低下している。 以上の六大工業地帯は関東地方から北九州まで、太平洋岸に帯状に連なって太平洋ベルト地帯を形成している。 近年来、経済の発展に伴って、ほかの新しい工業地域も現れた。 北海道工業地域: 札幌を中心に、室蘭、苫小牧を含む地域で、製鉄、製紙、食料品工業などがある。 北陸工業地域: 北陸地方の諸都市に広がる工業地域で、化学工業、絹織物などを主としている。 その他の工業地域: 東北地方には青森県の八戸市を中心に八戸工業地域、宮城県の仙台から塩釜にかけての仙塩工業地域、福島県から茨城県にかけての常磐工業地域などが形成された。 第十一節 商業 畑で作られた農産物や工場で作られた工業製品などは、それを生産した側から消費する側に売られる。これを商品の流通と言う。生鮮食料品の小売業者は、店で売る品物を市場へ行って仕入れ、衣料や電気製品の小売業者は卸屋(問屋)で品物を仕入れる。つまり、衣料や電気製品のような物は、生産者から卸屋へ、卸屋から小売店へ、野菜や魚は生産者から市場へ、市場から小売店へ、そして消費者へと動いてくる。小売店には、デパートやスーパーマーケット、コンビニエンスストアなどがある。 日本では、商品の値段は、商品がどのぐらい市場に出ているか、つまり供給されているか、そしてその商品を消費者がどのぐらい買いたがっているかという需要と供給の関係でたいてい自由に決める。しかし、人々の生活に関係が深いものには、自由に決めることができないものもある。例えば、郵便料金は国会が、政府が売買する米の値段、国立学校の授業料は政府が、水道料金や公立学校の授業料は地方公共団体が決める。また、電気、電車、バスなどの料金、電話、煙草の値段などは業者が申請し、政府が認可して決める。このように国会や政府によって値段が決められるものを公共料金と言う。 日本の商店はだいたい東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫などの所に集中しており、全国は東京商圏と大阪商圏の二大商業圏に分かれている。大都市のほかに、地方の中小都市や農村の中心にも、商業、サービス業、金融業などの店が集まり、それぞれの地域の中心となっている。日本の商業は、1994年には就業者総数の22.4%にあたる1,445万人を雇用し、国内総生産の12.7%を産出した。この業界には、従業員を千人以上抱える総合商社や百貨店もあるが、事業所のほとんどは小さい。今、伝統的な個人商店は減少しつつあり、チェーン店や大型店が増加している。また、自動販売機も普及しており、1995年12月現在、飲料用自動販売機だけで254万台が設置されている。 日本の「総合商社」は、その広範な活動で世界に知られている。その取扱い高は大きく、1995年で、上位9社の合計売上高は99兆円に達している。内訳は国内取引が53%、貿易取引が47%であり、貿易取引のうち三国間貿易、すなわち日本の輸出入以外の国際取引が26%を占めている。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 連合軍は日本経済の民主化のためにどのような政策を導                               入しましたか。 戦後の日本経済の成功の要因について、述べなさい。 日本の輸出品の大部分はどんな製品ですか。  4、日本の輸入品の多くはどんなものですか。 宗教・放送・医療・教育・国家機関はどんな産業に入っていますか。 日本の農用地面積は国土の何パーセントを占めますか。 兼業農家というのは何ですか。 米が一番とれる所はどこですか。 8、日本で畜産が一番盛んなところはどこですか。  9、農業だけをしている農家を何と言いますか。  10、三陸沖でとれる魚は、暖流の魚ですか、寒流の魚ですか。  11、日本では産業用ロボットの利用度は世界第何位ですか。  12、日本の中小工場では、どんな仕事をしていますか。  13、大企業と中小企業の関係について述べなさい。 14、中小企業は企業数では全企業の何パーセントを占めます   か。  15、日本の工業の特徴について述べなさい。 16、京浜工業地帯のこと、阪神工業地帯のこと、中京工業地                              帯のことについて、詳しく説明しなさい。 17、公共料金というのは何ですか。 二、課題研究  1、近年急速に成長している産業をいくつかあげて、それら    の産業がどのような要因で発展しているのか、調べてみ    よう。 現代の企業             品物は生産者が作って、卸売商、小売商など流通業者の活動で店頭にならび、家計が選択して買ったものである。そうした生産者や流通業者が企業である。企業は二つに大別される。個人企業と法人企業である。個人企業はその事業に資本を出している人(出資者)がひとりであり、その人が経営を取り仕切っている。人を雇わずに一人でやっている企業という意味ではなく、出資者と経営者とが同一人物で、ひとりである企業である。これに対し、複数の出資者が一つの企業を構成しているのが、法人企業である。会社とは、法人企業のことである。 今日では、いくつもの巨大企業が存在するが、それらはほとんどすべて株式会社の形をとっている。株式会社は企業を形成する資本を株という小口の出資単位に分割し、出資者の責任は有限で、株の売買によって出資者たる資格を入手したり放棄したりすることが自由になっている。そして、出資者は企業の上げた利潤から配当という形で出資に対する報酬を受け取る。こうした特徴のために、株式会社は広く出資者を募り、大きな資本を調達できる。現代日本の大企業では株主の数が40万人に及ぶ会社もある。 株式会社の出資者が多くなると、出資はしているが経営には参加しない株主が出てくる。経営は専門家としての経営者に任されるようになる。この現象を所有と経営の分離という。株式会社の最高の意思決定機関は株主総会だが、実質的な決定は経営者が行うようになる。 企業は出資によって作られるが、実際に生産や販売などの活動を行うためには、それらの労働をする労働者(従業員)を雇う。労働者はその労働力を企業に提供し、賃金という形で所得を手に入れる。企業は賃金を支払って、労働力を手に入れる。この関係を雇用という。雇用という関係を結ぶことによって労働するのは資本主義経済の特質の一つである。資本主義経済では、労働者はどの企業で働くかを選択することができる。他方、企業の側も誰を雇うかを選択できる。すなわち、雇用は労働力を売る人と買う人との双方が合意することによって成立する契約関係なのである。双方が、相手を選ぶ自由を持っているということが、それ以前の経済に比べて資本主義のもとで経済活動が大きく発展してきた一つの原因である。 第二節 企業経営の特徴 日本の私企業経営に見られる特徴として、通常指摘される主要なものは、次のとおりである。 意思決定方法……稟議制度や会議方式により集団的に意志決定が行われる。 雇用関係……原則として、所定の年齢(55歳―60歳位が多い)までは、雇用関係が継続される慣行がある。この間、能力の向上と年功のより賃金と地位が上昇する。 労使関係……労働組合は船員などを除いて、ほとんどが職種別でなく企業別であり、また労使関係も比較的よい。 資金関係……自己資金よりも他人資本、例えば銀行からの借金によって、設備資金の調達をはかる割合の方が多い。 生産関係……自動車産業のような組立て工業では、部品の多くを社外の工場に発注して買い入れる形が多い。鉄鋼業のような装置産業では、作業の一部を専門会社に委託している。また、原料輸入や製品輸出などにより海外への依存度が高い。 第三節 意志決定の仕組み 日本の大企業の意志決定方法の特徴はその集団的性格である。担当者は、原案を文書の形にまとめ順々に上司である係長・課長・部長の承認を得る。その案に関係ある部門の各級責任者にも同意を求めたうえ、最後に決裁者の決裁を得る。この一連の手続きを稟議制度と言う。決裁者はその案件の重要制に従い、最重要事項は社長、比較的重要な事項は担当取締役によって決める。 原案を承認しない人がいると、原案は修正される。修正案も承認されない場合は決裁者に提示されることなく廃案になる。このような稟議制度は、多くの人の意見を聞き、多くの人が目を通すので、様々な視点からの配慮が行き届いた意見決定ができる。しかし、責任の所在が不明確であり、決定までに時間がかかるなどの欠点もある。 会議方式は、株主総会や取締役会のような法律上のもの以外に企業内における意志決定、情報の伝達・交換などのため採用されている。多くの会社で会社経営の最高の決定機関は常務会である。常務会は定期的に開かれ、多くの人が発言し意見を述べ、広く意見を聞いてから事項を決定する。 第四節 年功序列と労使関係 年功序列制度は終身雇用制度とともに日本的経営の大きな特質と考えられている。年功序列とは、勤続年数が長くなるにつれて、給与が上がり、地位が上昇していくという慣行である。 日本の社会では、昔から年齢の上の者を尊重する習慣がある。企業においても、勤続年数が長くなるにしたがって能力も高くなり、企業に対する貢献も増加するという考え方が背景にあるといえよう。しかし、能力がないのに誰でも同じように地位が上がるというわけではない。地位が高くなればなるほど、同じ勤続の者のうち能力や業績のより高い者を選んで昇進させる度合いが強くなるのはいうまでもない。 日本の企業では一般に長期的な雇用関係を基本としており、在職期間全般の業績に対してそれぞれの業績をそのつど報いるというよりも、在職期間すべてを通して徐々に報いるという考え方をとっている。また個人の能力や技能とともにグループ全体のメンバーシップが重要視される。このような考え方にたって行われる昇進や昇給など人事関係諸般の仕組みが、年功序列的運営といわれるものである。特別の「年功序列制度」という制度があるわけではない。 この運営のもとでは、他人より特に優れた能力があっても、所定の最低勤続年数がないと昇進できない。一部の優秀な人には役不足という感じを持たせることもあるが、能力の発揮が阻害されるということはない。 経営層への昇進も、長い下積み生活から経験を積み、次第に選ばれて昇進していくので、大企業の経営層は、若くて40歳台後半、通常は50歳台後半から60歳台が多い。ただし、同族会社では経営者の息子を若い時から経営者の候補として育成するので、時には優れた後継者になることもある。 昇給は、役職レベル、学歴、勤続年数、年齢などをベースとし設定されている昇給基準額に、本人の能力や業績が加味されて決められる昇給額が初任給に加算される形で、従業員全員を対象に毎年定期的に行われる。 日本の労働組合の大多数はその組織単位が企業または事業所別に編成され、組合員の資格も原則としてその企業の正式な従業員に限定されている。従って、組合員の賃上げなどによる生活権の要求も、終身雇用制度、年功序列制度によって一応の水準は確保されている。また組合員と言っても企業別組合では、企業の存続が前提であるため、経営者側とある程度の協調を図っていかざるを得ない仕組みになっている。そのため、経営状態が悪い場合などには組合は強い要求を出さず、逆に経営者側に積極的に協力することすらある。また、日本の企業内組合では一般に下級管理職以下が組合員の資格を有し、それ以上の管理職は非組合員であり経営者側となる。 使用者と労働者個人との交渉に代わり、組合組織が組合員の利益を代表して使用者側と労働条件などに関して交渉を行い、協定を結ぶという方式は戦後の日本では一般化している。ただ日本の場合、労使は運命共同体的関係にあり、組合側も経営状態を把握していることもあって、企業そのものの存立を危うくするような対立は避ける。 組合の経営参加は戦後の経営民主化に伴って進んできたが、形式としては労働協約で定める経営協議会方式が一般的である。これは経営者側が経営に関する諸事項について労働組合に参加させる機関であって、討議事項としては、生産、福利厚生、人事に関する協議などが主要である。 雇用問題 戦後、1955年以降の高度経済成長期には大企業や官公庁を中心に大量の新規学卒者を採用し、企業内で訓練を施し、技術を向上させながら定年まで雇用するという終身雇用性と、勤務年数に基づく賃金上昇を慣行とする年功序列型賃金が広く定着してきた。この時期には完全雇用に近い状況の中で、実質賃金が上昇し、労働時間が短縮されるなど、労働条件は一定の改善が見られた。この日本独特の雇用形態は、労働力の活発な移動を前提とした欧米型の産業別労働組合とは違って、個々の企業に労働者を定着させ、企業別労働組合が定着した。ここに日本の労働者が自分の企業の成長と労働者の待遇の改善を結びつけ、企業への帰属意識が育つ根拠があった。 二度にわたる石油危機以後、完全雇用の状況に変化が生じた。各企業は厳しい国際競争を乗り切るために、工場・事務部門のオートメーション化によって労働生産性を引き上げ、徹底してコストを削減し、合理化を進めた。また、安い労働力の獲得や貿易摩擦を緩和することを目的に工場の海外進出が盛んに行われるようになって、労働者の雇用不安が高まった。 1987年から91年までの「バブル経済」と呼ばれる長い好況期にはいると、一転して深刻な労働力が不足する状況となった。この時期には転職が盛んになるなど労働力の流動化が進み、日本の高い賃金を求めて外国人労働者が急増し、労働力の不足を補う現象も見られた。このころから終身雇用性と年功序列型賃金という従来の雇用慣行は揺らぎ始め、能力と実績に基づく賃金体系を導入する企業も増えるようになってきた。労働者派遣事業法の制定以降は、雇用と使用関係を分離した派遣労働者も増え、雇用形態の多様化が進んだ。 また、労働力が不足する状況を背景に女性労働者がいっそう増大し、女性が働きやすい条件を整備するために、1985年に男女雇用機会均等法、91年に育児休業法が成立し、さらに93年にはパート労働法が成立した。ところが、「バブル経済」の崩壊以後、長期の深刻な不況期に入ると、企業では労働力が過剰となる状況になった。1990年代の後半には、完全失業率は4%を超え、求人数を求職者で除した有効求人倍率は0.4台にまで落ち込んだ。