为了正常的体验网站,请在浏览器设置里面开启Javascript功能!
首页 > 日本历史日文版第一部

日本历史日文版第一部

2017-09-03 30页 doc 59KB 611阅读

用户头像

is_614050

暂无简介

举报
日本历史日文版第一部日本历史日文版第一部 序言: 国の歴史は,つの尺度で測ることができる。歴史の長さ、規模の大きさ、継続性、他国への影響である。この点、ヨーロッパや中国の歴史は第一級の歴史と言える。しかし、歴史の継続性という点では日本の歴史はヨーロッパや中国の歴史と同等かそれ以上のすばらしいものがある。ここに、日本人としての誇りさえ感じる。しかし、最近の研究では、日本の歴史の中には、これまで定説とされていた幾つかは、違うのではないかと言われるようになってきた。このホームページでは、日本史の新たな見方を紹介し、読者のご意見を伺うものである。 ...
日本历史日文版第一部
日本历史日文版第一部 序言: 国の歴史は,つの尺度で測ることができる。歴史の長さ、規模の大きさ、継続性、他国への影響である。この点、ヨーロッパや中国の歴史は第一級の歴史と言える。しかし、歴史の継続性という点では日本の歴史はヨーロッパや中国の歴史と同等かそれ以上のすばらしいものがある。ここに、日本人としての誇りさえ感じる。しかし、最近の研究では、日本の歴史の中には、これまで定説とされていた幾つかは、違うのではないかと言われるようになってきた。このホームページでは、日本史の新たな見方を紹介し、読者のご意見を伺うものである。 一个国家的历史,可以从四个方面来衡量。历史的悠久、规模的宏大、连续性、对其他国家的影响。在这些方面,欧洲和中国可以被称为第一级的历史。但是,在历史连续性这一点,日本的历史相比欧洲和中国的历史,有过之而无不及。作为日本人来说,是值得自豪的。但是,近期的研究表明,日本的历史与以前被定论的几点,有些出入。这篇网文,以全新的见解介绍日本史,欢迎读者发表意见。 第,弾 日本国家形成の真相 第1弹 日本国家形成的真相 日本は、どのようにして形作られたか。最近の朝鮮、中国、日本の歴史研究をもとに考えると従来の見方とは違った姿が見えてくる。それは残念ながら、古事記や日本書紀に書かれているようなロマンチックなものではなく、朝鮮や中国などとの格闘の中から日本人(倭人)が勝ち得たものである。「新説?日本の歴史の第一弾として、「日本国家形成」の概要を述べる。(2012年,月,日 改訂版) 日本是怎样产生的呢,根据近期朝鲜、中国、日本的历史研究资料来参考,得出与以往不同的见解。很遗憾,与《古事记》和《日本书纪》里所描述的浪漫史诗不同,日本是日本人(倭人)与朝鲜及中国的斗争中获胜而建立的。 新説?日本の歴史の第一弾として日本国家形成の経緯を辿る。倭国の有史時代の始まりをいつにするかは、さまざまな見方があるが、ここでは九州の志賀島から発見された「金印」の時代をもって倭人の有史時代の始まりとする。この倭人の有史の始まりは、さらにさかのぼる可能性はあるが、とりあえず漢書に出てくる「漢委奴国王」の金印時代をもって日本の有史時代の始まりとする。そして国家形成の完成を律令導入時期とする。西暦では、紀元,世紀から紀元,世紀にあたる。この期間を以下の,つのテーマを中心に日本国家形成の歴史を概観する。 (,)大陸と倭国の交流 (,)邪馬台国と大和政権 (,)蘇我氏による国体形成 (,)大化改新と朝鮮半島情勢 (,)壬申の乱と律令制度の確立 作为新说?日本的历史第一弹,追朔日本国家形成的缘由。倭国的有史时代是从何时开始,有各种各样的见解,在这里,以九州的志贺岛发现的「金印」 所代表的时代,作为倭人有史时代的开端。虽然倭人的有史源头可能更加悠远,总之,以汉书所记载的「汉委奴国王」的金印时代为源头。然后引进律令制度,国家形成正式完成。西历时间为:公元1世纪——公元7世纪。