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日本国家概况(第二篇_日本的社会)

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日本国家概况(第二篇_日本的社会)第二編  日本の社会 第一章  日本の政治 第一節 天皇の憲法上の地位 日本が国家として誕生して以来、国家の「象徴」としての地位を維持し続けてきたのは天皇である。しかし、天皇が直接国家を統治したのは古代を除いてほとんどなく、現実の政治を行っていたのは、貴族であり、武家を中心とした幕府であった。近代になって、いわゆる「明治憲法」が施行され、天皇が憲法上の統治者となったが、政治制度は「議院内閣制」が採られ、政治の責任は政府が担っていた。しかし、戦前の天皇は神格化され、日本国という大家族の家長のように扱われていた。敗戦処理にあっ...
日本国家概况(第二篇_日本的社会)
第二編  日本の社会 第一章  日本の政治 第一節 天皇の憲法上の地位 日本が国家として誕生して以来、国家の「象徴」としての地位を維持し続けてきたのは天皇である。しかし、天皇が直接国家を統治したのは古代を除いてほとんどなく、現実の政治を行っていたのは、貴族であり、武家を中心とした幕府であった。近代になって、いわゆる「明治憲法」が施行され、天皇が憲法上の統治者となったが、政治は「議院内閣制」が採られ、政治の責任は政府が担っていた。しかし、戦前の天皇は神格化され、日本国という大家族の家長のように扱われていた。敗戦処理にあって、欧米諸国は日本の天皇制をどうするか大問題だったということである。「天皇制を廃止すれば、日本は混乱しアメリカの占領は失敗する」という米国政府の判断から天皇制が維持された。天皇自ら「人間宣言」をして、その神格化を否定した。結局、天皇の戦争責任を追及せず、政治の一線から引退させて、名誉ある地位を保つ形に落ち着いた。 現行憲法では、天皇は日本国の象徴であり、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと定められており、憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しないとされる。そして、この国事に関する行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負うことになっている。 この国事に関する行為とは、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命すること、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命すること、また内閣の助言と承認に基づき、憲法の改正・法律・政令及び条約の公布、国会の召集、衆議院の解散、総選挙施行の公示、栄典の授与、批准書及びその他の外交文書の認証、外国の大・公使の接受を行うこと、などに限定されている。 このように、天皇は政治上の権限を有しないが、国家的な礼儀としての国事行為のみを行い、国政に関する機能は持たないというシンボルとしての存在となっており、外交礼儀上は元首として扱われる。 第二節 皇室の歴史 日本にはイギリスの王室のように皇室がある。日本の現存する最古の史書『古事記』、『日本書紀』によると、紀元前660年に初代の天皇が即位したことになっている。しかし、天皇の存在を史実に即して説明できるのは4―5世紀以降である。現在の天皇は「万世一系」の125代目の当主である。古代国家の成立以来日本を支配していた天皇家、つまり「皇室」は、政治的権力者というよりも宗教的・文化的支柱として国民の尊敬を集めていた。 7世紀に中国の法律制度を導入して、天皇は自ら政治をすることになったが、実際に政治を行う期間は短かった。長い歴史を経て種々の変遷はあるが、大政奉還(1867年)によって、天皇は再び国の統治権を行使することになった。しかし、実際は立法・行政・司法の三権分立の形をとった立憲君主制であった。第二次世界大戦後、現行憲法による天皇及び皇室の形になった。天皇が日本国民統合の中心であるとする観念を国民の間に強く根づかせたのは、古代以来の伝統と権威に加えて超然たる存在であったという史実がある。 日本では通常、天皇のご存命中はお名前を呼ぶことはしない。崩御後はおくり名をつける。例えば、124代天皇のお名前は裕仁であったが、ご在位の元号が昭和であったので、今は昭和天皇と呼んでいる。 今の天皇は125代目で、お名前は明仁で、1933年12月23日にご誕生、学習院大学の政治経済学部に学んだ。1959年に旧家としても知られている経営者の子女である正田美智子さんとご成婚をあげて、1989年1月に践祚した。 皇后のお名前は美智子で、民間(元日清製粉社長正田英三郎氏の長女)のご出身で、1934年10月20日ご誕生、聖心女子学院中、高等科を経て、聖心女子大学文学部外国語外国文学科に進学、英文学を専攻した。今皇族以外の民間からの皇后は聖武天皇の光明皇后以来のこととされる。ご趣味が幅広く、テニスのほか文学や音楽を愛好し、ピアノも弾き、英語とフランス語ができる。テニスを通しての今の天皇とのロマンスは有名である。 皇太子のお名前は徳仁で、1960年ご誕生、学習院大学及び英国オックスフォード大学に学ばれた。1993年、民間ご出身の小和田雅子さんとご成婚になった。  天皇、皇族の生活や活動の費用として皇室費があり、予算計上と国会の議決を必要とすることが皇室経済法で定められている。1998年度の総額は約67億円で、内訳は内廷費、宮廷費、皇族費に分かれる。その中で、宮廷費は、儀式、国賓・公賓などの接待、公的旅行、外国訪問など皇室の公的活動や皇室用国有財産の管理、皇居などの施設整備に必要な経費などで、2001年度は約70億円であった。 第三節 日本国憲法 日本で、憲法の制定がはじめて問題になったのは明治維新後のことである。徳川幕府による統治構造を打破したのち、日本は新しい国づくりを試みることになった。