各企業では「企業内失業者」と呼ばれる余剰人員を整理し、新規学卒者の採用を控えるなど、深刻な就職難が続いている。また、生産拠点の海外移転は引き続き進んでおり、国内産業の空洞化とともに、「大失業時代」が到来するのではないかと懸念されている。 この時期には、常用労働者を縮小する一方で、パート労働者や派遣労働者など外部労働力の採用をいっそう拡大し、職務の重要度や遂行能力を一定の基準に基づいて評価し、それに基づいて支払われる職務・職能給の導入の拡大、有期契約で業績の査定に基づく「年俸制」の導入など、雇用形態の多様化はさらに進展した。 日本の労働者の労働時間が先進諸国に比べて突き出して多いことが指摘されている。1987年に労働基準法を改正し、一週48時間制から40時間制に改め、有給休暇の最低日数を6日から10日に拡大した。しかし、一週40時間制のすべての企業への適用は97年まで待たねばならなかった。日本の労働時間が多い原因として、取得率が5割程度といわれる有給休暇の未消化や、時間外労働の多いことがあげられる。時間外労働については、賃金の割り増し率が低く、時間の制限がないことや、「サービス残業」と呼ばれる無償の時間外労働が存在することなど問題も多い。ゆとりのある人間らしい生活をするためにも、週休二日制の完全実施をはじめ、実質的な労働時間の短縮を早急に実現することが望まれている。 第六節 社会保障制度 日本の社会保障は、イギリス・北欧型とヨーロッパ大陸型の中間的な制度となっている。日本の社会保障は、すでに高齢社会を迎え、制度的にも成熟している西欧諸国より一人あたり社会保障費は少なく、また、国民の租税・社会保障負担の国民所得比も低い水準にあるのが特徴である。 第二次世界大戦前の日本では、貧困は個人の責任であるとする考えも強く、恤救規則や救護法などの制度はあっても、慈恵的で不充分な内容であった。戦後、日本国憲法第25条で生存権の保障が国の責務であることが明示された。これを基本理念として整備されたのが今日の社会保障制度であり、社会保険・公的扶助・社会福祉・公衆衛生の四つの体系からなっている。 疾病・失業・事故・老齢などで収入を失った国民に、所得の保障をするのが社会保険である。そのなかには、医療保険・雇用(失業)保険・労働災害保険・年金保険の4部門があり、日本の社会保障制度の中心になっている。これらにあらかじめ加入し、保険料を納入していれば、疾病・失業・事故・老齢などに際して、現金や医療サービスなどの給付を受けることができる。 1961年から日本で国民皆保険・国民皆年金が実施された。しかし、医療保険については、民間の労働者と家族を対象とする健康保険、公務員と家族を対象とする共済組合保険、一般国民を対象とする国民健康保険などが分立し、保険料の負担率や給付の水準に大きな格差がある。一方、年金保険では、1985年に、高齢社会の到来に備えて年金制度が改正され、すべての国民に基礎年金を支給し、それに厚生年金や共済年金などを上積みするという一本化した制度を目指すようになった。 生活に困っている国民に対して、国家の責任において無償の経済給付を行う制度が公的扶助である。生活保障法に基づいて、国民に最低生活を保障し、自立の支援を目的としている。具体的には、保護の申請をした者が、資産調査の結果、所得が最低の生活費を下回ると判断されると、その差額が公費によって無差別・平等に支給されるというものである。 障害者や児童・老人・単親家庭などは、本人や家族の力だけでは社会生活を送るうえで困難が多い。とくに核家族化が進み、地域との付き合いも疎遠な現代では、より社会的な援護が必要とされる。こうした人々に対して、必要なサービスを提供するのが社会福祉である。日本では、1950年代までは生活保護法とならんで貧しい人々への援護対策という性格が強かった。やがて高度経済成長期を迎えると、国民から社会福祉を充実すべきであるという要求が高まり、財政的なゆとりを背景にして、知的障害者福祉法、老人福祉法、母子福祉法などが成立し、施設の数も急増した。 公衆衛生には、疾病を予防し、国民の健康を保持し増進する対人保険と、食品や環境を管理する環境保健とがある。近年、公害・成人病・老人問題や精神衛生などに加えて、さらにボーダーレス化に伴うエイズや各種感染症への対応が必要とされ、保健所を中心に地域の中で福祉や医療との連携がはかられつつある。1997年から社会の保障制度の各分野にわたって、幅広く改革論議が行われた。政府は1997年8月、21世紀の医療保険制度と題する改革案を、改革協議会に提出した。2000年度から(1)診療報酬の定額払い方式の適用範囲を拡大する、(2)薬価基準制度を廃止して日本型参照価格制度を導入する、(3)高齢者を対象とする独立の医療保険制度を創設する、との案をまとめた。 戦後の日本は、福祉国家の確立を目指して社会保障制度の拡充を進めた。1973年には政府が「福祉元年」の声明を出し、70歳以上の老人に対する医療費を無料とするなど一連の福祉政策を打ち出した。しかし、第一次石油危機以後、深刻な財政危機にみまわれるようになった70年代後半には「福祉見直し」・「日本型福祉社会」論として、個人の自助努力と家族・地域の負担が強調されるようになった。その中で、1982年には老人医療費の一部が有料になり、続いて健康保険の本人1割負担、老齢年金の保険料の引き上げが実施された。1994年には、60歳から支給されてきた年金を2001年度から段階的に65歳からの支給へと年齢を引き上げることが決まった。さらに、1997年の再度の健康保険法の改正によって、本人負担を2割とするなど、患者の負担は一層重くなった。一方、民間企業が福祉の分野に参入し始め、「高福祉」を期待するならば「高負担」が必要だという受益者負担の考え方も強まっている。 障害者などへの福祉サービスは、現代ではノーマライゼーションの考え方にたって地域の中で自然に生活できることが重視され、障害者が社会生活を営むうえでの物理的・精神的な障壁をなくしていくバリアフリー社会が目指されている。そのためには、地域社会における施設を整備・充実させることが必要であり、それに加えて、自発的で無償のボランティア活動が広がることも重要である。また、障害者の雇用を保障するためには、法的な整備と施策が一層推進されることが必要である。 日本では、急速に人口の高齢化が進んでいる。1990年代半ばに総人口の14%以上が65歳以上という高齢社会となったが、さらに21世紀の前半には25%以上の高度高齢社会を迎えると予想されている。 この急速な変化に対応して、個人の家族の自助努力に依存するだけでなく、日本の経済・社会システムそのものを高齢社会に相応しいものに見直していく必要がある。生きがいと安心のある老後の生活を保障するために、定年制の延長をはじめとする雇用の確保、医療保険や年金制度、福祉施設を拡充することは急務である。とくに、寝たきり老人と呼ばれる介護を必要とする老人福祉対策は切実で、公的介護制度の確立、医療施設やホームヘルパーなどの拡充が早急に進められる必要がある。1997年に介護保険法が成立したが、介護要員の確保や財源問題、低所得層では実質的に負担増が予想されるなど、未解決の問題も多い。   練習問題 一、次の質問に答えなさい。 日本の企業の大別は何ですか。 日本企業経営の特徴について、述べなさい。 90年代に入って日本の雇用情勢はどうなりましたか。 日本の社会保障の特徴について、述べなさい。 社会保障制度はどのような体系からなっているのですか。 二、課題研究 現代における労働組合の意義について考えてみよう。 高齢社会に適合した政策について列挙してみよう。 第一節 日本文化の起源 日本の文化の根底となっている縄文文化には、シベリアなどの北方文化の要素と、東南アジアなどの南方文化の要素とが見られる。北方系の要素は近年発掘が進んでいる青森県の三内円山遺跡の発掘品などから明らかになりつつあるが、シベリアなどにおける北方文化の実態解明が進んでいないため、今後の研究に待つ所が多い。これに対して南方系の要素は、植物学者中尾佐助を中心とした植物生態学者、考古学者、文化人類学者らのグループが、東南アジアで広範囲なフィ―ルドワークを行い、東南アジア文化と様々な共通性を持つことを実証した。 この地帯は人種的にモンゴロイドが住み、気候的にも似通っており、このため、共通して文化要素を持つに至ったものと思われる。早くから焼畑農耕が始まり、そして後には稲が栽培された。この地帯の特産品である茶やこんにゃく、シソの飲食も特徴的であるし、大豆を原料とした納豆作りもこの地帯だけで行われている。食品以外では漆や蚕の飼育による絹の使用、鵜飼いによる漁業も雲南からベトナム、中国南岸から日本まで、この地帯で広く見られるものである。そのほか、神話では、日本の『古事記』『日本書紀』に出てくる「天岩屋型」の日食神話なども共通するものである。 第二節 日本近代文化 日本社会の近代化が、外面的には西洋文化の摂取でもあったことは、否定しがたい。日本の内部に近代的傾向を持つ文化が自生していたことは、繰り返し指摘してきたとおりである。けれども、それはどこまでも台木にとどまり、真に近代文化の名に値するものの形成は、やはり開国以後に移植された西洋文化の接木をまたねばならなかったのである。 ただ、同じ外来文化といっても、古代や封建社会における、朝鮮・中国・インドなどの文化の移植の場合とは根本的に異なるものがあった。朝鮮・中国・インドなどの文化の輸入の場合には、文化財を輸入するだけで、それを生み出した社会的条件とはまったく無関係であったから、それによって日本人の生活まで大きく変化することはほとんどなかった。ところが西洋近代文化は資本主義社会の産物であり、日本は資本主義的生産様式を採用することによって先進諸国の仲間入りをしようと企てたのであるから、単に生産された文化財の輸入に満足するわけにはいかず、政治・経済のような社会構造から、衣・食・住のような日常生活面まで、日本人の全生活が広い範囲にわたり、西洋文化の移植に伴って変化しないではいなかったのである。おそらく資本主義生産様式を自力で生み出した欧米以外の諸民族に共通することだろう。近代化と西洋化との間にはっきりした区別を立てることは、日本の場合難しいのである。 こころみに、明治以後、洋服の採用はまず軍隊から行われている。様式兵制の採用はすでに幕末から始まっているが、様式の火砲や軍艦を操縦する軍人が和服の軍装をつづけることは不可能であった。こうしてまず軍人の軍服から始まった洋服は、明治初年には官吏の服となり、明治中期以後になると、一般のサラリーマンの通勤服や男子学生の制服として広く用いられるに至った。大正の末には、職業婦人をはじめ、そのころの流行語でモダンガールと呼ばれた若い女性たちも洋服を着はじめ、太平洋戦争後には、男女を通じ、洋服が平凡な日常着となって、かえって和服を着ているほうが少ないくらいになってしまった。 中国文化を盛んに輸入しても、中国流の服装が用いられたのは、律令時代の官人の礼服と禅僧の法衣以外あまりない。ところが、明治以後の日本人が、このように衣服を全面的に洋服に切り替えたのは、近代化された社会生活の中ではそれに適応した服装をしなければ不便で困るからであって、西洋の服装であるとかないとかいうことによる問題でなかった。そのことは、例えば物理学や機械工業や電車などを採用した場合にもすべて当て嵌まるであろう。これらの西洋文化は、ひとたび近代化に踏みきった日本人がそれなしにすまされなかったから採用したまでで、西洋文化であったから採用されたわけでないのは、いうまでもない。 このように、西洋文化の摂取という形態を借りて日本の近代化が推進されたのであるが、近代化の日本的な特殊性は、おのずから近代文化の形成にも、特殊な性格を与えないではいなかった。例えば、近代科学の歴史について、その特性を考えてみると、日本の近代文化の発達に内在する問題点がよく理解される。科学は日本文化に一番欠けているものであったが、近代科学の受容――それも江戸時代の洋学の学習のような限定された領域だけの学習ではなく、近代科学全分野にわたる学習が行われ、さらに近代科学の上に立脚する合理的知識ないし合理的精神が教育を通じて広い国民層に普及していったという事実は、何といっても明治以後の日本の文化史をそれ以前のすべての時代から区別する根本的な相違点の一つと言わなければならない。もちろんその以前の時代にも、自然現象や人間社会についての客観的な知識や合理的な物の考え方はあったが、近代科学のように一貫した体系的知識や統一的方法が備わっていなかったから、それらは科学的精神の芽生えを示すものであっても、厳密には近代科学と言えないものであった。したがって、洋学を通じて輸入された近代科学も、特定の領域にとどまり、その上に一部の洋学者の専門技術であったから、まだ国民一般の共同財産となるまでに広い社会的基盤を持つに至らなかったのである。 ところが近代的科学技術なしに成立しない資本主義的生産様式を採用することとなれば、どうしても国民に広く近代科学への理解を普及させねばならない。ことに近代科学の枠を尽くした軍事力を維持するためにも、その必要は切実である。こうして、一方で大学や研究所などを開設して高度の科学研究が奨励されると同時に、普通の教育においても、一通りの科学的知識を全国民に注入することに力が注がれるようになったのである。 明治初年には、まだ西洋の科学の成果を学習し理解するのが精一杯であって、大学にも外国人教師が多く雇入れられ、学科によっては外国語で講義する例もあったくらいである。ところが、明治後期以後は、日本人の学者の間でも独創的な研究が進められるようになった。例えば、長岡半太郎の原子構造の研究、本多光太郎の特殊鋼の研究などといった、世界科学史に不朽の名をとどめる業績さえ生み出されるまでに、日本の学界の水準は高まったのである。 それならば、近代科学は十分に日本人の共同財産となり、科学的精神が広く日本人の間に行きわたったかといえば、必ずしもそうとは言いきれないところに、重大な問題がある。国民の科学的精神が全面的に高められた。