这段时间,以5个主题为中心来概述日本国家形成的历史。 1.大陆和倭国的交流 2.邪马台国和大和政权 3.苏我氏时代,国体形成 4.大化改新和朝鲜半岛局势 5.壬申之乱和律令制度的确立 ,(大陸と倭国の交流 日本の国家の形成は、中国や朝鮮の国家形成と深い関係にある。特に、秦?漢の成立は朝鮮と日本に大きな影響を与えた。漢の時代すでに九州は倭人の住むところとして中国に知られ、主に今の上海方面との交易をしていた。その後の交易は、西暦57年、漢が日本の委奴国(イト国)に「漢委奴国王」(漢のイト国王)という金印を与えたという記録から読み取ることができる。 (注意)歴史学会では、「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」と読ませ、奴国が金印をもらったとしているが、筆者は「かんのいとこくおう」と読む説を取っている。「わ」は「倭」であり、「委」ではない。「いと」国は、魏志倭人伝に「伊都」国という名で出ている。現在の糸島半島は、当時の「伊都国と志摩国」の意味で、金印はこの伊都国に与えられたものと解釈できる。 中国の王朝は、たびたび周辺諸国に「印璽」を与えている。中国からみれば印璽を持つものが、その地の王であり中国と交易権を持つ人という意味になる。委奴国は印璽(金印)をもらってから、130年間は平穏な生活を送っていた。その期間では、朝鮮半島は直接、漢に支配される土地であり倭国は直接中国と国境を接する国であった。 また、後の邪馬台国の記録をみると漢の時代(,,,世紀)、九州の糸島半島から現在の博多には漢の出先機関があり漢と倭人の交易を取り仕切っていた。この出先機関は倭国の直接統治は行わず、倭国にある豪族の権益を認めると言った間接統治であった。 2世紀ごろ、漢は具体的には188年の黄巾乱が起きてから三国時代に入った。これ以降、中国では、長い戦乱の時代を迎えることになる。このことは中国周辺の国々に大きな影響を与えた。特に、周辺諸国の国家形成の動きは大きく、逆に朝鮮半島は楽浪郡?帯方郡という漢の出先機関は衰退の一途をたどることになった。 (注意)漢の武帝は、紀元前108年に現在の吉林省と朝鮮半島に,郡を置いた。そのうち朝鮮半島に置かれたのが楽浪郡と帯方郡である。313年、楽浪郡?帯方郡は、高句麗によって滅ぼされている。 漢の時代、楽浪郡と帯方郡により朝鮮半島の大半は支配されていたが、一方では南朝鮮には、馬韓?弁韓?辰韓という同一民族の国家が存在していた。さらに、その先に倭人が住んでいたのである。 (注意)漢の朝鮮半島支配以前には、朝鮮半島には基氏朝鮮、衛氏朝鮮という中国から亡命した政権が半島を支配していた。これを古朝鮮時代という。 この時代の中国の歴史書?後漢書には、朝鮮半島の馬韓?弁韓?辰韓は「韓」と表記されている。倭に関しては、倭国でなく「倭人」(57年頃)と記し、倭がこの時期、国家を形成していなかったことを示している。 (注意)その後の中国の歴史書は、倭を「倭の邪馬台国」(238年頃)、「倭国」(410年頃)、「日本」(702年頃)などと記している。これらの表記は倭が国として中国に認められて行った過程を示している。 その後、中国の魏?呉?蜀三国時代に朝鮮半島の北部から中部にかけて高句麗ができ、南部の馬韓?弁韓?辰韓の周辺には、百済(当初は扶余といった)、新羅、伽耶が誕生した。そして、これの国も中国同様に戦国時代を迎えたのである。朝鮮半島の高句麗?百済?新羅三国時代の戦乱は、,世紀から,世紀までの400年間も続くことになり、同時期の日本に大きな影響を与えた。 (注意)今の中国?吉林省の東部が扶余国の起こりとされている。筆者が1996年に現地を訪問したときの現地地図には、吉林省の東部一帯を「扶余」地方と記してあった。また、当地の吉林油田は今でも扶余油田と呼ぶ人もいる。 (注意)また、12世紀にできた「三国史記」は、朝鮮の三国時代(新羅?高句麗?百済)から統一新羅末期ま でを対象とした歴史書で、1145年に完成している。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。 1.大陆和倭国的交流 日本的国家形成与中国和朝鲜的国家形成有着深远的联系。特别是秦、汉的建朝,对朝鲜和日本带来巨大的影响。在汉朝时期,中国人已经知道九州是倭人的居住地,并且与当时的上海所在的区域进行着贸易往来。西历57年,汉朝授予委奴国(伊都国)的「汉委奴国王」 金印。 (注意)历史学会把「汉委奴国王」读作 「かんのわのなのこくおう」 。虽然是奴国得到金印,但笔者认为应该读作「かんのいとこくおう」 。「わ」 是「倭」 ,不是「委」 。「いと」 国,出自魏志倭人传里的「伊都」 国。现在的系岛半岛就是当时的「伊都国和志摩国」,可以理解为金印就是授予伊都国的。 中国的王朝,常常授予周边诸国 「印玺」。在中国眼里,拥有印玺的 王,才配拥有与中国的贸易权。委奴国获得印玺(金印)之后的130年间,过着太平的日子。在这段历史时期,朝鲜半岛直接被汉朝所支配,倭国就成为直接与中国国境接壤的国家了。 另外,从之后的邪马台国的记载来看,汉朝(1—2世纪),从九州的系岛半岛到现在的博多,作为汉朝的驻外机关,担当着汉朝与倭人的贸易职能。这个驻外机关并非由倭国直接统治,而是作为倭国权贵的利益代表被间接统治着。 公元2世纪,汉朝的具体时间为188年,以黄巾之乱为始,进入三国时代。这之后,中国迎来了长期的战乱时代。对中国周围的各个国家造成了巨大的影响。特别是加速了周边诸国的国家形成,而朝鲜半岛以乐浪郡、带方郡作为汉朝的驻外机关正在逐渐衰退。 (注意)汉武帝在公元前108年,在现今的吉林省和朝鲜半岛设置了4郡。朝鲜半岛被设置有乐浪郡和带方郡。公元313年,乐浪郡和带方郡被高句丽消灭。 汉朝时代,虽然以乐浪郡和带方郡为代表支配了朝鲜半岛大半的土地,但是在另一边的南朝鲜的土地上,依然存在着同一民族所建立的国家:马韩、牟韩、辰韩。 (注意)在汉朝支配朝鲜半岛以前,朝鲜半岛是由从中国逃亡的政权:基氏朝鲜和卫氏朝鲜所支配。这就是所谓的古朝鲜时代。 这一时期的中国历史书《后汉书》里,把朝鲜半岛的马韩、牟韩、辰韩,都以「韩」为称谓记载。与倭相关的记录,并非是倭国,而是以「倭人」 (公元57年)为代表记录。记载中表明倭在这个时期,还没有形成国家体系。 (注意)之后的中国历史书,把倭记载为「倭之邪马台国」(公元238年) 、「倭国」(公元410年) 、「日本」(公元702年) 等等。这些记载标志着倭作为国家被中国承认的过程。 之后,在中国的魏、吴、蜀三国时代,朝鲜半岛的北部到中部被高句丽占据,南部的马韩、牟韩、辰韩的土地上相继诞生百济(最初被称为扶余)、新罗、伽耶 。紧接着这些国家和中国同样,迎来了战国时代。朝鲜半岛的高句丽、百济、新罗三国时代的战乱,从公元3世纪至公元7世纪的400年间一直持续着,对同一时期的日本造成了巨大的影响。 (注意)现今的中国吉林省东部是扶余国的发源地。笔者在1996年访问吉林时,在当地地图中发现,吉林省东部一带有地方被标注为「扶余」 。另外,当地的吉林油田,即使在现在也有人称之为扶余油田。 (注意)另外,12世纪出现的《三国史记》,是在1145年完成著作,对朝鲜三国时代(新罗、高句丽、百济)至新罗末期为对象所记载的历史书。该书是朝鲜半岛现存的最古老的历史书。 ,.邪馬台国と大和政権 黄巾の乱(西暦188年)が始まってまもなく、朝鮮半島は漢の朝鮮太守であった公孫衛が、朝鮮半島の北半分に勢力をのばしてきた。同時に魏の曹操とは同盟を結んだり敵対したりして、半島の南部に勢力を拡大していった。倭国では、これに対抗するため30余国が連合し「邪馬壹国」(邪馬台国)を設立し公孫氏に対抗した。 