こうして国民の中から自由民権運動が起こり、欧米諸国がすでに持っていた憲法にならって、日本国でも憲法を制定して議会を開設し、人権を保障する政府形態を作るべきだ、と主張するようになった。当時の政府当局も近代国家の形を整え、欧米諸国に伍していくうえで、憲法の制定は必要だと考えた。しかし、政府にとっては、天皇を統治の中枢にすえた、中央集権的な強力国家を作ることが最重要課題であった。アメリカ合衆国やフランスのように、市民革命によって古い政治機構を一揆に倒したところで制定された憲法は、明治政府の人々にとっては余りにも民主的、自由主義的でありすぎて、日本に相応しくない。そこで、君主がなお依然として政治の中心にいて強い権力を有したままになっているプロイセンなど当時のドイツ諸邦の憲法は、日本国の憲法のモデルに選ばれた。こうして1889年(明治22)に大日本帝国憲法(明治憲法)を発布した。これは欽定憲法であり、富国強兵の天皇制国家を目指した立憲君主制の憲法であった。 その特色を見ると第1に、天皇主権であった。神聖不可侵とされた天皇は、元首で統治権の総覧者として立法、行政、司法の三権を掌握した。 第2に、近代憲法の形式にしたがって国民の権利に関する規定が定められたが、権利は天皇が「臣民」に与えたものであり、保障される多くの権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」認めるなどの法律の留保がついたものであった。また、緊急時には天皇大権によって国民の権利を停止することなどが認められた。そのため国民の権利は法律や勅令で容易に制限されることとなった。 第3に、統治機構は天皇の統治権のもとで権利分立制の形式が採用された。しかし、帝国議会は制限選挙ではあったものの民選の衆議院と、皇族・家族・勅選議員などからなる貴族院から構成されたが、天皇の立法権への協賛機関であり、その権限は限定されていた。 このように、明治憲法のもとでの政治体制は、天皇を頂点に、官僚と軍人が支配する行政優位の体制であり、議会の地位と権限は弱かった。 1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、イギリス・アメリカ・ソ連・中国などに降伏して、戦後の再出発を始めることになる。ポツダム宣言は、連合国の対日基本占領政策を定めた文書で、日本の民主化と非軍国主義化を要求していた。これに基づいて占領軍は10月、民主化政策の一環として、明治憲法の改正を日本政府に指示した。1946年2月、日本政府は憲法改正案を作成して占領軍に提出したが拒否された。それは、政府案が明治憲法の字句を一部修正したものに過ぎず、天皇制の国家体制の維持・天皇主権に固執していたためである。そのため、政府案に代わって、占領軍当局が作成した憲法草案を日本政府に提示した。この草案に基づき日本政府が作成した改正案が、帝国議会の審議に委ねられた。議会は若干の修正を行って、これを可決した。これが現行の日本国憲法で、1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された。これは国民の名によって国民のために成立した最初の憲法であり、平和と民主主義を基本とした新憲法の内容を、国民は基本的に歓迎した。 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の保障、平和主義を基本三原理としている。憲法の前文は「日本国民は……わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と述べて、自由・人権の保障・平和主義・国民主権の三原理をうたうとともに、この憲法が国民の制定した民定憲法であることを明している。 日本国憲法は(1)近代憲法の原理である国民主権、基本的人権の保障、権力分立制などを定めるとともに、(2)20世紀における現代憲法として、自由権に加えて新たに社会権を保障し、(3)さらに他国に例のない徹底した平和主義を採用していることに特色がある。日本国憲法は恒久の平和と民主主義を念願する当時の国際世論を色濃く反映した20世紀後半に相応しい新しい憲法であった。 第四節 日本の統治機構 日本の統治機構は、立法・行政・司法の各機関の分立した三権分立制をとっている。 立法機関たる国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関であり、衆議院及び参議院の両議院から成っている。両議員とも全国民を代表する選挙された議員で組織されている。 国会の権限として、内閣総理大臣の指名、内閣不信任の決議、法律案の議決、予算の議決、条約の承認、裁判官に対する弾劾裁判、憲法改正の発議などがある。 行政権は内閣に属し、内閣は内閣総理大臣とその他の国務大臣で組織し、行政権の行使について国会に対して連帯して責任を負う。内閣は一般行政事務のほか、法律を実行し外交関係を処理し、条約を締結し、予算を作成し、政令を制定する。これらの業務を分担するため、国務大臣を長とする12の省が置かれている。内閣の統一を保つために、内閣総理大臣の任免権を持つ。 司法機関として裁判所がある。最高裁判所と下級裁判所(高等裁判所・地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所)とからなる。すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法及び法律にのみ拘束される。最高裁判所の長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、そのほかの裁判官はすべて内閣が任命する。裁判所は一切の法律・命令が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。 第五節 選挙 国会は参議院と衆議院からなっている。選挙は、国政選挙と地方選挙に大きく分けることができる。国政選挙は衆議院選挙と参議院選挙、地方選挙は、都・道・府・県・市・町・村・区の地方首長選挙とその地方自治体の議会選挙である。