合理的な物の考え方は、なかなか国民の多数の生活を支配するようにはならず、むしろ迷信や非科学的な考えたが優勢で、病気を治すために祈祷師を頼ったり、引越をするのに方角を気にしたりする習慣があった。科学が現実の生活に広く利用される点では、江戸時代の洋学知識の応用などの比でないにしても、科学的精神の国民化という点では、まだ極めて不十分とも言えよう。 明治以後の日本における科学のこのようなあり方は、西洋近代文化を受け入れる基本的な姿勢から出ている。「富国強兵」の手段としての近代産業・近代軍備の育成の、そのまた手段としての近代科学の受け入れは、おのずから自然科学及び応用技術の研究に偏り、人文科学・社会科学の研究には消極的に流れることを免れなかった「富国強兵」の目的を達成するために、資本主義生産様式の採用が不可避であることが認識せられていた限り、上からの資本主義培養に必要な限度で法律学・経済学などをも学びとらねばならなかったから、幕末の洋学のように、人文科学・社会科学部門を完全にシャット-アウトするわけにはいかなかった。とはいうものの、天皇制国家の政治的・軍事的発展に奉仕できるという条件に合致しないものはやはり排除されることを免れなかったのである。「東洋の道徳、西洋の芸」という幕末洋学のあり方が、根本的にはそのまま存続していたと見ることもできよう。 ただ封建社会の教学である儒学では、資本主義経済を物質的基盤とする天皇制国家のイデオロギーであることに耐えられないから、同じ役割を果たしうる西洋の学問が代わりに採用されたというにとどまるのである。だから、人文科学・社会科学の場合には、上述の目的に合致するかどうか、厳しいふるいにかけた上でなければ、受け入れることが許されなかったのである。 明治維新直後、政府がまだ思い切った「文明開化」の政策をとり、民間の知識人の自主的活動が学界のイニシアティヴを握っていたころには、イギリス・フランスなどの啓蒙主義・自由主義の社会思想が流行していたし、自由民権運動の高揚期には、古典的なブルジョア民主主義の政治理論も相当に流布したのである。ところが、政府が民権運動を鎮圧した後は、同じく後進国であり君権主義の強いドイツの哲学・法律学・経済学などが学界の主流を占めるようになり、ドイツ流国家主義が、固有の「国家概念」や古来の「淳風美俗」を合理化する武器として利用される状態を見るに至ったのである。 社会体制を対象とする社会科学の研究が苛烈な弾圧にさらされたのはさることながら、日本の社会を対象とする日本史学の運命もまたこれに劣らないものがあった。しかも、天皇制政府が、「国体の淵源」を『古事記』『日本書紀』の「神代」説話に求め、学校の歴史教育の冒頭で「神代」説話を歴史的事実として教えるよう強制した結果、日本古代史の科学的研究は極度に困難となった。そればかりでなく、日本史の古今を通じて、その社会構造や歴史的矛盾を科学的に析出することにも政治的妨害が加えられたから、日本史全般にわたり、いたるところで科学的研究の伸展が阻止されてきた、といってよいであろう。近代科学が、一部に世界的な業績を生み出すまでに、日本の学界で大きな進歩を遂げた一面を持ちながら、他方、社会全般にわたり、非科学的・非合理的な物の考え方が根強く生きつづけているという矛盾は、要するに、明治以後の日本国家が、近代科学の受容に対して示した以上の姿勢にその根源を持っていたと結論できるのである。 文化の中で、その母胎である社会の構造と深く結びついたものであればあるだけ、社会の矛盾が深刻に刻み困れることをまぬかれない。しかし、社会的基盤からの独立性の比較的大きい文化の領域では、封建的とか近代的とかいう発展段階と必ずしも不可分でない要素が多いために、西洋文化の移植が刺戟となって、伝統的要素との綜合により新しい様式が創造されるとかいった好ましい現象も生じている。 西洋から移植したものがすべて近代的、日本の伝統がことごとく前近代的とは限らない。芸術などの文化領域では、西洋から受け入れたものと日本に前からあったものとがあいならんで別個の領域を形づくり、平行して発展するという現象を示す場合が多い。さすがに英語やフランス語で詩を書こうという作家はいないので、文芸の世界では、せいぜい西洋文芸からより多く学んだか日本古典の影響のほうが大きいかという程度の違いしか生じなかった。しかし、西洋の技術がそのまま採用できる造形美術や音楽演芸の領域では、西洋輸入の形態と日本伝統の系列とが平行線の関係に立って両立する事態を現出する結果となった。美術では日本画と洋画との技術的交流も行われ、音楽では和洋合奏などの試みもあって、相互にまったく背を向けているわけではないにせよ、日本画と洋画、邦楽と洋楽、歌舞伎と新劇などは、それぞれはっきりした対立を示している。科学と科学的技術との場合には、西洋のそれ以外に日本にはほとんどこれと対立するような伝統がなかったのに、芸術のほうでは、日本に充実した伝統があり、しかもそれは前近代社会と必ずしも運命を共にするものではなかったため、西洋芸術の受容が行われた後にも、依然としてその生命を持続することができたのである。 ただ、日本画の場合のように、洋画と対立しながら常に新しい発展を続けることのできた分野と違い、歌舞伎や邦楽のように新しい発展の可能性に乏しく、過去の完成された形態を維持することのほうに大きな力を注がなければならぬものにおいては、今後いつまでその分野を維持できるかは、問題であろう。 すでに雅楽・能楽・狂言・人形浄瑠璃などは、もはや博物館に保存される絵画や彫刻と同じような過去の文化財として鑑賞されるに過ぎないありさまとなっている。歌舞伎や邦楽も、いずれは同じ道をたどる運命をまぬかれまい。演芸では、芸術としての役割よりも娯楽としての役割のほうが大きい。日常生活文化としての娯楽は、時代の動きと直結しているので、おのずから近代生活の産物である映画・ジャズ・スポーツなどが圧倒的な優勢を示している。いくら芸術的に洗練されているからといって、今さら歌舞伎や三味線音楽が大衆を吸引することはできないのである。ただ、映画のように、技術は近代的でも、娯楽的要素の多い芸術では、相変わらず時代物が人気をよんでいるし、また、哀調を帯びた、あるいは民謡の伝統色の強い流行歌が、レコード・ラジオ・テレビなどの近代的なルートを通じて愛好されるなど、独自の日本的好みの根強さは、やはり日本社会の前近代的な構造と無関係なものでないのではなかろうか。 長い時間的経過のうちに、結局洋服への全面的切り替えが完了したが、それは衣服が、単価も比較的低く新陳代謝の激しいものであるだけに、切り替えの機会を多く持っていたからであろう。永続性のある住居は、単価も高いし、官庁・オフィス・劇場・食堂・乗物などの公共施設がテーブル・椅子の腰掛け式に変じた後でも、私生活のための住居は、まだ畳式の日本建築が多い。しかし、衣生活の変化や家庭電化の進行に伴って、様式建築への移行は年ごとに進むに違いない。食生活では、早くから部分的にいわゆる洋食と呼ばれる飲食品が採用されたにもかかわらず、米を主食とする伝統的習慣が支配的であるが、ここでも獣肉・牛乳及び乳製品の消費の激増など、食生活の合理化が顕著に看取されるのである。 最後に宗教について一言する。宗教といっても、もともと農耕儀礼であった民族宗教はもちろん、葬祭儀礼以外に対した役割のない仏教も、病気の平癒や商売繁盛を看板として売り出している新興宗教にしても、すべて宗教というよりは呪術にすぎない現状である。民族宗教や仏教が、形骸化しながらとにかく広汎に存続し、新興宗教が活動を続けているのは、日本の社会が、まだ科学的合理的に処理できない矛盾を多く抱えているからであろう。社会の合理化が進めば、呪術の存在理由がそれだけ縮小されるのは当然予想されるところであって、呪術の消滅の時期が近い将来に期待できるかどうかは、一に社会の合理化が早く実現されるかされないかにかかっているわけである。現在、宗教は大きな魅力を発揮していない現代の日本では、呪術迷信の信奉者を除けば、積極的な無神論者ではないまでも、宗教に対してまったく無関心という意味での無宗教の人々が圧倒的に多数を占めている。 第三節 生活の中の日本文化 日本の生活は、日本に固有の文化の伝統が生きていることが多い。どんなに洋風の住宅であっても、畳を敷いた和室が一室あることが多い。それはただ昔ながらの習慣だからというだけでなく、夏は涼しく冬は暖かいこの独得の床材が、四季の変化の大きい日本の風土に適しているという合理性をも持つからである。 「畳」という名が示しているように、元来はそれは今日の「ござ」のような、たためるくらいの薄い敷物であった。現在のようにわらをさし固めた厚い畳になっても、古代にはちょうど今日の座布団のように人の座るところだけに敷いたものであり、この風習は現在も雛人形などに形をとどめている。室町時代に小さな室が増えるようになってはじめて、今日のように部屋中に敷き詰めるようになった。室町末期から桃山初期に完成した書院造は、この畳を敷き詰めた室に明かり障子や床の間を伴った。今日の和室の原型をなした。畳を敷き詰めた室や明かり障子が一般の民家にまで普及するのは、江戸時代になってからである。 このように畳を基礎とする住生活は、ベッドに対する布団、椅子に対する座布団、ストーブに対するこたつなど一連の生活文化を発達させたばかりではなく、座り方のような日常の立ち居ふるまいに現れる行動文化にも影響を与えている。畳の家は西洋の住宅のように土足でそのままあがることはできないから、靴と比べて着脱の容易な下駄や草履が愛用され、これがまた日本人の歩き方に影響している。 世界に移出される日本文化の代表的なものとして、浮世絵とともに茶の湯、生け花、柔道も、いずれもこの畳の生活という基礎の上に展開したものであるし、日本庭園もまた、畳の室内と映発し合う形で発展してきたものである。衣生活でも、今日の近代生活の中で、和服はなお多くの人々に愛用されているし、ことに浴衣は、蒸し暑い日本の夏をくつろぐ優れた衣料となっている。食生活でも、米食を中心とする味噌汁、魚、漬物などの和食は、現代もなお日本人の食生活の重要で基礎的な部分となっている。このような日本の風土の中で、幾世代にもわたって熟成されてきた日本の文化は、現代社会に生きる日本人の生活の中に、今もなお息づいている。 日本の民家は、木造で地震には壊れやすい欠点を持つ。しかし同時に通風の良いその設計は、高温多湿となる日本の夏に適してもいる。西洋の家に対して、このような日本の家の欠点と長所はともに、自然に対して比較的無防備であり、すすんで自然を受け入れて生きようとする日本の文化をよく現している。日本の文化はいわば、自然に向かって開け放たれている。このような感覚の基礎にあるのは、自然は基本的にはよいものであり、人間と自然とは調和して生きていくべきものだという考え方である。日本人は「お山」「お水」「お月様」などと自然の事物にも敬称をつけることが少なくないが、それは日本人に独得なものだといわれる。それは日本文化の古層に、山川草木にもそれぞれの神々がやどっているという汎神論的な感覚があるからである。このような感覚はまた文化のそれぞれの分野において、外部の自然の景観そのものを庭園の設計の中におりこむ借景技法、草花の自然の形をそのまま生かすことを考える生け花の技法、あるいは素材の自然の味を生かして引き立てることをよしとする日本料理の考え方などにも現れている。 日本民族は、古くから定住する農耕民がその大部分を占めていたこと、さらに地形上、比較的狭い範囲の小さな集落に分かれて住みついていたことなどから、集団性、協調性に富むと同時に、閉鎖的で濃密な特有の人間関係を生み出してきた。人間関係において最も尊重されてきた価値は、人々の「和」ということであった。大陸の文化を積極的にとり入れた聖徳太子の憲法十七条でも、「和を以て貴しとなす」と置かれているのは、中国やインドの文化の移入であるよりも以前に、このような日本文化自体の、社会関係における理想を基礎においたものであった。 このように「和」を重んじる日本人の集団性は、二つの問題点を持つ。第一に、個人の自立性を育てにくい傾向がある。一方で、厳しい個性としての責任感に裏打ちされない「甘え」の態度を育てやすいとともに、他方ではまた、新しい理想に生きようとする個性を周囲が抑圧する傾向を持つ。第二に、自分の属する集団の外の広い社会に対しては、無関心で無責任な態度をこれまでは生みやすかった。いわゆる集団エゴイズムである。 このような日本人の集団性が、上下の支配秩序のうちに組み入れられて、封建的な主従関係や親分子分関係のような、抑圧で閉鎖的な関係を形成していったことを見逃してはならない。集団エゴイズムの弊害は現代でもなお残っている。日本人の集団性がこのように悪用されることの危険を忘れてはならないけれども、「和」を求める日本人の心自体は、日本文化の固有のヒューマニズムの基礎として広く人類にとっても普遍的な意義を持つ価値であるといえる。 第四節 日本文化の特性 日本の文化は、系統の異なる文化が併存ないしは混在する重層文化である。例えは、政治には新旧の制度が混在し、衣食住は和洋折衷であり、宗教は神仏をともに受け入れ、日常使う日本語の中には漢語が半分以上も含まれるといった具合である。重層文化が生まれた理由として、日本人は異質文化への好奇心が強いこと、在来文化を根こそぎ否定するような侵略を受けず、必要に応じて外来文化を取り入れる環境にあったことなどが挙げられる。 日本は四季の変化が著しく、生命力に富んで、人間に豊かな恵みをもたらす。そのため、日本人は自然に対抗することなく、受容的な態度をとる。自然の暴威に対しては我慢して耐え忍ぶという点で、忍従的である。 日本の文化は地域によって、宗教によって、あるいは人によって異なるということはなく、ほぼ均一、均質であるということができる。日本人は長い間、生活の末端まで国家の統制を受けてきた経験から個人よりも集団や国家を考える習性を持っていることが文化の均一性を生んだ原因と見られる。 日本人は外来文化を日本化して、独自のものとしてしまう能力を持っている。平安時代に漢字を日本化して仮名を作り出し、6世紀に伝来した仏教は鎌倉時代に法然とその弟子親鸞が出て、外来宗教の域を脱し、日本の仏教となった。日本人は現実的で、普遍的概念よりも個別的な事物を重んじる。