公孫氏(公孫度)が魏の司馬仲達によって滅ぼされた翌年(239年)、邪馬台国の卑弥呼は、漢の後継者とみられる「魏国」に使者を送っている。この時期、倭国連合国家?邪馬壹国(本拠地は九州か)は中国のよき下部(しもべ)であった。 (注意)「卑弥呼」というのは邪馬台国の統治者の個人名のように思われているが、最近の研究では「日巫女:ひみこ」あるいは「姫命:ひめみこと」という意味の一般名称ではないかという説が出ている。また、男王は「彦命:ひこみこと」と言われていた。 3世紀前半の朝鮮の人たちは、九州一帯まで進出し、武器や食料の調達先または亡命先としていた。 九州では銅や砂鉄が早くから産出していたことは、物部氏が3世紀ごろ青銅器を九州(今の大分県の宇佐八幡周辺)で生産していたことなどからも判る。また、佐賀県亀山の黒耀石なども貴重な物資として朝鮮に運び込まれた。 (注意)この時期、鉄の大産地は南朝鮮であった。金官国?伽耶国(あるいは加羅国)などが樹立されたところが鉄の産地であった。後世、倭国?百済?新羅は、この土地の奪い合いをしている。 九州は3世紀後半にかけて大きな変化をむかえた。270年,280年ごろ、呉の「孫皇帝」の一派が南九州に上陸し、狗奴国と同盟を結んだのである。その過程は不明であるが、あるいは、狗奴国が邪馬台国に対抗するために呉の王族あるいは将軍を呼び寄せたとも考えられる。 (注意)この時期266年には、邪馬台国の台与は晋に新皇帝の就任式に使節を送っている。その後、邪馬台国の消息は絶える。 その結果、邪馬台国と狗奴国の戦いが激しくなった。そして、邪馬台国は、女王の居場所を大和に移すことになった。邪馬台国と狗奴国の戦いは280年ごろまで続き、ついに狗奴国は、邪馬台国を滅ぼすことになる。この狗奴国の王が「崇神天皇」である。その後、崇神天皇は、朝鮮半島の征服に乗り出し、340年頃、任那を脚がかりに馬韓?弁韓?辰韓を統一した。 (注意)南朝鮮にあった馬韓?弁韓?辰韓は、朝鮮の歴史では、その後、これらの国は加羅国?金官国となったとしている。一方、日本側の歴史(日本書紀)では馬韓?弁韓?辰韓は「任那」になったと記されている。ただ、この時期の事を書いた朝鮮の歴史書「三国史記」は、故意に任那という名称を隠している。 話は遡るが,世紀後半(270年ごろ)には、九州の政権は(邪馬台国)、先の宗主国晋とは無縁になり、九州から大和に移った形跡がある。その場所は大和纏向で、この遺跡の成立年が,世紀半ば(後半との説もある)であることからして邪馬台国東遷説が出ている。また、邪馬台国は狗奴国と対立していたため、狗奴国からの脅威をさけるために大和に移ったとの説もある。 ,、,世紀から大和地方にも倭人を中心に部族国家が存在していたが、こちらは,世紀前半までは平穏な農耕社会をおくっていた。このことは、九州の青銅器のほとんどが武器であるのに、近畿地方では農耕祭器である銅鐸が多く発見されていることなどからも判る。 これらの勢力と,世紀後半に大和に移った邪馬台国とがどのように融合したのかは、いまのとこる不明であるが、唐古?鑓遺跡と纏向遺跡の距離を考えると、ほとんど問題なく邪馬台国の大和いりは行われたものと考えられる。 (注意)筆者は、神武天皇の東遷伝説は崇神天皇の大和入りが伝説化されたものと考えている。また、応神天皇の大和入りも同様な経緯で九州から大和に入っている。ただ、邪馬台国の大和入りについては、いまのとこ ろ不明である。 ,世紀に大和地方に大きな変化がおきた。東へ進んできた九州倭人(狗奴国)と近畿勢力(邪馬台国か)の対立である。しかし、この対立は武器と兵法に勝る九州勢力の勝利に終わった。破れた大和勢力(邪馬台国)は、長野の諏訪からさらに奥州の津軽へと逃れることになるが、このことが長スネ彦の伝説と考えられる。 「狗奴国の大和入り」の話は崇神天皇の大和入りの話と見られ、記?