国会議員、都道府県・市町村区の各首長、および各議会議員は、直接選挙で選ばれる。 選挙権は、20歳以上の男女全員にあるが、被選挙権は参議院議員と都道府県知事は30歳以上、それ以外(衆議院議員と地方議員)は25歳以上の者にある。女子は1945年に始めて選挙権と被選挙権を得た。 現在、国会議員と都道府県の知事及び同議会議員の大部分は、政党の党員であるかまたは政党の推薦を受けた者である。しかし、市町村の首長及び各議会議員では、特定の政党に属さないという意味の「無所属」を標榜する者が多い。 選挙運動は、ポスター・テレビ・立会演説会・街頭演説などにより行われる。選挙は無記名自由投票で行い、選びたい人の氏名を自分で書く。議員の任期は参議院が6年で、ほかは4年。地方議会はリコールなどによるほかは任期いっぱいで改選される。ただ衆議院議員は任期いっぱいの4年で自然解散するのはむしろ例外で、平均2年半で解散選挙が行われている。 日本の主な政党は、長い間二つの陣営に色分けされてきた。すなわち、一方は政府与党である自由民主党で、他方は日本社会党・公明党・民主社会党・日本共産党などの革新陣営であった。 しかし、1993年の衆議院議員選挙では、選挙民の政治不信などにより新勢力が躍進し、自由民主党は過半数を制することができなかった。こうして、38年間続いた自由民主党の一党政権が終り、選挙制度を中心とした「政治改革」の時代の舞台が整った。2000年現在では、自由民主党、公明党、社会民主党(旧日本社会党)、日本共産党などがある。 第六節 日本の外交と自衛隊 日本は、1956年国際連合に加盟して以来、一貫して次の外交3原則を守り、今日に至っている。 1) 国際連合の目的と原則に従って、国際社会の平和と安全 に寄与するよう努める。 2) 自由・民主主義・基本的人権・不平等の是正などの普遍 的価値を共有する自由主義諸国の一員として行動をとも にしながら、自らの安全と繁栄を求める。 3) アジア・太平洋地域の一国として、同地域の平和と安全 に貢献する。 日米関係は、近年アメリカの対日貿易赤字が膨大になるにつれ、自動車・鉄鋼・農産物を中心とした貿易摩擦、また防衛問題で、日本の防衛力整備がアメリカの希望どおりに進んでいないことなど、日米間に摩擦が起きている。しかし日本の外交の中で日米間の友好は最優先で、毎年明らかにされる政府の外交青書では、「日米安全保障条約に基礎を置く、アメリカとの友好協力関係は、日本外交の基軸であり、政治・経済・防衛をはじめ、広範な分野にわたり、アメリカは日本の重要なパートナーである」と強調している。日米関係とともに日本が韓国、中国、ロシアなどの国の関係も重視しているが、歴史で残ってきた慰安婦の問題、北方領土の返還問題などの解決に力を入れなければならない。 日本は、第二次世界大戦終了時、降伏の条件に基づいて全陸海軍が解体された。 1950年、日本の治安維持のために、警察予備隊が設置された。1952年保安隊に再編され、1954年現在の自衛隊になった。1947年施行の現行憲法では、国際紛争を解決する手段としては、国権の発動たる戦争を放棄する旨規定している。しかし、このことは国家の固有の権利である自衛権の放棄を意味するものではない。 自衛隊の最高指揮権は、内閣を代表して内閣総理大臣が有しているが、通常の業務は国務大臣である防衛庁長官が当たっている。自衛隊には、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊がある。自衛隊員はすべて志願制度によっている。 日本政府は、2005年度から2009年度までの防衛力整備にあたっては、様々な面で調整し、必要な措置を取っている。この間、自衛隊の規模は、16万6000人程度を編成し、世界で7位の軍事力といわれるまでに整備されてきている。そのほかに、米軍(2万人)は日本に駐留している。 第7節 現代の日本 1970年代に入ると、世界の政治・経済体制は、さらに複雑な様相を示しはじめた。1972年9月、日中共同声明を発表し、1931年以来の日中間の戦争状態を終わらせ、日中国交正常化をようやく実現させた。 1973年の第四次中東戦争勃発を契機にアラブ産油国が原油価格の大幅引上げを行うと、中東原油に深く依存する日本経済は、大きな打撃を受けた。「狂乱物価」と物不足が国民生活を混乱させ、翌1974年には経済成長率が第二次世界大戦後はじめてマイナスとなった。1974年12月、田中角栄内閣は政治資金をめぐる疑惑で退陣し、三木武夫内閣が成立したが、1976年になると航空機購入をめぐる汚職が発覚して、田中前首相らが逮捕され(ロッキード事件)、世論の厳しい批判を浴びた。同年12月の総選挙では三木内閣は退陣して福田赳夫内閣が成立した。 石油ショック以来、とくに70年代後半、日本経済は企業の減量経営や賃金抑制などで輸出競争力を強め、低成長のもとで安定を取り戻した。こうした状況下で、国民の間に安定指向と「中流」意識が広がっていった。国民生活も大きく変化した。「消費は美徳」とされ、自家用自動車が普及し、洗濯機・冷蔵庫など家庭の電化が進むとともに、急速に普及したテレビを中心とするマスコミの発達により、都市型生活様式が農村にも広まり、文化の画一化や大衆化が進行した。また、「レジャー」が一般化し、海外旅行も盛んになるなど、国民の消費生活は豊かさを増した。1970年代後半から1990年代にかけて急速に普及したコンピュータの日常生活への浸透は、国民生活に新たな変化をもたらしている。 この間、国民の所得水準の向上に伴って、高等学校・大学などへの進学率が上昇し、教育水準も高まったが、学歴のいっそうの偏重や受験競争の激化という弊害を生み出した。また、核家族化が進み、女性の社会進出に伴って共働き世帯が増加した。一方、非婚や出生率の低下などの現象も見られ、家族の形態が大きく変化した。人口の高齢化が著しい中で、老人問題も表面化し、社会保障制度の充実が求められている。 1980年、大平正芳首相が急死で鈴木善幸内閣は臨時行政調査会を発足させて行政改革の検討を進めた。