仏教を現世利益的なものに変えたこともそうだし、江戸時代の幕藩体制の理論的根拠となった儒学も理論面より応用面、実際面で優れていた。現代の科学でも原理の追求より原理の応用・製品化の面で能力を発揮していることは周知のとおりである。 日本人は外国の文化を独自の文化につくり直して、21世紀の日本の担い手として、日本人の自然観や宗教観などを正しく理解することが必要である。 第五節 マスコミ 日本は世界一の新聞大国と言える。全国紙、地方紙166社が毎日(朝・夕)推定約7000万部以上の新聞を発行している。日本は人口1000人当たり約600部で、新聞の大好きな国民であること、新聞の信頼性が高いことを示している。 最大発行部数の新聞社は1874年設立の読売新聞で、朝刊・夕刊合わせて毎日1458万部を発行している。日本には『読売新聞』以外にも『朝日新聞』1270万部、『毎日新聞』595万部、『産系新聞』『日本経済新聞』などの全国紙があり、これら五大紙が圧倒的に強いのが特徴である。日本の新聞流通の大きな特徴は個別配達制度をとっていることで、新聞の93%は家庭や職場に直接配達される。 日本でテレビ局が開設され、放送が開始されたのは1953年のことで、その後、急速に各家庭にテレビが普及し、現在では普及率99%を超える。ほとんどはカラーテレビで、一家に2-3台のテレビを持つ家庭も増えており、視聴状況も大変よい。日本放送協会(NHK)が調べた「国民生活時間調査」(95年)によると、日本人は1日3時間はテレビを見ている。次いでラジオは26分、新聞は24分の順である。 日本の放送は受信料を財源として全国に同じプログラムを流している公共放送局(NHK)と、広告収入に依存し地域に基盤を置くその他の民間放送局(民放)という併存体制をとっている。民放テレビ局は1県に2局、主要地区で3―5局あり、全国では約130のVHF局を数える。その他にUHF局もほぼ1県に1局の割合で作られて、日本はその置局状況からして世界でも有数の放送国と言える。 テレビは各局とも朝5時前後から明方近くまでほぼ一日中放送している。放送内容はニュースなどの報道、ドラマ・歌・クイズなどの娯楽、学校放送・美術などの教養と、放送内容も多彩である。民放各局では特に娯楽番組に力を入れていて、放送番組の質の向上が求められている。 日本が世界でも有数の出版王国であることは間違いない。1995年1年間に、日本では約5万1100点の新刊書籍が発行された。日本人は本が好きで、通勤、通学の電車の中で本や雑誌を読む光景が日常的に見られる。95年1年間の推定総発行部数を見ると、書籍は約14億6100万冊、雑誌は約50億6300万冊で、その総売上げ金額は2兆5900億円にも達している。人口一人当たりにすると、1年間に本12冊、雑誌を40冊読み、そのために一人当たり年間約2万円を支出していることになる。 第六節 日本の文学 8世紀の初め、皇室を中心とした国家体制が完成すると、日本古代の神話と歴史が『古事記』と『日本書紀』にまとめられた。『古事記』はを記憶することを職としていた宮廷の役人が暗唱していたものまとめた記録である。『古事記』は和漢折衷的な漢文体で書かれ、天皇を中心としたより強力な国家を形成しようという意図で編纂されたものだが、日本最古の文学と考えられている。『日本書紀』は本格的な史書である。先進隣国であった中国に敬意を払い、純粋な漢文体で書かれている。 8世紀の後半には最古の歌集『万葉集』が登場した。これは20巻からなり、450年にわたって天皇から庶民まで各階層の作者が作った約4,500首もの歌が含まれ、万葉仮名と呼ばれる表記法が用いられている。 11世紀の初めに、紫式部の作品『源氏物語』が現われ、この物語の中で、紫式部は皇子として生まれながら天皇となれなかった主人公光源氏の華やかな宮廷生活を描いている。『源氏物語』は王朝文学の傑作と言われ、日本文学の代表作としても定評はある。 12世紀、武士階級が台頭し、武士階級による中央政権への進出が始まり、やがて源氏や平家による武家政治の実現を見た。これを反映して、この時代の文学は仏教的無常観から書かれた作品が多い。その代表作が『平家物語』で、作者は不明である。この物語は13世紀に登場し琵琶の音楽を伴奏として語り継がれ民衆の中に広まった。作品の内容は、12世紀後半の平家一門の反映と滅亡を描いた物語であり、作品の根底には盛者必衰という仏教観が貫かれている。 17世紀初めに江戸幕府の創設とともに、町人中心の文化が誕生した。その代表的な存在が井原西鶴と近松左衛門であった。井原西鶴の代表作は『好色一代男』で、世之介という好色の男の生涯が書かれている。近松左衛門は浄瑠璃や歌舞伎の脚本を沢山執筆し、当時の庶民の姿を巧みに描いた。 19世紀後半の明治維新以降、 日本は西欧との交流を深め、そ の影響を受けて様々な文芸思潮 や新しい作品が生み出された。 近代文学の二大巨峰といわれる のが森鴎外と夏目漱石である。 ともに西欧への留学を経験し、  夏目漱石     森鴎外 東西文化に精通して、鴎外と漱石はどこの派にも属さず、独自の立場を守って多くの作品を生み出した。『舞姫』は鴎外の処女作である。ドイツ留学中に主人公である大田豊太郎と踊り子エリスとの恋愛にかかわる小説であり、すなわち胸中の苦悩を描いた自伝的な色彩の強い作品である。また、『吾輩は猫である』は漱石の処女作である。中学校教師苦沙弥先生の飼い猫を主人公とした、擬人体で書かれている。飼い主の家族、周囲の人物とそこに起きる様々な事件が飼い猫の目から鋭い風刺とユーモアによって書かれている。 夏目漱石は、日本の近代化が「外発的」なもので、人々の生活や社会の現実に根づいていないと考えた。そして外からの圧力に左右される「他人本位」の生き方ではなく、自己の内面に根ざす「自己本位」の生き方を求めた。かれのいう「自己本位」とは、他者を犠牲にするエゴイズム(利己主義)とは異なり、他者の生き方を尊重しながらも、同時に自分の個性を発揮し、他者とは違う自己の生き方を確立しようとするものであった。漱石は、『私の個人主義』において、この「自己本位」の立場を個人主義とも呼んでいる。漱石の求めた自己の確立は困難なものであった。『こころ』や『道草』など多くの小説にその苦悩を表現した漱石は、晩年、我執を去り自然の道に拠ることで自由を得ようとする、則天去私の境地にいたった。 日露戦争前後、島崎藤村や田山花袋などの自然主義を唱える作家が台頭し、藤村の『破戒』、花袋の『蒲団』などが代表的役割を果たした。自然主義はその後も近代文学の最も大きな運動として、広く影響を及ぼしていく。島崎藤村は、『夜明け前』で「家」と「個」にはさまれた主人公の苦悩を、『破戒』では部落差別を通して主人公の自我の目覚めを描き出した。これらには、個人の内面や現実の社会の困難がありのままに描写されている。しかし、人間の姿を赤裸々に描く自然主義は、その否定的な面のみを強調する傾向に陥り、そこから反自然主義の傾向が生まれた。 また与謝野晶子や石川啄木らによって沢山の優れた短歌を書かれた。ロマン主義の雑誌『明星』に登場した与謝野晶子は、内なる感情をありのままに歌った。恋愛感情を高らかに歌った官能的な『みだれ髪』は、それまで封建的な制度や道徳に自我を抑制されていた同世代の若者の支持を得た。 そのほかに、夏目漱石の影響を受けた武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らは自己の個性を生かし、教養を深め、人道主義を広げるという意図を持って、雑誌『白樺』を発刊した。白樺派の中心として活躍した武者小路は、「個性を生かす」ことが「人類の意志」であり、「われらに創作させるものも人類の意志である」と考えた。彼は理想主義的な小説を発表する一方、そうした生き方を実践する共同体として「新しき村」をつくるなど、理想の実現に力を尽くした。有島武郎は、自己の希求と完成を神への信仰には求めず、個性の創造と自己の生の燃焼へと向けた。そして、人道主義の立場に立ちながらも、「私自身を何ものにも代えがたく愛することから始めなければならない」という言葉のように、個人主義を突き詰めようとした。白樺派の作家は大正期の文壇に大きな影響を与え、中では志賀直哉の長編小説『暗夜行路』は高い評価を得ている。 新感覚派運動を起こした川端 康成らは既存の現実主義にあき たらず、官能や神経に病的な敏 感さを見せ、意匠や装飾に新し いものを狙った。川端の代表作 『伊豆の踊り子』『雪国』は今 日も広く読まれ、川端は日本人  川端康成     大江健三郎 では初めてのノーベル文学賞を(1968年)受賞している。『飼育』などの作品で登場した大江健三郎は戦後青春の疎外感などを定着させた作家で、1994年日本二人目のノーベル文学賞を受賞している。 一方、社会主義的民主化運動を反映した作家も登場した。『播州平野』、『蟹工船』などの作品を発表した宮本百合子と小林多喜二はプロレタリア文学の旗手であり、佐田稲子や徳永直もプロレタリア文学の戦前戦後を支えた代表的作家である。 現在、読者の要求も様々な広がりを見せ、純文学と大衆文学の距離が縮まり、中間小説と呼ばれる作品の流行を見るに至った。推理小説なども昨今は全盛期を迎えた感がある。 第七節 能 能は日本最古の演劇で、14世紀半ばごろから伝わる歌舞劇で、16世紀に完成し、現在まで上演されている。もともとは寺社に奉納された歌舞や農作物の豊穣を祈る舞踊だったのが、次第に文学的に洗練され、思想的な深まりを持つようになり、江戸時代には武士をはじめ知識人の教養として愛好されるようになった。だから、能は庶民の演劇ではなく、武士階級のものとされた。 能は独特な舞台の上で、曲につれて舞い踊る楽劇である。主役は面をかぶり、ゆっくりとした仕草で動き、劇的な要素は少ない。能の曲は謡曲といわれ、これのみでも独立の芸術とされている。 現在、能の題材は約250種あるが、大きく「神、男、女、狂、鬼」の五つに分けられ、「神」は祝言性の勝ったもの、「男」は武人の修羅の悲劇を描き、「女」は能の美の中心的なもの、「狂」は異常な状況に置かれた心理葛藤を、切能の「鬼」は文字とおり鬼畜が登場する。仏教思想を背景とし、源氏物語、伊勢物語をはじめ、仏典、漢詩文などの言葉を駆使した美しい文章は、日本人の教養の拠所ともなっている。 主役のかぶる面の役は特定のものに決まっておらず、一つの面を色々なテーマの色々な役に使い分けている。能の面は個性に乏しいが、現実から昇華した形相のなかに表される奥深さが能面の真髄とされる。能面は極度に抽象化された役者の動作と、単調な音楽とあいまって独自の芸術美を発揮する。能の衣装も面とともに、能の味わいの深さを構成する主要な要素となっている。死んだ歴史的人物が現れて過去を語るもの、現在の人間が喜怒哀楽を物語るものなど筋は様々だが、華やかな衣装で主人公たちが静かに語り謡う姿は、日本的な美を十分にたたえていて、知的な古典劇として、最も高い位置にある。 江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃も、能の上演法の影響を強く受けて発達したもので、日本文化の理解には不可欠なものといってよかろう。また、松尾芭蕉や井原西鶴の文学にも、能の言葉が多く出てくるのは、江戸時代の教養として能が重要な役割を果たしたことを示すものである。 第八節 狂言 狂言は、能とともに14世紀以来発達し、現代まで伝わっている歌舞劇で、能がシリアスな題材を中心としているのに対し、狂言は笑いを中心とした滑稽なストーリーを特色としている。言葉も、能が日本や中国の古典に出てくる言葉を使うのに対し、狂言は話し言葉を使い、現代日本語の話し言葉に近い言葉づかいが多い。 登場人物も、能が天皇や英雄など、いわば上流階級の人々であるのに対し、狂言には農民や召し使いなど庶民階級の人物が多く、現代人にも親しみを感じさせる。 狂言でも、能と同じように面をつけるときの原則がある。現実世界で人間が登場したときには面はつけない。動物や老人、精霊や亡霊になるときは面をつける。能と大きく違う点は、女性を演じるときにも面はつけないということだ。狂言で女性を演じるときには、頭を白い布で覆ってしまい、役を区別をしている。 現在、作品は300ほど残っており、200種が今でも上演されている。もともと、狂言は幕間狂言として発達したので、舞台は能と同じものを使う。現代の上演はやや形式化しているが、即興劇の持つユーモアは失われておらず、洒落(言葉の)やコミカルなしぐさなどは現代の笑劇の原型ともなっている。 第九節 歌舞伎 歌舞伎は江戸時代初期に生まれ、江戸時代中期に完成し、日本の代表的な庶民演劇である。現在、能よりも愛好者が多く、日本の伝統芸能の集大成的なものといえる。歌舞伎は女優を使わず、女形と称する男優が女性の役割をつとめる。舞台に、回り舞台を使ったり、せり上げを使ったりする劇場の発達とともに、優れた台本と演技が完成し、江戸・大阪・京都の三都を中心に都市と生活に不可欠な文化として庶民の娯楽となった。 題材は古典や伝説などに基づいた時代物、生活に取材した世話物、舞踊を主とした所作事など、多方面にわたっている。理念には、忠孝・義理人情など道義が中心となっており、一般市民には勧善懲悪の道徳教育の役割も果たしている。 古代からの伝統で、役者は被差別階級の扱いを受けていたが、江戸時代には経済的にも社会的にも有名人としての扱いを受けていた。役者の家は世襲制で、現在も市川家・尾上家・市村家など、親子代々歌舞伎役者が続いている。 歌舞伎という字は当て字で、本来の意味は「傾き」で、発生当初に風変わりな舞踊劇だったことから、「邪」とか「曲」とかいう意味で「傾いている」と形容されたものであった。 歌舞伎の舞台装置には、花道や回り舞台など独特のものがある。花道は舞台に向かって観客席を貫いて設けられた通路である。これは俳優が登場・退場するためだけでなく、俳優と観客との交流をも目的とするものである。 演劇としての性格からいえば、歌舞伎は音楽劇であり、舞踊劇である。その多くの作品が三味線などによる日本固有の音曲を伴奏とし、台詞にも動作にも独特の音楽的リズム感が要求され、近代的リアリズムに立脚する演劇とは大きく異なっている。 