1982年には中曽根康弘内閣が成立し、日米関係の強化や、行政・教育改革を推進した。1987年、中曽根首相は退陣し、竹下登が首相となった。しかし、リクルート社からの政治家・官僚に対する献金疑惑や、消費税導入によって国民の反発を招き、一年半で退陣した。続く宇野宗佑内閣は、1989年7月の衆議院議員選挙で自民党が過半数を割るという惨敗を喫したこともあり、2か月余りで海部俊樹内閣に交代した。この年1月はじめには昭和天皇が没し、皇太子明仁親王が即位して元号が平成と改められた。 翌年、海部内閣のもとで行われた総選挙では自民党が勝利をおさめて政権を維持し、1991年には宮沢喜一内閣が成立した。しかし翌年には汚職事件が再発覚し、既成政党への国民の不信案が可決され、自民党は分裂した。総選挙の結果、日本新党の細川護熙が非自民8党派からなる連立内閣を組織し、1955年以来の自民党政権が倒れた。 1994年、細川内閣は政治改革法案を成立させたが、首相自らの献金疑惑により総辞職した。続く新生党の羽田孜内閣は、連立政権の内部対立から社会党が離脱してわずか2か月で崩壊した。こののち自民党・社会党・さきがけの連立で社会党委員長の村山富市を首相とする内閣が成立、1996年1月からは同じ連立のもと自民党総裁橋本龍太郎を首相とする内閣が続いた。1998年7月、参議院議員選挙で自民党が惨敗すると、橋本内閣から小渕恵三内閣へと変わった。しかし、2000年4月、小渕首相の急病で、森喜朗内閣が成立した。やがて、外務省機密費問題で野党が厳しく追及し、 90年代に入ってバブル経済は崩壊し、長期の不況が続くこととなった。このように、日本の政治・経済は90年代以降、きわめて不安定で先行き不透明な状況となっている。さらに1995年に入ると、阪神大震災やオウム真理教による地下鉄での毒ガス無差別テロや複数の金融機関の経営破綻などの事件があいつぎ、国民の間に不安が広がっている。 第8節 中日関係 1972年9月に中日が国交を回復して25周年を迎えた1997年には、9月に橋本首相が中国を訪問し、11月に李鵬首相が訪日した。橋本訪中では、「今後少なくとも年一回いずれかの側の首脳レベルが相手国を訪問すること」で一致し、「防衛分野でのハイレベルの交流の強化」も合意された。橋本首相は李鵬首相との会談で、旧日本軍遺棄化学兵器処理問題について、内閣に連絡調整会議を発足させ、その下に化学兵器処理対策室を設置したことなどを具体的に紹介し、本気で取組む姿勢を強調した。李鵬訪日に際しての具体的成果としては、新漁業協定の調印、21世紀に向けた環境保護協力についての合意がある。 中日間の主な人事交流としては、1998年4月に胡錦涛副主席が来日した。また、1998年9月には中日平和友好条約締結20周年を記念して江沢民主席の訪日が予定されていたが、中国国内の洪水被害対策のため延期となった。 また、中日両国の国家間の戦争賠償問題は、1972年の中日共同声明で中国が「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したことで決着している。しかし、日本の侵略戦争において、日本軍が軍事国際法を無視して行った非人道的行為によって損害を被った一般中国人の対日賠償請求問題は残っている。1995年8月7日に「従軍慰安婦」「南京事件・七三一部隊」に関する補償を求める裁判が東京地裁に提訴されたのを含め、様々な事件に関する訴訟が日本国内で起こされた。本質的には、日本軍国主義が行ったアジア諸国の人々に対する残忍な非人道的行為や日本軍の捕虜として過酷な待遇・労働を強いられ、命を落とした人々に対する謝罪と補償措置を、日本政府が今日に至るまで認めようとすらしないことを徹底的にただすかどうかが問われている。 一方、1998年4月に胡錦涛副主席が訪日した際、小渕外相の招宴に日本共産党の不破委員会長が出席し、両者は言葉を交わした。胡副主席の東京滞在中に日中両党関係者の接触が行われ、日本記者クラブでの記者会見の席上、「中日両共産党の関係正常化は可能」と発言した。その後の交渉はスムーズに行われ、6月に北京で会談が行われ、関係正常化実現に合意した。日本政治において現実的影響力を強めつつある日本共産党と現実に政権党である中国共産党との関係発展は、今後の中日関係を健全化させる上で大きな可能性を秘めている。 練習問題 一、次ぎの質問に答えなさい。 1、 現行憲法では、天皇は国政に関する権能を有しますか。 2、 天皇は国事に関する行為には、どのようなことが限定されていますか。 3、 天皇は政治上の権限を有しないが、外交儀礼上はどのように扱われますか。 4、 現在の天皇は何代目ですか。 5、 明治憲法の特色は何ですか。 6、 現行の日本憲法はいつ公布され、いつ施行されましたか。 7、 日本国憲法の三原理は何ですか。 8、 自衛隊はいつできたのですか。 9、 中日共同声明はいつ発表したのですか。 二、課題研究 1、 明治憲法と日本国憲法の内容(主権、人権、軍事、政治 制度など)について、条文に基づいて比較してみよう。  2、中日関係の未来について、どう考えますか。 第一節 教育制度 日本は明治時代に入り、近代化に伴って、政府は西洋の学問を導入して産業・文化を発展させるために、小学校から大学まで一貫した教育制度を整えた。1872年、日本で初めて義務教育制度が制定された。1900年、就学率は90%であって、1907年には6年制の義務教育となり、就学率は99%になった。 戦後、日本の教育制度は大きく変わった。現在、実施された制度(学校教育法)は1947年に生まれたものである。すなわち、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年が基本になっている。これに伴い、義務教育も6年から9年に延長され、男女共学も一般化した。親は子供に義務教育を受けさせる義務がある同時に、市町村は義務教育のために学校を設置しなければならない。今日の就学率100%、文盲率0%という数字は日本が世界に誇るものである。高等教育(高校)は義務教育ではないが、進学率は96%を超える。 高校を卒業してから大学に入りたい学生は、入学試験に合格しなければならない。大学での教育科目は、広く知識を授ける一般教養科目と、特定分野の学芸を深く学習・研究させるための専門科目からなっている。大学教育の目的は、知識・人格面とともに応用能力を十分に開発することである。すなわち、大学は教育機関であると同時に学術研究機関としての役割も持っている。大学教育は一般に4年だが、医学・歯学部は6年である。大学院では、修士課程が2年、博士課程が3年である(医学・歯学には修士課程がなく、4年の博士課程だけである)。 大学には国立と公立と私立があり、そのうち、国立大学は98校、公立大学は52校、私立大学は415校、全部で565校(1995年)がある。このほかに、596校の短期大学がある。大学・短期大学・大学院生の総数は約298万人である。 国立大学の中では一番有名なのは、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学であり、また一橋大学、東京工業大学、東京外国語大学、大阪外国語大学、筑波大学、お茶の水女子大学、奈良女子大学、東京芸術大学なども有名である。私立大学の中では慶応大学と早稲田大学が一番有名で、そのほかに、同志社大学、立教大学、上智大学、明治大学なども有名である。 第二節 科学技術領域 日本の科学技術開発の現状と動向から見れば、先端分野、人類のための科学技術開発、社会・生活の充実のための科学技術が重視されている。先端分野には、(1)情報・電子系科学技術、(2)生命科学、(3)宇宙・航空技術、(4)海洋・地球科学及び物質・材料科学を含み、人類のための科学技術開発には、(1)自然環境の保全技術、(2)エネルギー、(3)資源開発・リサイクル及び食料などの持続的生産を含み、社会・生活の充実のための科学技術には、(1)健康の維持・増進及び生活環境の向上、(2)社会経済基盤の整備及び安全対策を含む。 従来日本の技術開発は、多くの場合、外国で開発されたものを導入し、それを基礎にして巧みに組み合わせ発展させているのが特徴である。しかし、今後の日本にとっては、いかにして基礎的な科学技術を自らの手で開発していくかが重要な課題である。 1994年における日本の研究費は、総額13.6兆円であった。これは、30.6兆円の米国に次いで世界第2位である。研究費の政府負担割合は21.5%で、その残りを産業界が負担している。研究費総額の13.6%を占める大学では、その53%が基礎研究に、38%が応用研究に、残り9%が開発研究に使われている。一方、民間企業での使用比率は、それぞれ7%、22%、71%である。このように、大学と企業の研究分野は合理的に分担されている。 日本における科学技術研究者は66万人である。米国の96.3万人(1993年)に次いでおり、ドイツ、フランスより多い。また、日本の特許出願件数は、1993年に38万件に達し、世界で最も多く、次いで多い米国(19万件)の約2倍であった。 第二次世界大戦後、電子工学、石油化学などの高分子化学、原子力利用などが急速に発達し、それらは技術革新と呼ばれるほど目覚しいものであった。プラスチックやビニールなどは、新しい材料として多方面に用いられているし、テレビに代表される電子工学技術は、生活にも生産にも、大きな変化を及ぼした。とくに、1960年代以降、目覚しい発達をとげたのはコンピュータである.集積回路(IC)の開発と小型化は、コンピュータの普及を加速し、現在では、情報処理や自動制御を必要とするあらゆる部面で大きな役割を果たしている。産業用ロボット、工場無人化、オフィス‐オ-トメ-シュンの動きが、大きなうねりになって進展中である。この状況は新しい産業革命とも言える。 また、新素材、生物工学、遺伝子工学、光ファイバー通信など、高度化学技術の展開が急ピッチである。 技術の発達は、それまでに存在しなかった新しい産業を生み出すとともに、従来からある産業の内容を変えていく。例えば製鉄は、はるか古代から存在していたが、近代的製鉄法を経て今日製鉄法へと、大きな変化を見せている。農業・漁業もまた、多くの点で変化した。 そうした産業の変化をとらえ、それが経済社会に及ぼす影響について考えるのには、産業構造に着目するのが一つのである。産業構造とは、どのような産業が、どんな関連で存在しているかという問題である。 練習問題 一、次の質問に答えなさい。 1、 戦後、日本の教育制度はどう変わりましたか。 2、 日本の義務教育では就学率はどうなりますか。 3、 日本では、どのような科学技術が重視されていますか。 第一節 戦後の日本経済の概観 日本経済は第二次世界大戦後、いくつかの段階を経て今日に至っている。大戦により混乱に陥った日本経済は、1947年頃から急速に復興をとげ、1955年頃からは約20年にわたり高度成長と呼ばれる持続的な経済成長を記録した。1970年代の2度の石油危機を経て、日本経済は安定成長の時代に入ったが、1980年代後半の地価・株価の高騰(バブル)とそれに続くバブルの崩壊、急速な円高の進行などによって、1990年代初めには長期不況に陥り、現在は低成長に直面している。最近、内需主導型経済へ転換しながら、真に豊かな国民生活の実現を追求している。 敗戦直後の日本経済は悲惨な状態にあり、鉱工業生産は戦争勃発当時(1941年)の水準の7分の1に減少し、外国貿易もほとんど停止の状態にあって、国民は深刻な食糧危機とインフレーションに苦しめられていた。 日本を占領した連合軍は、日本経済の民主化のために、三つの基本政策を導入した。すなわち、①財閥解体、②農地制度の改革、③労働権の確立である。戦後の日本経済発展の大きな枠組となったのはまさにこれら3本の柱であった。日本政府は産業の基礎である石炭・鉄鋼のために、資材・資金・労働力を重点的に投入するいわゆる傾斜生産方式を実施した。こうして、日本経済は1948年頃から回復に向かった。その後、1950年に勃発した朝鮮戦争に伴う在日米軍向けの資材・サービスの供給であった。