第十節 文楽 文楽は一種の人形劇であり、別に人形浄瑠璃とも呼ばれる。文楽は起源は室町時代で、江戸時代になり、京阪を中心に発展し、完成した。 文楽で使う人形は首・胴・手・足・衣装からなっていて、1mから1.5mの大きさで、重いものは10kgにもなる。 舞台の上で、人形を人形遣いが1体につき3人で動かす。人形遣いは黒い衣で顔を隠しており、それぞれ首と右手・左手・足の動きを分担している。女の人形には足がなく、人形の衣装のすそさばきで巧みに表現する。人形は三味線の伴奏と独特の節まわしで語る浄瑠璃に合わせて、様々な仕草をする。 人形の首は約60種類あり、そのうち40種類は一つの首を色々な役に使う。そのほかに一首一役の特殊な首がある。目や口が開閉するもの、眉が上下するもの、指の動くものもある。感情の動きなども人形の微妙な動作で表現される。 第十一節 生け花 生け花は16世紀に始まって、花を生ける芸術で、僧侶が仏に花を供えた儀式が庶民の生活に取り入れられたもので、日本独自の伝統文化として普及している。初期の生け花は自然のままの素材と姿を重んじていたが、次第に素材は自然のものを用いながら、構成について理念的な意味づけが行われるようになった。生け花は日本独自の伝統的な挿花の技法で、時代の変遷に応じて色々な様式を生じ、それがその時代の生け花の名称となっている。江戸時代には「抛入花」が愛好され、やがて「生花」を生むようになり、一般的な名称として用いられて今日に至っている。また別に「花道」という呼び名も用いられた。 花でも、日本では技能的なものに次第に精神的価値が与えられ、華道と名前に「道」が使われるようになった。室町時代、東山文化の中で華道として成立し、技術よりも精神的な面が強調される。生け花も華道として一種に人生教育と見なされるようになった。 生け花は時代に応じて様々な様式を生んできた。そして今日なお生き続けているものに、立華、生花、投入、盛花がある。流派は2000―3000あるが、最大のものは池坊で、弟子の数100万人と言われる。 その中に、花を生ける(生花)という表現は、客をもてなす生け花として生まれ、主として床の間に置かれる。現在では室内装飾の一つとして、また生活を楽しむ趣味として気軽に生活の中に浸透している。花を挿す器は大地を象徴し、草花の部分的な美しさよりも、草木が伸びゆく生命力を表そうとする。品格の高さ、流麗、端正さが生花の特徴である。 昭和に入ってからは、伝統的な生け花に対し、生命のない鉄線やガラス・石なども素材にしてそれに生命感を与え、生きた形として表現しようとする前衛的な生け花が生まれ、造形芸術へと変貌しつつある。 第十二節 茶道 日本に初めて茶が渡来したのは奈良時代、遣唐使たちによってである。室町時代、茶は芸術性を高め、茶道(茶の湯)となった。16世紀後半(安土桃山時代)に千利休によって大成した。茶道は日本の伝統文化の一つだと言え、茶道の流派も多い。主な流派は表千家、裏千家、武者小路千家である。 茶道では、抹茶という粉末状の精製された茶の葉を茶碗に入れて湯を注ぎ、茶筅でかきまわして泡立てて飲む。飲む時、右手で茶碗を取り、左の手のひらにのせ、茶碗を向かうから手前に回す。飲んだ後は指先でぬぐい、指は懐紙(懐中の紙)でふく。しかし、茶道とは単に茶を飲むのではなく、茶碗をはじめとする茶道具、茶室の調度、茶庭(露地)などの鑑賞、そして主人と客との心の交流にこそ本質がある。これは茶道の礼法である。 茶道の礼法には、武士の礼法や能の影響が見られ、これは日本の伝統的な礼儀作法に強い影響を与えた。形よりも心を重んじ、おのれをむなしうして客をもてなすのが茶道の心といわれている。茶会の客に初めて招かれた場合、茶道の礼法を知っているのにこしたことはないが、客として最も大切なのは、主人の心遣いに対する感謝の気持ちである。 各流派によって作法の違いはあっても、お茶の基本は礼に始まり、礼に終わるのが大切な心構えである。 第十三節 書道 日本の書道は奈良時代、中国から伝わってきたのである。平安時代前期には空海、嵯峨天皇、橘逸勢の3人が特に三筆といわれ、中国風の雄勁な書風を代表した。その後、藤原行成らが現われ、中国風に対し、優美典雅な日本風の和洋書道の創造に功績があった。また、小野道風は青蓮院流など後代の書道に大きな影響を与えた。江戸時代には一切の公文書に採用され、また寺子屋でも習字にもっぱら使われた。 このように、書は時代を象徴する雰囲気を有し、今日、書道ブームと言われるほどの隆盛の中で、バラエティーに富んだ自由な書が愛好され、また女性書家も多くいる。作品の鑑賞は表現美と内容美によるが、書道は書家の人格の表現であるから、鑑賞者の心を打つものがよいとされる。正月二日に、めでたい言葉や縁起のよい詩歌などを毛筆で書く「書きぞめ」は、現在も趣味家や小・中学生の間で広く行われている。 第十四節 日本画 日本画は日本家屋に飾る絵としてふさわしく、その愛好者も多い。日本画は絹地または和紙の上に毛筆で墨や岩絵具を用いて画く。 日本の絵画は当初仏画として中国から伝わったが、10世紀頃になると日本の風景や風俗も描かれるようになり、大和絵が発生して日本画の基礎が築かれた。 水墨画は禅宗とともに中国からもたらされ、15世紀頃には日本画としても独自の発達をとげた。墨の濃淡を用い、簡素・素朴で暗示的な表現を特徴としている。 その後水墨画に大和絵の手法を取り入れるなど、色々な変遷をたどり、さらに近代以降は油絵の影響も受けて、現代の日本画に至っている。 江戸時代の絵画で、現在でも広く鑑賞されているものに浮世絵がある。民衆的風俗画の一様式で肉筆画も行われたが、特に版画として普及した。その画題は芝生の情景・美女・役者の似顔絵を主とし、歴史画や風景・花鳥におよぶ。浮世絵は、近代美術への影響の大きさは国内よりも欧米で高く評価されている。 第十五節 庭園・住宅 日本の庭園は自然の景観美を主とするものであって、幾何学的な美しさを重視する西洋の庭園とは対照的である。自然の景観美と言っても、自然そのままの姿ではない。樹木・石など自然の材料を用いて自然の山水のたたずまいを象徴化し、あるいは強調して、一つのまとまりのある調和した人工的空間美を形成する。日本の伝統的庭園はこのように自然の形式の一部を織り込んだものであり、この日本庭園の様式が現代にも生きている。作庭の思想の上からは、日本の庭園は自然中心主義のものと、宗教性を帯びたものとの二つの流れに大別できる。 自然中心主義の庭園は飛鳥時代にさかのぼり、その日本庭園の様式を結晶させたのが寝殿造庭園である。寝殿造庭園は築山、池、遣り水に樹木を配したものである。もう一つ代表的なものは江戸時代に造られた大名庭である。回遊式の庭に天下の名所を模した景観を造り、また名石、名木を豊富に使っている。日本三庭園と呼ばれる水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の娯楽園がそれである。 宗教性を帯びたものとしては、平安時代後期から鎌倉時代にかけて造られた浄土庭園がある。庭に池を掘り、その中に中島を造って橋で結び、その向こうに阿弥陀堂、金堂を設ける。室町時代から禅宗寺院になって、庭に石組みを仏像になぞられ、流れる水は白砂で表し、超自然的な深山幽谷の趣を表現した。京都の竜安寺の石庭などがこれであり、その抽象性を現代芸術における抽象性と相通ずるものが多い。 1000年にわたる庭園の歴史の中で、時代の推移とともにその様式も変化する。大別して、中心の池で大海を表し、土を盛り岩を配して山を表す形式と、水を使用せず白砂を敷いて大海を、砂紋によって流れを表現し、青石を立てて滝を象徴させる方式がある。 日本の個人住宅は木造 が多く、二階または平屋 である。木造は火災や地 震に弱いが、通風採光が      部屋図 よく、高温多湿な日本の 風土に適している。また 材料である気の落ち着い た感触が日本人の好みに 適している。しかし、現在はコンクリート造りあるいは鉄骨造りの住宅も増えている。 和室の内装は大体一定の型がある。一般に天井は木の板で、壁は塗り壁、床は板を張った上に畳を敷いてある。和室の境界には木の枠に紙を張り付けた襖や障子がある。これは敷居という横木に刻まれた溝の上を、左右に滑らせることにより開閉する建具である。 障子は採光を考慮したものであり、襖は遮蔽を主目的とし、採光は考慮されていない。これらの素材は日本の多湿の風土によく適合しており、長い間の生活の知恵から生まれたものである。実は桃山時代にできた書院造は現代の日本住宅のもとである。 第十六節 相撲 日本の国技である相撲は、日本人ばかりでなく近年は外国人の間にも人気を博している。 日本の相撲の歴史は古代にまでさかのぼることができ、相撲が文献に残された最初は『日本書紀』である。神話時代に神様同士が闘ったという伝説がある。相撲は単にスポーツとしてだけではなく、農業生活の吉凶を占い、神の心を伺う行事として行われてきた。6世紀頃からは見るスポーツとしても発展してきた。 現在の相撲は、直径4.55mの円形の土俵の中で力士2人が技を競う。力士は素手で腰に「まわし」を締めただけの裸体で登場する。2人は古式にのっとり、競技に入る前に左右の足を交互に上げ下げして準備運動をし、水で口をそそぎ、紙で体をぬぐい、清めの塩を土俵上にまく。2人は行司という審判の指図に従って、向かい合って相手の動作に合わせながら体を前かがみに低くし、両手をついて立ち上がる身構えをし、呼吸を整える。2人は呼吸の合った所で同時に立ち合い、押し合い、突き合い、組み合って闘う。土俵の中で足の裏以外の部分が土につくか、体の一部が土俵の外に出た方が負けになる。 プロの相撲団体が一つあり、年に6回、1回15日間の興業(大相撲)を東京で3回、大阪・名古屋・福岡で各1回行っている。各回ごとに、勝率によって各力士の地位の入れ替えが行われる。 第十七節 柔道 柔道の源は古代の武術にさかのぼるが、これを「柔道」と命名、明治時代初期にその基礎を確立したのは、当時東京大学の学生だった嘉納治五郎である。加納は柔道に関心を抱いて多くの流派を学んだが、これに教育意義を見いだし、1882年講道館を設立、柔道の研究、指導に励んだ。ここで古来の武術である柔道から近代柔道としての発展の基礎をつくったのである。 1951年に国際柔道連盟が発足、日本は1952年に加盟した。現在、国際柔道連盟には約180の国・地域が加盟、柔道人口は世界で500万人とも言われる。1964年の東京オリンピックからは五輪種目になったほか、女子柔道も普及し、世界柔道選手権など各種国際大会も行われている。柔道は単に勝負を競うのみでなく、これにより心身を錬磨するものである。20世紀になってから男子の中等学校以上の教育にも取り入れられ、多いに普及した。 柔道の規定によれば、試合者は柔道着を着用し、試合場は14.55m四方とし、その中央に9.1m四方の場内を設け、互いに組み合って技を競う。柔道の技は投げ技、固め技、当て身技の3種類がある。力量は「段」と「級」で表され、最高は10段で最低は初段、それ以下が級となる。1級を最高に5級まである。段と級は帯の色で区別し、10と9段は紅、8-6段は紅白、5-初段が黒、1-3級は茶、4級―初心者は白色である。柔道は常に礼儀作法を重んじ、「礼に始まり礼に終る」という言葉は有名である。 第十八節 日本の宗教 日本での主な宗教には神道・仏教・キリスト教がある。統計によると、特定の宗教を熱心に信仰しているとする日本人は少なく、宗教には無関心とみずからいう者が多い。 日本人は現世的・楽天的性格であり、どの宗教に対しても伝統的に寛容である。多くの日本人は誕生や結婚の儀式は神道により、葬式は仏教による。同じ人間が神社に初詣もするし、お盆の寺祭りもし、クリスマスも祝う。 各宗教が自宗の信徒数として発表している数は、神道1億1,700万人、仏教9,158万人、キリスト教316万人(1997年)である。宗教人口を合計すると、日本の人口の約2倍に達するという事実は外国には例がない。 日本では憲法で宗教の自由が保障され、厳格に実行されている。したがって国教というものはなく、国の行事も宗教とは一切無関係である。国公立の学校では、宗教教育が禁じられている。 神道は日本固有の自然宗教であり、神道の神を祭るところが神社である。神道でいう神は無数にあり、初めは自然物や自然現象をも神としていた。そして次第に先祖を祭るようになった。したがって神道には特定の教祖はなく、経典もない。神道は19世紀以後、国教のような扱いを受け、天皇が神格化されたが、第二次世界大戦後は国家との関係を断ち切り、各地の神社ごとの信仰となっている。 日本人は誕生の時お宮詣りをし、結婚式を神前で行う。さらに神社に入学合格を願ったり、自動車を運転する人が交通安全のお札を受けたりする。家の中に神棚を祭ることが多い。正月には有名な神社に一家そろってお詣りし、また神社ごとに定めている年1度のお祭りには、その地域の住民が多く集まり、出店なども繁盛する。 仏教は6世紀に中国・朝鮮を経て日本に伝えられた。奈良時代に仏教は天皇家をはじめ有力氏族に支持され、国教的存在となる。13世紀から庶民の間でも非常に盛んになり、同時に武士には「禅」が普及した。これらは現在まで引き続いて日本人の宗教の中心になっている。 仏教では神がなく、無限の愛を持って憎しみや怨みを捨てることを強調する。一般に狂信を排して寛容であり、同時に平等を貫こうとする。 日本人の生活では仏教とのつながりが非常に強く、信徒でなくともお寺に参詣し、葬式を仏教式で行い、死後は仏教上の名前(戒名)をつけ、ほとんどの家庭が自分の家に仏壇を設け、供物を置き、線香をたき、先祖の冥福を祈っている。日本の美術・文学・建築あるいは日本人の思想・道徳など、文化全般にわたって仏教が非常に強く影響を与えている。 禅宗は仏教の一つである。禅とは心を静めることによって得られる高次の宗教的・内面的体験である。このように、心を静めるために座って静かに思いをこらすことが坐禅である。 禅宗は12-13世紀に中国から帰国した日本人僧侶(栄西・道元)によって伝えられた。禅宗では、真理は人々の言語・文字による表現を超えているとされ、坐禅修道によって直接に自証体得することによってのみ把握されるものだとする。 禅宗は武士道や茶道・生け花などのバックボーンになり、日本の思想や文化・生活全般に影響を与えた。 現在の日本では禅宗の僧侶以外にみずから坐禅をして真理を追求している人は少ないが、精神修養の方法として、短期間禅寺に坐禅をしにいくことは一部に行われている。 日本にキリスト教が最初に伝来したのは、1549年にカトリック・イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの来日によってであった。キリスト教の伝来によって西洋の文化は日本に入り、信徒も多くなってきた。しかし、後に支配層は日本社会の秩序に有害だと考え、全面的にキリスト教を禁止した。 19世紀後半、欧米と国交を開いて、再び日本におけるキリスト教布教が盛んになった。明治以降の日本の近代化に、キリスト教及びその文化が及ぼした影響は計り知れない。道徳として、倫理として、教育として日本の生活に入り込んでいる。特に女子教育や中等教育に果たした役割も大きい。今日でも私立の高等学校、大学はほとんどキリスト教に関係がある。また宗派を超越した国際基督教大学も設立されている。 また、社会事業の分野でもキリスト教は大きな力を果たした。その人道主義は社会活動にも関連し、自然災害の場合は人道主義から被害者に様々な援助を与える。そのほか、キリスト教信者から優れた人物も輩出し、作家の故遠藤周作と故大平正芳元首相など名人も少なくない。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 日本文化の起源について述べなさい。 日本の近代文化をまとめて説明してみよう。 世界に移出される日本文化の代表的なものは何ですか。 日本人の集団性について述べなさい。 日本文化の特性について説明してみよう。 日本の五大新聞とは何ですか。 『万葉集』はどのような歌集ですか。 日本最古の文学と考えられているのはどんな本ですか。 『源氏物語』の作者は誰ですか。 10、近代文学の二大巨峰といわれるのは誰と誰ですか。 11、森鴎外と夏目漱石の処女作はどんな作品ですか。 12、白樺派の作家は誰と誰ですか。 13、日本人では今までノーベル文学賞を受けた作家は誰と                               誰ですか。 14、『蟹工船』の作者は誰ですか。 15、日本最古の演劇は何ですか。 16、狂言の特色は何ですか。 17、歌舞伎はいつ生まれたのですか。 18、文楽(人形浄瑠璃)はいつ生まれたのですか。 19、生け花の特徴は何ですか。 20、茶道は誰によって大成しましたか。 21、空海・嵯峨天皇・橘逸勢は何と言われますか。 22、日本の庭園には自然主義と宗教性を持ちますか。 23、日本三庭園は何ですか。 24、書院造は現代の日本住宅のもとですか。 25、相撲はいつスポーツとして発展してきましたか。 26、現在、日本での主な宗教にはどんな宗教がありますか。 27、日本の国公立の学校では宗教教育を行いますか。                            第一節 日本の祭り 日本ほど祭りの多い国も珍しい。各地に根付いた伝統的な祭りから、近年、民間で始められた「温泉祭り」まで、多彩な祭りがあって、毎日、日本のどこかで祭りが行われていると言っても言いすぎではない。 もともと日本の祭りは農耕儀礼に由来する農村の春の豊作祈願祭や秋の収穫祭が中心で、その後これに、悪霊、疫病を払うための都市の夏祭が加わった。いずれも神々をもてなして、祭り担い手である。その土地の居住者の繁栄と結束を願うものだったが、江戸時代以降、次第に形骸化し、祭りは日々の暮らしに区切りをつける一種のレクリエーションとなった。数ある祭りの中には有名なものがいくつかある。 青森・ねぶた祭り: 8月1日の夜から7日にかけて行われる青森の夏の風物詩。木や竹の骨組みに紙を張り、これに『三国志』の英雄などの勇壮な絵を書いて作った、縦横数メートルの灯籠が何台も町々を練り歩き、最後にその灯籠を海に渡して祭りは終わる。「ねぶた流し」と言って、眠気を払って、先祖の霊を慰める盆を迎えるための祭りである。 東京・三社祭り: 江戸の町に夏の到来を告げる浅草神社の例祭。5月17,18日に町内から数十体のみこしが繰り出し、びんざさらと呼ばれる古い楽器を鳴らしてにぎやかに踊る「びんざさら舞」という珍しい舞が奉納され、下町情緒あふれる庶民の祭りである。 京都・祇園祭り: 京都には「葵祭り」など、古都奈良ではのみやびやかな祭りが多いが、最も豪華なのが、7月1日から1ヶ月間も行われる「祇園祭」である。中でも15,16日の宵山は圧巻で、散在する鉾から祇園ばやしの鉦の音が流れ、鉾町一帯は不夜城となる。 福岡・博多どんたく: 5月3,4日に行われる民間の港祭り。しゃもじを叩きながら歌う博多松ばやしや、仮装行列で、全市が一大歓楽境と化す。 札幌の雪祭り:2月第1金曜日~日曜日に行われ、動物・神話・伝説・人気漫画のキャラクター・有名な建物などを題材にした大小さまざまな雪像が建ち並ぶ雪の祭典である。札幌の大通り公園で行われる。 東京の山王祭り:6月15日に行われる日枝神社の祭礼で、神田祭とともに江戸の二大祭りとされた。しかし、次第に豪華になり、氏子の負担がますます大きくなった。このため氏子の負担を軽減するために、1615年以来、双方が隔年に行われるようになった。山車行列は一般市民の入ることのできなかった江戸城内まで入ることができた。現在もこの伝統によって隔年に行われる。 大阪の天神祭り:7月25日に行われる天満宮の祭礼で、神輿が堂島川を下る神幸式が中心である。お迎え人形船・ドンドコ船・かがり船・はやし船などが川いっぱいに豪華な船祭りを繰り広げる。 仙台の七夕祭り:8月6日~8月8日に行われる七夕の伝説にちなんでの祭りで、全国で行われるが、とくに仙台のものが有名である。各戸に種々意匠をこらした短冊や吹流しを飾り付けた竹を立てて優美を競うが、ことに商店街では、軒並に趣向をこらした豪華な飾り付けをして、雰囲気を盛り上げる。 徳島の阿波踊り:8月15日~8月18日に行われる。16世紀末に、時の大名がこの地方に入城したのを祝って、住民が踊ったのがはじまりといわれる。三味線・太鼓・笛などの伴奏につれて、老若男女を問わず浴衣がけで踊る。踊りは単純活発で、手拍子・足どりも面白く、全市をあげて夜を明かして踊り抜く。 京都の時代祭り:平安神宮の祭礼で、10月22日に行われる。京都に都がおかれていた1000余年にわたる風俗・習慣などを、時代別にかたどった行列が繰り広げられ、日本歴史の絵巻物を目のあたりに見るような美しさである。 秩父の夜祭り:12月3日に行われる秩父神社の祭礼で、夜祭りとして有名である。神輿に続いて、ぼんぼりを無数にともした屋台と山車が行進する。激しいリズムを持つ祭囃子は、秩父屋台囃子として知られている。 こうした日本の代表的な祭りには観光をかねた見物客が全国から集まり、数百万人の人出となる。 第二節 主な年中行事 元日: 新年の門出を祝う日である。元日から1月3日までの3日間を「お正月」といって完全に仕事を休む。「正月」とは本来「1月」のことであるが、慣習的にこの3日間を指すようになっている。神社に参詣したり、知人宅を訪問して新年の挨拶を交わし、酒を飲み、正月独特の料理(おせち料理)を食べたりして楽しむ。正月には、門には注連縄を張り、門松をたてる。 注連縄は、神様の神聖な領域を表し、周囲に張り巡らす縄で、不浄なものを締め出す印として古くから用いられてきた。神棚がある家では、注連縄を新しいものに取り替える。太い注連縄のことを大根じめ、細いものをごぼうじめというが、どれにも四手をつける。 門松は神の降臨するための樹木をたてるという意味がある。正式な門松を飾る必要はないが、そうしたい場合は植木屋さんに頼む。長さの異なる3本の竹を中心に、周りに松・竹・梅をあしらい、下部には松の薪を割って新わらで囲み、縄を結ぶ。松竹梅はおめでたいものの象徴とされているので、そういうものを取り合わせて飾る。玄関に飾るときは、向かって左に雄松(黒松)、右に雌松(赤松)がくるようにする。門松は、12月13日から30日の間に立てるのが普通である。29日は苦松といって嫌われ、31日も一夜飾りといい、歳神様を迎える誠意に欠けるというところから避けている。また、門松は正月7日の松の内まで立てておき、7日の夜にしまうというのが現在では一般的である。お正月は、去年の色々なけがれをすべて払って、清浄なもの、きれいなものにするためにあるものである。 ひな祭り: 3月3日に行われる女の子の節句で、正しくは「桃の節句」と言い、女の子の将来の幸福を願うお祭りである。昔の宮廷の風俗を模した奇麗なひな人形を桃の花と一緒に飾る。もち米の粥に麹をまぜて醸造した酒を飲んで楽しむ。 端午の節句: 5月5日の端午の節句は男の子のお祝いである。この日はまた「子供の日」として国民の祝日にもなっている。その子の立身出世のために武士の人形を飾り、邪気を払うための菖蒲を軒に差し、鯉のぼりを立て、餅を食べて楽しむ。端午の端は最初という意味があり、午は午の日のことで、つまり5月の最初の午の日のことで、5日とは決まっていなかったようである。それが中国の漢の時代以降に、午の発音が五に通じて5日になった。中国では5月が災厄の月とされ、端午の日に厄払いをする風習があり、これが日本に伝わった。日本では宮中から始まり、その後、武家社会になるにつれて男の子の節句になった。江戸時代になると、武者人形や鯉のぼりを飾り、男の子の健やかな成長と立身出世を願う日になった。 お盆: 8月15日前後、種々の食べ物を先祖の霊に供えてその冥福を祈る。都会に働きに行っているものは郷里に帰る。各地の町や村で盆踊りが行われ、浴衣姿で多くの人が参加するが、これは日本の夏の風物詩の一つである。お盆は、年中行事の中で正月に次いで重要な行事であり、正式には盂蘭盆会という。 七五三: 男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳にあたる年の11月15日に、子供の成長を祝い、晴着を着せて神社に詣る。 第三節 贈答 日本人は贈り物が好きな国民だとよく言われる。結婚祝や誕生祝といった他の国にもある贈り物はもちろん、ちょっとした訪問にも土産を持参して、敬意や好意を表すというのが日本的な習慣になっている。日本では取材の際に若干の金品を贈ることは珍しくない。 様々な贈り物の中でも極めて日本的なものが、中元・歳暮である。中元は暑中見舞いを兼ねて6,7月頃に、歳暮は一年の感謝を込めて年末に、ともに、日ごろ世話になっている人たちに贈る季節の贈答で、個人同士でも企業間でも、盛んに行われている。 その中で、上元(1月15日)、中元(7月15日)、下元(10月15日)の三日を節日として祝った中国に倣って、日本でも7月15日に中元の祝儀を江戸幕府や武家が行っていた。明治時代になっても一部の階層の間で「中元の祝儀」と称して親族などへの贈り物が行われ、庶民の間でも品物を贈進していた。本来は贈答品を持って、先方へ直接届けるのが礼儀だが、今日では百貨店による「中元の贈答」の進物が配達されるようになり、お中元用品には、調味料、麺類、ゼリーなどの菓子類、商品券など多種多様である。贈進とは違う贈答という用語が普及してその習慣が常識化し、ついには中元=贈答、歳暮=贈答という観念が定着した。ちなみに歳暮とは、年の暮れを意味する言葉だが、年末の贈答品を指すようになった。 そのほか、子供の七五三場合、お祝いは親戚の間ですませることが多く、1万円が相場である。入学と進学のお祝いは両親、祖父母の場合は、そのほかの親族に比べると高くなる。ランドセルは平均2万5000円、学習机は5万円ほどかかるが、これは勉強に役立つ品物を贈ることが多い。普通の親族の場合は5000円から1万円まで、大学入学祝いの場合、1万円から2万円が相場である。進学の祝いは割合少ない。成人祝いは両親が子供にスーツを贈ることが多く、親戚の場合は、男性にはネクタイや財布などの小物類、女性にはアクセサリーやバッグ、あるいは化粧品を贈るのも良い。お返しは、働いていないなら収入がないということで不要だが、お礼の気持ちを伝えることが必要で、礼状に添えて晴れ着姿の写真を送るのも方法の一つである。会社関係者の転勤、留学などの場合、お餞別は同じ職場の人であれば5000円から1万円が普通である。そのほか新築祝い、病気の治癒を祝う快気祝いなど、実に多様な贈り物があり、家計を預かる主婦にとって、交際費捻出は頭の痛い問題になっている。 第四節 日本料理 日本料理は日本列島で生まれ発達した日本独特の料理である。日本料理には家庭での日常の食事だけでなく、伝統的な行事食や宴席料理などがあり、依然として現代の日本人の生活の中に生きている。諸外国では寿司、天ぷら、すき焼きなどが代表的な日本料理として知られているが、日本料理の特徴という点から言えば、伝統的な行事食や宴席料理の方がその色が濃い。 昔から、日本料理を「五味五色五法の料理」と言って、その特徴を表現する。「五味」とは、甘・酸・辛・苦・鹹のことを、「五色」とは、白・黄・赤・青・黒のことを、「五法」とは生・煮る・焼く・揚げる・蒸すという料理法を指す。つまり日本料理とはこれくらいデリケートな料理だということである。素材の持ち味を生かしながら、味・香り・色を大事にし、春夏秋冬の季節感をも重視する。材料の旬にも気を配る。さらに、料理を盛り付ける器も、料理によってあるいは季節によって、色・形・材質について配慮するのである。伝統的な日本料理に次のようなものがある。 本膳料理: 室町時代に武家の礼法とともに定められたもてなしの形式が基になった料理。現在では、冠婚葬祭などの儀礼的な料理としてわずかに残っているだけであるが、ほかの伝統的な日本料理の形式や作法上の基本になっている。 茶懐石: 茶の湯で茶を出す前に供する簡単な料理。懐石とは、温めた石を懐に抱いて腹を温めるのと同じくらいに、空腹をしのぐという意味である。懐石料理とも言う。 会席料理: 本膳料理よりもずっと形式ばらず、くつろいだ形の宴会料理。