こうして、日本経済は復興の歩みを速め、1950年代半ばまでに、ほぼすべての経済指標が戦前の水準にまで回復した。 1956年以後1960年代末まで、日本経済は徐々に進んで、国民総生産は年平均10%の高い成長率で伸びていった。この間、日本の産業は重化学工業の飛躍的な発展によって、生産規模・生産性などを大幅に向上させる基盤を固めた。さらにこの時期には国際競争力の強化を図るための大型合併が目立った。また、日本は輸入・為替の自由化を進め、国際経済への一層の適応をはかった。また資本の自由化も進んでいるため、1960年代後半には輸出が拡大し、国際収支も黒字基調に転じた。日本は50年代にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫があって、60年代にはクーラー、自家乗用車があり、さらに教育水準の高まりによる質の改善があった。 1970年代に入ると、経済成長にもかげりが見え始めた。さらに国外からも重大な撹乱要素が相次いで生じてきた。1973年の第一次石油危機は世界同時不況をもたらしたが、その衝撃は日本のような資源輸入国には特に痛烈であって、1979年には第二次石油危機によって世界経済は再び大きな混乱に陥った。2度にわたる石油危機、外国との通商摩擦によって、日本経済は長い間に低迷を続けた。 こうした危機を切り抜けるために、日本の各産業は省エネルギー技術や自動化技術の開発・導入を推進した。また、日本経済全体として、産業構造の「重厚長大型」から「軽薄短小型」への転換が進んだ。米国の高金利によるドル高・円安を背景に、輸出も日本経済の牽引力の役割を果たした。こうして、1980年代前半、日本経済は4―5%の安定成長軌道に乗った。 しかし、1988年から地価と株価などの資産価格が急騰し、1990年代には逆に急低下して、バブルの発生と崩壊である。バブルの発生期に過剰に行われた実物、金融両面の投資はその後に不良資産として残り、日本経済はなおその影響から抜けきっていない。1997年度の経済成長率はマイナス0.7%と戦後最悪の状況に陥った。97年には特別減税の廃止し、消費税や社会保険料の引き上げが実施され、約9兆円に及ぶ負担増を国民に強いた。97年から98年春にかけ、大型の企業倒産が続き、東証一部上場企業でも11社が破綻した。この中には北海道拓殖銀行や山一證券などの大手金融機関も含まれる。また完全失業率は上昇を続け、98年4月には4.1%に達し、失業者も290万人と戦後最悪を記録した。今、日本政府は経済の不況から抜けきるために、様々な政策をつくって対応しているが、短期間に景気回復は極めて難しい。 第二節 日本経済の成功の要因 日本は、第二次世界大戦後、奇跡とも言われる高度成長を実現した。戦後の日本経済の高度成長の要因については多くの議論があるが、それをまとめると、次のようである。 ①教育水準が高く勤勉な人的資源があった。②古い設備が戦争で破壊されたため、世界最新の設備・技術で装備できた。③自由貿易体制の下で、原燃料を世界中から自由に輸入でき、また、各国、特に米国が日本の商品をかなり自由に受け入れてくれるなど、輸出市場にも恵まれた。④企業と労働組合がヨーロッパや米国に追いつくという共通の目的を持ち、まず経済的なパイを大きくするために協力した。⑤国民の貯蓄性向が高く、また銀行が積極的な融資を行ったため、投資のための資金が十分に供給された。⑥平和国家の道を選んだため、資金や人材を経済活動に集中できた。 このように、日本の高度成長には国民の一致した努力と外的 条件に加えて成功した。しかし、こうした急激な成長は、様々なゆがみをもたらした。重化学工業の発展は公害問題を発生させ、政府による積極的な産業育成政策は、住宅・公園など国民生活に必要な社会資本の整備をおくらせた。また、工業の発達が都市部に集中したため、都市の過密や農山村の過疎が深刻になった。 第三節 日本の貿易 どのような商品を、どのような国に、どれだけ輸出しているかという問題が輸出構造であり、同じ問題を輸入について考えるのが輸入構造であり、それらを合わせたものが貿易構造である。貿易構造は、国内の産業構造と深い関連を持っている。国内で生産できないものは輸入しなければならないし、生産できても輸入したほうが有利なものもある。また、外国から求められるものを輸出できるだけの産業があるかどうか、外国製品と品質や価格で競争できるだけの産業があるかどうかが、輸出力を決める。産業構造の変化と、輸出構造や輸入構造の変化とが密接に結びついている。 日本は輸出品の大部分が重化学工業製品であることがきわだっている。アメリカの場合、大豆、玉蜀黍、小麦などの食糧品や、綿花、木材といった一次産品の割合が先進工業国の中では群を抜いて高いことが注目される。 輸入のうち、現在とくに難しい問題点を抱えているのは石油と食糧である。石油輸入の代金は、日本の輸入代金全体の3分の1を上回るようになっている。石油の需給関係は、80年代に入って供給過剰型に変わってきたが、エネルギー源としての重要性は、短期間に基本的に変わりはない。また、日本の食糧自給率は低く、輸入に頼って食糧の割合が大きい。 日本が原材料を輸入し、工業製品を輸出しているように、各国の間では、輸入と輸出の関係がある。日本が輸出できるのは、輸入してくれる相手がいるからである。もし、日本がその輸出額に等しいだけ、その相手国から輸入をするなら、おたがいに貿易収支はバランスする。しかし、日本からその相手国へ輸出する額が、日本が輸入する額よりも大きくなりすぎると、その相手国を困らせることになる。日本の工業製品は、品質・価格の両面で国際競争力が強く、とくに自動車やテレビやビデオなどの輸出では、長く続いた世界的な不況のもとで世界貿易の伸びが小さかったこともあって、欧米との間で経済摩擦と呼ばれるような対立を招いている。 日本は貿易額では米国・ドイツに次いで第3位である。1994年には世界の輸出の9.6%、輸入の6.6%を占めた。日本の貿易が輸出超過基調に転換して20年以上たち、今や貿易黒字減らしが、国内的にも国際的にも重要課題となってきた。 