実は日本のパーティー料理である。現在の日本料理店で供する宴席料理の多くがこれである。 精進料理: 魚介類や肉類を用いずに、大豆加工品や野菜、海草などの植物性食品だけを使った料理。これには、仏教の禅宗にわたる精進料理と、黄檗山万福寺に伝わる普茶料理がある。 おせち料理: 正月の祝い料理で、五段重ねの漆塗りの重箱に各種の料理を詰めて出すもの。昔は、特別な行事の日に神に供える料理のことを言っていた。 また、代表的な日本料理といっても、そば(元禄期)、すし・天ぷら・かばやき(文化文政期)、とんかつ・すきやき(明治)などで、外国料理の影響を受けたり、砂糖や醤油、みりんなどの調味料が豊富になってからできたものである。 なお、すしについては、中国の鮓(サ)つまり魚や肉を塩で漬けて発酵させたものが日本に渡ったのはかなり早いようで、奈良時代には記録が見られる。このなれずしから、押しずし、そして握りへと変化する。握りが主流となるのは、冷蔵庫の普及と無縁ではなく、昭和になってからのもの。今でも東京の古いのれんの寿司屋では、刺身をそのまま飯にのせるのではなく、酢でしめたり、醤油に漬けたり、煮たり焼いたりした物がネタの主流である。 日本人が米をよく食べるようになったのは、たかだか200年ぐらい前で、完全に米食となったのは戦後のことである。米そのものが貴重品であったことを忘れてはなるまい。また一日三食となるのは室町時代からである。現在、日常の食事は大体飯と味噌汁、かず、漬物である。 そのほかに、日本人が祝い事の時食べる料理に、赤飯と鯛の尾頭付がある。赤飯はもち米に小豆を入れて蒸したもので、小豆の色が米について赤くなる。赤は火の色、太陽の色を表し、昔から縁起の良い色とされている。鯛は日本語でめでたいという言葉と語呂があい、色も赤く縁起の良い魚とされる。祝の席には、頭から尻尾まで完全な形のまま焼かれた鯛が出され、人を祝福するという意味がある。   第五節 着物 現在の着物は、江戸時代に正装になったもので、これは平安時代の貴族の正装の下着が次第に変化して、今日の形に発展してきたものだといわれている。現在日本人は、日常ほとんど洋服を着て生活しているが、和服は正装として、あるいは室内着として現在でも愛好されている。 女性の着る和服は、着物として外国でもよく知られた美しい衣装である。このうち、一番豪華なものは、花嫁が着る打掛である。これは絹の布地に金銀の箔を織り込んだ金糸・銀糸で刺繍を施し、多くは花鳥の図案模様を描いたものが用いられる。 このほか、未婚の女性と既婚の女性では着物の模様・色合いや袖の長さなどが異なり、正式の訪問か遊楽のためかなど外出の目的によっても、布地・模様・色合い・仕立方などが異なる。一般の女性が着物を着るのは、正月・成人式・大学卒業パーティー・結婚式・披露宴・葬儀などである。 着物は体形との相関関係がルーズであって、着付けによって体に合わせるため着方が難しい。日常洋服で生活している若い女性の大部分は自分一人で着物を着ることができない。着物の持つ奥床しさ、落ち着きの美しさは染織の美しさによるということ以上に、着物を着ることによってかもし出される雰囲気によるといわれる。 男性が着物を着るのは、現代では主としてくつろぎのための室内用に限られるが、正月などに自宅において客をもてなす時などには、和服を着ることは珍しくない。和服の正装では羽織・袴をつける。 最も軽便な室内着として、木綿地の浴衣がある。これは特に夏期には、入浴後に着て室内の風通しの良いところで涼をとりくつろぐのには、最適の着物である。 第六節 婚儀 婚約とは世間に公表することで、当人の二人が結婚しようとただ誓い合ったとしても、それは婚約とは言わない。他人同士だった二人が、新しい一つの家庭を持つのであるから、結婚の約束の公表は社会への義務であり、同時に権利である。また婚約とは、慣習法的に保証された正式のルールでもある。仲人の媒酌があって結婚が決まり、結納が渡され、その受領書が渡された場合は仲人を通じて、また結納品を飾ることによって、婚約は公表され成立する。 見合いの場合はもちろんのこと、恋愛結婚などの場合でも結納や結婚式の披露宴を行う時には「お仲人さんの世話になる」という昔からの形式をとることが多い。日本のしきたりで言えば、昔は見合い結婚がほとんどだったので、二人が交際する前から仲人が誰であるかは、あらかじめ、はっきりしているのが当たり前のことだった。しかし現在では、大抵の場合、挙式が近くなってから仲人を依頼するようである。その際のマナーでは、以下のことが大切である。①必ず二人揃って依頼に行く。②挙式の日だけではなく、その間の主要な打ち合わせにも、先方の都合が悪くない限り、仲人の同席を頼む。 男性の方から女性の家に結納を渡すのが昔からの日本の慣習である。結納とは、男性方から女性方に渡すものであって、女性方はその受領のしるしを使者に渡したにすぎず、現在、「結納品の交換」といっていることは、結納本来の意味からいうと間違い、時代や階層によって結納の品目などは変わって少なくなったが、帯一筋だけは必ず入っていた。やがて帯の実物を贈る代わりに帯代と名付けて金銭を包む風習も起こり、現在は形だけの目録と帯代だけを差し出している。女性方からはその半分の金額を袴料として返す場合もあるが、最近では記念品を贈るケースが増えている。 結婚しようと二人が誓い合ってから、それぞれが両親に打ち明け、父親が認めて許せば二人は世間に公認された許婚となる。その時、夫となる男性は妻となる女性に誓いの証として、指輪一個を贈る。女性はこの指輪を右手の薬指にはめる。結婚式の直前に新婦はこの指輪をはずし、結婚式の直後からこの指輪を左手の薬指に移す。指輪をはめることによって愛の誓いを象徴する、と古くから信じられていた。これはイギリス・ヨーロッパから伝来した習慣である。 日本の結婚には男が女の家庭に行く婿入りと、女が男の家庭に行く嫁入りの二つの形態があるが、大多数は嫁入りである。婿入りした場合は男は女の家の籍に入り、女の家の姓を名乗り、嫁入りすると女は男の方の籍に入り、男の姓に改姓する。 1990年以降、日本では85%が恋愛結婚で、このほかに見合結婚がある。現在、平均結婚年齢は男が28.5歳、女は26.2歳(1994年)である。 昔は結婚式を自宅でするのが普通であったが、しかし現在は専門の結婚式場やホテルを利用する人が多くなってきた。その上、秋に式を挙げる人が多く、大安の日を選ぶ人が多いので、        結婚図 結婚式場が込み合う。結婚式には神前結婚式、教会結婚式、仏前結婚式などがあるが、一番多いのは神前結婚式である。 神前結婚式には新郎・新婦、媒酌人、家族、親類が出席する。神主が神に向かって祝詞を読み上げた後、新郎が神に結婚を誓う。それから新郎・新婦の間で「三三九度の盃」をする。みこが運んでくる三つの盃のうち、まず小さい盃を男・女・男の順に取り交し、次の中位の盃は女・男・女の順に、一番大きい盃は男・女・男の順に取り交してみこのつぐお神酒を飲む。これで二人は夫婦になったわけである。この後親族全員が盃を上げて両家が親戚になったことのしるしとする。 結婚式が終ると披露宴に移る。披露宴は日本式の宴会にする場合もあれば、洋式にする場合もある。専門の結婚式場には宴会場があるし、ホテルには結婚式場があるのでこういうことができる。披露宴の出席者は50―70人くらいが普通で、披露宴は媒酌人の挨拶から始まり、主賓の祝辞、乾杯があってからウェディング・ケーキに刀を入れて食事になるが、その間、友人などのテーブル・スピーチがある。その途中で新婦が退席して衣装を替えて出てくる。これを「お色直し」と言う。最後に親族の代表が招待客にお礼の言葉を述べて結婚式は「お開き」になる。客は「引き出物」をもらって帰り、新郎新婦は西洋式に新婚旅行に行くのが普通になっている。 第七節 葬式 人が死ぬと葬送の儀礼を行うが、それが葬式である。日本には国教といえるような特定の宗教がないので、故人の宗教やその遺志などによって、葬儀・告別式の方法も色々ある。しかし、現在、大多数は仏式で行われる。 葬儀の前夜、近親者が集まって一夜を明かすのを「お通夜」と言うが、最近は人が死んだ夜に通夜をすることが多くなった。人が死ぬとその家では玄関にすだれを裏にしてかけ、「忌中」の札をはる。通夜で死者を葬る前に家族・親戚・友人が夜通し棺の前で守る。祭壇は葬儀社に頼んで飾り付け、僧侶を呼んで読経してもらい、死者の死後の名前である戒名を付けてもらう。その後、参列者が焼香し、軽い酒食をとりながら故人を偲ぶのがしきたりになっている。昔は遺体を寝かせたまま通夜を行い、その後に納棺したが、最近は衛生的配慮から、通夜の前に納棺を行うようになった。 葬儀とは、死者に会葬者が最後の別れを告げる告別式は引き続き行われるのが普通だが、場合によっては遺族や近親者だけで葬儀を行い、一般会葬者は告別式にだけ参列するとか、公葬にするためにすぐ葬儀が行えないような時には、死後2,3日以内に、取りあえず近親者だけで密葬を行い、後日、正式の葬儀、告別式を行うこともある。キリスト教の献花の変わりに、仏式では祭壇で合掌し、焼香して死者に別れを告げる。告別式の後、火葬場に行き火葬、骨上げを済ませ、遺骨とともに帰宅して翌日、埋葬(納骨)をする。墓地が正式に決まらない場合や、遠くてすぐ行けないような場合には、寺院の納骨堂にいったん遺骨を預け、後日、埋葬することもある。 墓は普通寺院に付属してその境内に作られる。寺院から墓地として一区画を買い、その土地に墓石を立てる。そしてそこが死者の一家の共同の墓地になるわけである。しかし今は土地が高く、墓の一区画を買うにも相当の金がかかるため、経済的に困難な者やその土地の者でない時、寺の共同墓地にあたる納骨堂に骨を納め、命日には納骨堂にお参りする。 仏式では、故人の死後、冥福を祈って読経する法要という行事がある。死後7日目の初七日、同様に四十九日、百か日。命日に行う一周忌、三回忌、七回忌などの年忌法要もある。盆や、春秋の彼岸にも墓参りをして、死者を偲び、供養する。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 日本の祭りの由来について説明してみよう。 東京の三社祭りはどういうことですか。 札幌の雪祭りはいつからいつまでですか。 お正月には、門に注連縄を張り、門松を立てるのはどういう意味ですか。 端午の節句は男の子のお祝いである同時に、どんな祝日ですか。 日本人は贈り物が好きな国民ですか、中元と歳暮はどういうことですか。 伝統的な日本料理にはどんなものがありますか。 代表的な日本料理にはどんなものを指しますか。 日本人が日常の食事は大体何を食べますか。 10、日本人が祝いことのとき、何を食べますか。 11、現在、女性がどんな場合、着物を着ますか。 12、着物は正装としてはいつのことでしたか。 13、日本の結婚式には一番多いのはどんな式ですか。 14、日本の女性は結婚すると、男の姓に改姓しますか。 第一節 国民性と自然観 日本人の国民性の特徴として多くの人が指摘しているもののうち、共通性のあるものをいくつかとり上げられる。 日本人が何人か集まると、例えば、年齢とか社会的地位など何らかの基準によりお互いの序列が意識され、それにより行動様式も影響を受ける。また日本語は敬語が非常に発達しているが、これらは日本人が上下関係を重視することによるものである。 欧米人は自分の意思や意見を直接相手にぶつけて強く自己主張するのに対し、日本人は相手の気持ちや立場を察して、それも考慮に入れて発言したり行動したりする傾向が強い。さらに、日本人にはイエス・ノーをはっきり表明しない傾向がある。日本人がこのような行動をとり、また相手にもそれを期待するのは、日本人の同質性、無用の摩擦を避けようとする古くからの伝統などに基づくものである。 日本人は人間と自然との調和を尊重する。建築や庭園の様式でも、日本では自然をそのまま生かして素材としていこうと努める。 日本人にとって、自然はあくまで恵みを与えるもの、親しむべきものであり、決して人間と対立する厳しく、むごいものではない。自然は生育をもたらし、実りをもたらすものであることによる。父祖代々がその自然とともに生き、やがて自然に帰っていき、自分自身もまたその道をたどる。それゆえ自然と自分を一体化し、自然の心をわが心として生きる感情が日本人の哲学・思想・宗教などすべての精神活動の根本に流れている。このような自然への親しみ、自然と我との一体化は、さらに自然を楽しみ、現世を謳歌する現実肯定の考え方を生み出していく。 春夏秋冬の四季の微妙な変化から様々な芸術や生活習慣が生まれている。文学において自然はいつも重要なテーマであり、特に和歌や俳句が花鳥風月を詠い、俳句に季語を詠み込むのも、その小世界に自然を取り入れようとする姿勢の表われである。茶道や庭園、華道などにおいて、人工の極致として、ありのままの飾らない自然を再現するようになった。つまり、自然と一体となって、ありのままの力を発揮することであるとしている。 言語行動 日本人は会話中に相槌やうなずきを頻繁する習慣があると言われている。「はい」とか「そうですね」とかの言葉によるものも、頭や上体を前に倒す身振りだけのものも含めて、ある調査によれば日常会話の場合には数秒に一回の割合で観察されるほどである。しかし、すべてが「そのとおりだ」「了解した」という肯定の意味で行われているわけではなく、単に「ああ、そうですか」「そういうこともあるのですか」と相手の話を聞いているサインとして発しているだけの場合が多いことに注意すべきである。 こうした日本人と接して欧米人が「彼は確かにあの時肯定した」と受け取ったとすれば、当の日本人によっては予想外のことである。逆に、こうした相槌やうなずきに慣れた日本人は、会話中に相手の話に何の反応もしてこない欧米人に不安感――この人は私の話を聞いてくれるのか、を感じることになる。 日本人は自分の意見を確固として持っていても、「私はこう考える」「私の意見はこうだ」という直接的な表現は避け、「こうなるのではないでしょうか」などといった婉曲な言い回しをする方が適当で丁寧だと考える傾向が強い。