日本は原料やエネルギー資源のほとんどを輸入しなければならず、その調達のためには輸出による収益が必要だからである。つまり、輸出・輸入が双方ともに不可欠なのである。 日本のドル表示の名目輸出額は、1952年以降ほぼ一貫して増加してきた。1995年は貿易黒字額は1.068億ドルで、全輸出額は4.429億ドルに達している。日本の貿易黒字は1997年以降、再び増加傾向にある。商品構成では、機械類が圧倒的に多く、輸出総額に占める比率は49.7%である。次いで多いのは自動車の12.0%で、そのほか精密機械の4.7%、鉄鋼の4.0%、船舶の2.5%などがある。1995年はアジアへの輸出の伸びが著しく、ヨーロッパは減少した。 輸入も増加を続けているが、輸出よりは変動の振幅が大きい。その主な理由は輸入が輸出に比べて景気の影響を直接受けるためである。輸入品の構成は1980年代に大きく変化した。1995年の主なものは機械類18.6%、原燃料12.2%、食料品9.1%、衣類5.6%、木材3.0%などであり、輸入先はアジア、ヨーロッパ、中南米などである。 しかし1997年後半からワインの輸入量が著増しており注目される。1998年上半期で前年同期比3倍増で、輸入先はフランス、イタリアが5割を占めている。 日本の経常収支は、1960年代半ば頃まで赤字基調であった。そのため、経済成長は原燃料などの輸入品の支払いに必要な外貨保有高に左右されていた。しかし60年代半ば以降は、石油危機の後など例外的な時期を除いて、貿易収支・経常収支のいずれにおいても黒字基調が続いている。もはや日本の問題は、黒字基調の国際収支をどう削減するかになっている。 国際収支の内訳を細かく見ると、貿易外収支と移転収支はほぼ恒常的に赤字であるが、貿易収支の大幅な黒字がこの赤字を上回っている。また、貿易外収支の中では、運輸・旅行・特許権使用料などが赤字であり、投資収益は黒字でその幅が急速に拡大しつつある。また近年、対外投資の活発化などのため、国際収支に占める資本収支の重要性が著しく増大している。 日本の貿易収支は、相手国によって著しく状況が異なっている。例えば、主として製品輸出の市場である米国・EU・東南アジアに対してはほぼ恒常的に黒字であるが、主として原燃料の購入先である中東の産油国やオーストラリアに対しては赤字が続いている。 第四節 日本の産業 日本は、1945年頃までは農業が産業の中心の国であった。しかし、戦後の高度成長期は、第二次産業が大きく成長したのが特色であった。やがて、経済の発展とともに第三次産業が急速に拡大し、1994年現在、一次・二次・三次産業の比率は、就業者数でそれぞれ5.8%、33.4%、60.3%、国内総生産では、2.0%、34.1%、63.9%であった。 農業や林業、水産業などを第一次産業と言い、鉱業、工業、建設業、製造業などを第二次産業と言い、商業、運輸通信業、サービス業(洗濯・理容・浴場・旅館・修理・宗教・娯楽・放送・広告・医療・教育・国家機関)などを第三次産業と言う。 経済成長に伴って、産業構造が変化するといわれる。日本の場合も、産業別の就業者を見ると、第一次産業就業者が減って、第二次・第三次産業就業者が増大しており、近年では第三次産業就業者の伸びが著しい。それを各産業の実態でみると、構造変化の原動力として、コンピュータの発達による情報処理、伝達技術の進歩が大きく影響していることがわかる。 製造業においては、コンピュータを利用した各種の機械や装置が増加し、これらが生産の自動化や省力化に貢献している。その際、モノの製造そのものよりも、その周辺の研究開発や設計、機械や生産システムの制御などの、いわゆる「ソフト」部門の比率が増大している。 第三次産業では、サービス業の増加が著しい。サービス業の中では、外食産業や宅急便、各種レンタル業など、新しい産業が生まれ、所得の上昇や余暇時間の増加などを背景にその比率が増加した(サービス経済化)。また、流通業でも、コンピュータの発達に伴って、通信販売や訪問販売などの無店舗販売やコンビニエンスストアなど新しい販売形態の成長が目覚しい。また、ソフトウェア関連の情報処理業も大きく伸びている。さらに、コンピュータが通信回線で結ばれたことによって、情報産業と通信産業とが結合して新たな産業分野が形成されてきている。例えば、90年代以降に急速に普及し始めたインターネットと呼ばれるコンピュータ・ネットワークは、大学や企業、行政機関だけでなく、様々な組織や個人も自由に、世界的な規模で情報を交換することができるようになった。また、こうしたネットワークを利用して音声、画像、情報を双方向でやりとりできるマルチメディアも、実用化の段階に入った。 現在、通信・映像ソフトなどの製造や、情報・通信分野へ様々な企業の進出や新規開業が目立っているが、21世紀には、距離と時間に影響されない新しい経済体系の出現が予想されている。   第五節 農業 日本は温帯に位置しているので、農作物を育てるのに適した気温帯にある。また、雨が多く、湿度も高いので、農作物を育てるのに十分な水にも恵まれている。さらに日本は南北に細長いので、南方の作物も北方の作物も育てることができ、農作物の種類が多い。これらは農業の発展にとって有利的条件である。日本の農用地面積は国土の14%で、農家一戸あたり1.2ヘクタール(ha)にすぎない。それで、農家は狭い耕地で生産を多くするために、米を作った後に野菜を作ったり、肥料を沢山使ったりして収穫を多くしている。耕地面積が少ないので、収入が少なく、農業だけでは生活するのが難しい。それで、農業以外の仕事をする農家が多くなってきた。例えば、漁業や林業や牧畜業をしたり、近所の工場や会社に勤めたりする。 農業だけをしている農家を専業農家と言い、農業をしているが、それ以外の仕事もする農家を兼業農家と言う。1950年頃までは、日本の働く人の約半数は農業に従事していたが、1988年には就業者のうち農業に従事する者の割合は7.0%に過ぎない。専業農家というのは、その家の収入の50%以上を農業から得ていて、65歳より若い人が農業をしている農家である。今、日本では専業農家が大変少なくなって、農業をしている人も高齢化している。 日本の農業は米作が中心で、耕地の約40%で米を作っている。米作は昔からしていたが、稲は暖かい地方の植物なので、北陸、関東、瀬戸内海沿岸、九州などで盛んに作り、北海道や東北地方というような寒い地方ではできなかった。それで、寒さに強い稲の種類に品種を改良する研究をして、今、寒い地方でも米が作れるようになった。米が一番とれる所は北海道であり、次が新潟県である。 米は日本人の主食である。日本には食糧管理法という法律があって(1961年、農業基本法)、その法律によって、自立経営農家や大規模農家の育成を進めてきたが、米は、政府が値段を決めて農家から高く買い、消費者に安く売っていた。こうして農家の所得保障が重視され、経営規模の小さな兼業農家を保護する結果になって、経営の効率化を妨げてきた。しかし、1994年に新食糧法を定めて、企業的経営の育成や米の流通制度へ市場原理を導入することなどによって、輸入の自由化にも対応できる農家の育成を目指している。新食糧法によって、米は1995年秋から自由に売買できるようになり、国内消費量の一定割合を輸入することになった。米は内外価格差が大きく、国内農業に与える影響が懸念されている。日本では1969年頃から人々の食生活が変化し、パンを沢山食べるようになった。しかし、日本でとれる麦はパンの原料には適しない。それで、麦はアメリカなどから輸入している。日本では1960年頃は、食糧の農産物は国内の消費量の90%を生産していたが、1993年には、58%しか生産できなくなった。 日本は世界でも有数の農産物輸入国であり、先進国の中でも食糧自給率はかなり低い。主食の米以外の農産物は輸入に頼る比率が高く、とくに穀物の自給率は約30%程度しかない。日本が先進国として、国際協調の観点から諸外国の農産物を積極的に輸入すべきであるという意見や、消費者の立場から安い農産物の輸入を歓迎する意見がある。その一方で、米などの主要穀物や肉類などについては、食糧安全保障論の立場から自給体制を確立する必要があるという指摘や、輸入農産物の農薬残留による安全性をあやぶむ声もある。また、日本の稲作農業に見られる潅漑設備や水田は、環境保護や国土保全の立場から再評価する必要があるという主張も見られる。 さらに、近年アジアの国々の工業化による経済発展は目覚しく、これらの地域では食糧の輸出が減って、逆に輸入が増えている。このことから21世紀には農産物の価格が上昇し、食糧不足が発生すると予測する意見もある。経済のボーダーレス化が進む中で、日本の食糧問題をどのように考え、それを農業問題とどう結びつけるかが、大きな国民的課題になっている。 日本では野菜の種類が多く、生産量も多い。野菜は昔からあった大根・白菜・茄子・胡瓜・人参などのほか、キャベツ・ピーマン・レタス・セロリなどの西洋野菜も作られる。今、これらの野菜がたいてい一年中食べられる。それはビニールハウスで野菜を作る促成栽培が行われるようになったからである。 日本には、暖かい地方の果物や、寒い地方の果物があって、種類も非常に豊富である。蜜柑は中部地方以南の太平洋に面した日当たりのよい山の斜面で、林檎は青森県や長野県の寒い地方で作られている。葡萄は雨の少ない中部地方の甲府盆地で沢山とれる。このほかにも、柿、梨、桃などが各地で栽培されている。 日本で畜産が一番盛んなのは北海道で、牧場が多く、特に乳牛、馬、綿羊の飼育が盛んである。肉用の牛は九州の鹿児島、宮崎、熊本などの諸県で多く飼われている。 農業の機械化は1960年代に入って急速に進み、今、ほとんどの農家は機械で農業をしている。日本の農業技術の発展と農業の機械化は日本の農業の一つの特徴である。 しかし、経済成長と生活様式の急速な変化に対応できない日本各地の村落では、都市へ移住する人々が多く、いわゆる過疎現象を起こしている。医療や教育、消防や祭りなど基礎的な人口の減少によって、社会生活の維持に様々な問題を生じることである。農山村の場合には、大雪や大雨の被害をきっかけにして挙家離村が増加して、ついに廃村になった例もある。 第六節 水産業 日本の周りには、暖流と寒流が流れている。暖流は太平洋を南から北へ流れる暖かい海水の流れで海の色が青黒く見えるので、黒潮と呼ばれている。カツオやマグロはこの黒潮に乗って日本の近海へ来る。寒流は、北の方から流れてくる冷たい海水の流れである。この海水は栄養に富んでいて魚類や海藻類をよく育てるので、親潮と呼ばれている。親潮に乗ってニシンやサケが日本の近海へ来る。黒潮と親潮が交わる三陸沖は、暖流と寒流の魚が沢山とれるよい漁場である。そのほか、日本の西南の大陸との間にある海は、深さが200メートル以下の所が多い浅い海であり、ここも魚が沢山とれるよい漁場である。 日本人は魚が好きで、沢山食べる。それで漁獲量は大変多い。その上、外国からも沢山の水産物を輸入している。漁業には色々な規模のものがある。海岸の近くで魚を捕る日帰りの小規模な漁業、これを沿岸漁業と言い、5-30トンの船で40キロぐらいまでの沖で漁をする漁業を沖合漁業、大型船の母船と数隻の小舟とが船団を作って、遠くの海へ行き、数ヶ月も続けて漁をするものを遠洋漁業と言う。遠洋漁業の母船には、捕った魚を保存するための冷凍設備や、魚を缶詰などに加工する設備もある。 近年、水産資源を保護する考えが国際的に広まって、200海里水域内で外国の船が漁をしたければ、その国と漁業協定を結んで、多額の金を払わなければならない。日本では、以前から北洋でサケ、マスを沢山捕っていたが、この規制で、北洋で自由に漁のできる所は、米・ソの200海里の挟まれた狭い海域になってしまい、日本の北洋漁業は厳しい状態になった。従って、日本の漁業は、捕る漁業から育てる漁業に変わっている。魚の養殖は以前から行われていたが、最近注目されているのが栽培漁業である。栽培漁業というのは、稚魚を海に放して、海の中で大きくして捕るものである。現在、栽培漁業で栽培している魚や貝の種類も多くなった。また、海上に音を
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