相手に考慮や判断の余地を残してあることを言語表現のうえでもはっきりと言い、相手から返ってくる反応を取り込んで自分の主張を表現していこうとする姿勢の表れである。ともすれば、自分の意見をはっきりと言わない、主体性に欠けた言語行動と評価されることがあるが、むしろ相手との共同作業で会話を進めていこうとする態度の表れであり、相槌を頻繁にするということと共通している。 日本人は挨拶をよくすると言われる。確かに朝起きてから夜寝るまで、日常生活の様々な場面で決まって用いられる定型的な挨拶言葉も豊富である。   第三節 勤労意識と娯楽観 日本人は非常によく働くという評価は、日本の経済発展とともに今では国際的にも定着している。 日本人にとって働くということは、必ずしも利益を求めることが第一義的な目的ではなく、働くという行為そのものに価値を見出しているという説がある。評論家の山本七平によれば、日本人の勤労というのは、すなわち仏教で言う成仏するための修行であり、経済的利益は宗教的に動機づけられた。つまり、私欲のない労働の結果とされる。このような結果として得られる利潤は是認されると考えているというのである。現在の企業活動においても、この勤労に対する精神は生き続けており、それが、日本人が非常によく働くことの解答でもある。したがって、経済報酬は労働時間に対する対価であるという欧米的な勤労意識とは、その精神においてだいぶ異なることになる。この違いが、一方では契約社会に基づく企業経営を創り出し、一方では独特のいわゆる日本的経営を生み出したと言う。 しかし、最近は仕事に対する考え方もだいぶ変化している。基本的に労働に対する価値を依然認めてはいるものの、意欲の点になるとかなり減少してきている。その背景としては、一つに労働の目的の喪失がある。低成長時代になり、いくら働いたからといって収入は増えない。また一方、経済的に一応豊かになるとともに、価値観の多様化が進み、特に若い世代に働くこと以外の価値を認める傾向が強くなりつつある。そしてロボット化などが進むにつれ、熟練技術が単純労働に取って代わられたり、労働時間の短縮、余暇の増大などにより、従来の勤労そのものの条件も変わってくる。このことは、次第に労働観の変化をもたらし、勤労意欲というのも変わると思われる。少なくとも、今までのような企業中心的勤労意欲というのは確実に減退していくであろう。 第二次世界大戦後、日本の生活文化はアメリカ化、農村から都市への移住し、テレビの発達などが、伝統的な娯楽を衰退させた。仕事が終わってからテレビを見るとか、酒を一杯飲むとか、同僚とマージャンをするなど、手軽で内容の乏しいものが一般的となった。中でも、日本独特の大衆娯楽パチンコはいつでも一人で遊べて、運がよければ景品稼ぎもでき、最も人気のある暇つぶし法である。 近年のバブル崩壊後は自然志向のレジャーにも人気が集まるようになったが、一方では国内旅行よりも格安の海外旅行には依然として人気が集まっているなど、娯楽は一層多様化してきている。近年老若を問わず、圧倒的に人気があるのがカラオケである。 第四節 集団主義 日本人と欧米人との一番顕著な違いを、日本人の集団重視に見ている。 確かに日本人の集団主義の意識が強く、第二次世界大戦における玉砕や集団自決の悲劇、一億一心のスローガンが沢山あった。また今日、企業経営、サラリーマン社会などにおける集団の和の重視、果ては学校の生徒の制服に至るまで、広く深く根を張っている。「出る杭は打たれる」という諺は日本人の処世術を端的に表しているし、集団に異を唱えたり、背を向けた者には「村八分」という処罰があった。日本の社会は個我の主張より、集団あっての個、個は集団にあって生かされると了解してきたと言える。 集団主義の成立は日本の歴史的背景と無縁ではない。弥生時代に始まる稲作文化の影響があり、農村では今日も田植えや稲刈り期には近隣同士が助け合い、共同作業を行う習慣が一部に残っている。狩猟文化と異なり、そこでは集団作業と共同秩序とが必要であり、生活共同体なのである。儒教思想の影響も無視できない。 狭い国土に多くの人口ということも有力な一因だろう。朝晩の通勤電車の殺人的なラッシュは外国人のしばしば瞠目するところだが、当の日本人は甘受せざるを得ないし、そこから集団の調和という社会生活の知恵を身に付けるのである。 しかし、最近は日本ではこれとは逆に個性化、多様化への志向が年々強まっており、集団主義を日本人の永久不変の特性とする見方が見直される時代も来るかもしれない。 第五節 ビジネスマンの付き合い 日本の企業は集団主義と言われるように、人間関係の和を重要視する。そのために、企業内ではフォーマル及びインフォーマルな様々な催し物が行われる。 一般に人生の大半を一つの会社で過ごすために、おのずと付き合いは会社中心となり、こうした人間関係を円滑にすることはビジネスマンにとって重要な条件でもある。 多くの会社では、定期的に組織全体、あるいは各セクションごとの行事が行われる。それは従業員の家族も参加する運動会であったり、社員旅行、転勤者に対する送別会、あるいは歓迎会、年末の忘年会などさまざまである。 このような行事は日本の会社の家族主義的慣習で、人間関係を緊密にするとともに、組織は運命共同体であるという意識を持たせ、組織の活性化を図るという効果もある。会社内には様々な同好会がある。スポーツから文学、将棋といった趣味の分野に至るまであり、社内の厚生施設を利用し、活動している。こうした活動では労使の区別はなく、経営幹部も一般社員と一緒になって楽しむのが普通である。 日常的な付き合いで最もよく利用されるのが、赤提灯と言われる大衆酒場である。就業時間が終わると同僚、もしくは上司たちと連れ立ち飲みながら雑談するわけだが、インフォーマルな席として日ごろの不満などを言い合うなど、一種のストレス解消の場ともなっている。赤提灯とともにマージャンも終業後の楽しみの一つで、マージャン屋はいつもビジネスマンでいっぱいである。そのほか、ビジネスマンの付き合いで、欠かせないのがゴルフである。商取引において、日本では普段の付き合いが重要とされ、しばしば接待と称して酒席に招待するが、この酒席とともに多いのがゴルフ接待である。そのためビジネスマンはこぞってゴルフを始める。したがってゴルフは必ずしも純粋に個人的趣味ではなく、仕事上の利益をも伴っている場合が多いのである。 現代の家族 家族とは、日本人にとって最も身近な社会集団であり、その中で日常的な生活が営まれている。人間は一生を通じて二つの異なった家族に出会うと言われる。一つは、子供としての立場の家族(定位家族)であり、もう一つは結婚し親として子供を産み育てる立場の家族(生殖家族)である。生まれてはじめて加わる集団である定位家族は、自分で選ぶことができない運命的なものである。人々はそこで、基本的な生活習慣を身につけ、自律性や社会性を培う。乳幼児期の生活が人格形成にいかに大きな影響を及ぼす。一方、大人になって形成する生殖家族は、選択的な意志に基づいている。配偶者を選ぶことを通して自分以外の人間を受け入れ、成長していく。結婚は単なる男女の結びつきではなく、重要な自己形成・家族形成の契機でもある。 家族は憩や安らぎを与えてくれる場であるとともに、文化を次の世代に伝えていく場でもある。人たちは親子の信頼関係のもとに育まれ、結婚して家族をつくり、子供を産み育てる。生涯にわたるこうした営みに、人間形成の歩みを見ることもできる。 戦後から今日までの間に、日本の家族のあり方は大きく変化した。1947年に公布された新民法は、それまでの「家」制度を中心とする規定から、夫婦の法的平等を基調とするものに改められた。こうして、家長が家族を統率し、原則的に長男が家督を相続する直系家族の形態が崩れ、夫婦を中心とする夫婦家族制度が受け入れられていった。 とくに高度経済成長期以降には産業構造の変化や都市化の進行、人々の意識の変化などが絡み合い、核家族が増加した。現代日本では、核家族が全家庭のおよそ60%を占めている。核家族化とともに小家族化が進行し、とくに近年では、高齢者や独身のまま過ごす人など単独世帯が増えている。また、核家族の形態であっても、単身赴任などのため一時的に別居する夫婦、結婚しても子供をもたない夫婦など、多様なあり方が見られるようになった。 こうした家族形態の変化は、家庭内の人間関係にも影響を及ぼしている。少子社会と言われるように、子供の数が減った今日では、母親の出産と育児にかかる時間が短くなった。また、電化製品の普及や業者によるサービスなどによって、家事に要する時間も短縮された。その結果、少数の子供に多くの時間と金をかける傾向が強まり、親の過保護や過干渉など、新たに躾や教育に関する問題が出てきている。家族形態の変化にともない、家族の機能や役割も変化する。今日、家族のあり方は多様に変化しており、それだけに家族の役割が問われる時代になってきたと言える。 かつて子供たちは家族や近所との触れ合いの中で、小さな子供の面倒を見ることや、高齢者や他人を思いやることなどを学んでいった。学歴社会と言われる今日では、このような機会に恵まれることが少なく、勉強や習いごとに忙しい日を送る子供が多い。家族の会話や触れ合いが減り、家族や地域の人間関係も希薄になっている。家族の変化にともない、人々の生活様式や行動も変わろうとしている。現代に生きる人々は、身近な自分の家族や生活を見つめ、自分らしく主体的に生きるとはどういうことか、考えてみることが大切である。 家計 日本で家計または家事経済に対する教育が行われているのは、家庭科である。家計の管理は、主として主婦の仕事であり、このことは日本人の性別役割分業意識「男は外、女は家庭」に由来するところが大きい。こうした各家庭の家計簿を基にして1995年の家計調査によると、勤労者世帯1ヶ月の平均実収入は57万817円、消費支出は34万9663円となっている。しかし1997年の調査の中で、一般世帯の年収の平均が745万円であった。 かつては生活費の中で食料費の占める割合であるエンゲル係数か、衣食住などの基礎的支出の割合が消費生活を推し測るものさしだったが、飽食の時代にある現在の日本では、このものさしは通用しなくなってきている。現在、衣食住などの基本的支出は減少し、逆にその分増えているのが教養娯楽・教育・交際費などの選択的支出である。 選択的支出の中で、1997年、家賃地代は月に1万3249円を払っている。住宅ローン返済額月平均は9万6670円であった。高学歴社会を反映して、教育費のウエートが年々拡大しているのが最近の日本の家計の大きな特徴である。これはあくまで平均の数字で、教育熱心な都市部や、大きい子供がいる世帯では、それだけ教育費支出の占める割合は高くなる。文部省の調査によると、東京都では1996年の1年間の大学生の生活費は、平均194万円で、うち学費は106万4600円、私立の中学校1年生で年間140万円、私立の高校1年生では137万円の教育費がかかっている。教育費を捻出するため、金融機関の教育ローンを利用している家庭も多い。 日本人が貯蓄熱心な国民であることはよく知られている。貯蓄の四大目的はすなわち病気や怪我や不時の災害に備える、子供の教育や結婚資金にあてる、老後の生活資金を用意する、土地・家屋の購入や新増改築のための資金造りである。総務庁統計局の1996年貯蓄動向調査によると、勤労者世帯の平均貯蓄残高は1279万円で、勤労者の貯蓄額は1261万円であり、欧米先進諸国と比べて極めて高いほうである。日本人が貯蓄に熱心なのは豊かさの現われというより、老人福祉がまだ充分でないことへの不安や、なかなかマイホームを持てない住宅事情のためと言えよう。 第八節 日本人の一生 現在、日本人は、男は28.5歳、女は26.2歳で結婚し、結婚して2,3年の間に子供を1人か2人つくり、子供が成長して結婚するのが男女とも50代後半。60歳か65歳ぐらいで夫は仕事を辞め、その後は夫婦だけの老後を送るというのが、現代の日本人のおおまかなライフスタイルである。 1950年代後半以降の高度経済成長時代には、仕事に打ち込むためにはある程度、家庭を犠牲にしてもかまわないと考える「モーレツ型」がサラリーマンの主流だったが、現在では個人生活を大切にしたい、自分の趣味に合った暮らし方をしたいとする「マイホーム型」が多数を占めている。 その家庭での中心は、やはり子供である。6,7歳で子供が小学校に入学すると、今度は教育が親の最大の関心事になる。日本の教育は小学校から中学校まで(9年間)義務教育である。その上の高校への進学率は97%、大学へも2人に1人の割合で進学している。こういう高学歴社会を反映して、多くの親は子供を少しでも良い学校へ入れようと、小学生のころから塾通いをさせる。高校・大学の受験に失敗すると1,2年は予備校にも通わせる。教育費捻出は親にとっては頭の痛い問題である。 子供が20歳になって成人式を終ると、一応、親の責任を果たしたことになるが、大学生は授業料も生活費も親がかり。結婚式の費用まで親に頼っている若者が少なくない現状だから、親が子供から開放されるのは、就職・結婚を経て子供も自分の家庭を持った時ということになろう。気がついてみると、夫はもう定年が目の前。子供たちは自分の生活をエンジョイするばかりで、あまり親のことを顧みない。そのうち定年がやってくる。どこかで寂しさを感じながらも、ようやく夫婦二人して、趣味に生きたり、旅行を楽しんだりして余生を生きるというのが、日本人の一生の理想の姿である。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 日本人の国民性の特徴について、述べなさい。 日本人の自然観について説明しなさい。 言語行動では日本人と欧米人とはどう違いますか。 日本人の勤労意識についてどう思いますか。 日本人の集団主義についてどう思いますか。 ビジネスマンの付き合いについて説明しなさい。 戦後、日本の家族はどう変わりましたか。 日本人の貯蓄の目的は何ですか。 家計は何に一番お金を使いますか。 10、現代の日本人のおおまかなライフスタイルは何ですか。
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