紀では崇神天皇の大和入りの話が神武天皇の話として出てくる。この時、近畿大和勢力は、大和、吉備、出雲の連合体で、いわゆる邪馬台国連合国家であった。そして、九州からの崇神勢力?狗奴国勢力が、これをうち破ったのである。 (注意)神武天皇と崇神天皇は同一人物との説がある。それによれば書記では大和入りするまでの崇神天皇の業績を「神武天皇」とし、その後の業績を崇神天皇としているという見方である。書記では神武天皇は大和入りまでは詳細に記載しているが、その後の事はほとんど書いていない。一方、崇神天皇は、天皇になるまでは記載がないが、天皇になってからは多くの業績が記載されている。このことから、神武?崇神天皇同一人物説が出ている。 大和地方に勢力をのばした狗奴国国家は、こうして今度は近畿地方を中心に勢力をのばすことになる。しかし、この時期の日本政治の中心は九州と近畿であり近畿地方に一元化された訳ではない。すなわち、九州には多くの部族国家が朝鮮勢力や近畿勢力下で活動していた。 崇神王朝の次に来る応神王朝の「倭の五王」が盛んに梁や宋に使者を送り、王位や官位を要求したのは,世紀である。このことから、当時の倭国が中国の冊封体制の中で形成されていったことが伺える。親中国政策は応神王朝の一貫した方針で、,世紀は中国の影響が強かった時代でもある。 2.邪马台国和大和政权 黄巾之乱(西历188年)开始不久,驻朝鲜半岛的汉朝太守公孙卫的势力范围延伸至朝鲜半岛北部的大半版图。同一时期,朝鲜半岛的南部势力扩张,与魏国曹操结盟,并与公孙卫敌对。倭国为了与公孙卫对抗,联合30多个国家,设立(邪马台国) 。 公孙氏(公孙度)被魏国司马仲达消灭的第二年(239年),邪马台国的卑弥呼,派遣使者到「魏国」 。这个时期,倭国联合国家——邪马台国(根据地在九州)是与中国交好的臣下国。 (注意)「卑弥呼」虽然被认为是邪马台国的统治者的名字,但近期的研究中,有观点认为是「日巫女」又或者是「姫命 」的意思。另外,男王被称为「彦命 」。 3世纪前叶的朝鲜人甚至来往于九州一带,筹集武器和食物,又或者逃亡至此。九州从很久以前就出产铜和铁砂矿,物部氏在3世纪左右就在九州(如今的大分县的宇佐八幡附近)生产青铜器。另外,佐贺县龟山的黑曜石,作为贵重物资被运往朝鲜。 (注意)这个时期,铁的大量产地在南朝鲜。金官国、伽耶国 (或者叫加罗国)等国家建立的地区,正是铁的产地。之后,倭国、百济、新罗,围绕着这片土地展开相互争夺。 九州在3世纪后半时期迎来了巨大的变化。公元270年——公元280年左右,吴国的「孙皇帝」 一脉登陆南九州,与狗奴国结盟。虽然其结盟过程至今成迷,但是可能因为狗奴国为了与邪马台国对抗,而请来了吴国的王族。 (注意)这个时期是公元266年,邪马台国的台与派遣使节出席晋朝新皇帝的就任典礼。这之后,邪马台国的相关记载就断绝了。 结果就是,邪马台国与狗奴国之间的战争白热化。然后,邪马台国把女王的居所迁往大和。邪马台国与狗奴国之 间的战争持续到公元280年,最终,狗奴国消灭了邪马台国。当时的狗奴国的王就是「崇神天皇」 。之后,崇神天皇积极进行朝鲜半岛的征服。公元340年,以任那为始,统一了马韩、牟韩、辰韩。 (注意)南朝鲜的马韩、牟韩、辰韩,在这之后,这些国家就变成了加罗国、金官国。另外,日本的历史《日本书纪》,把马韩、牟韩、辰韩记载为「任那」 。但是,这一时期的朝鲜历史书《三国史记》却故意把任那的称谓去掉。 历史回顾到3世纪后半时期(公元270年左右),九州的政权(邪马台国),从九州向大和转移。其政权转移的地点是大和缠向,有观点认为其遗址城建时期为3世纪中叶(也有观点认为是3世纪后叶),出自邪马台国东迁的说法。另外,还有说法是,因为邪马台国和狗奴国对立,为了躲避来自狗奴国的威胁,于是迁移至大和。 虽然从2、3世纪开始,大和地区存在倭人建立的部族国家,但是,直到3世纪前半时期,那里的人们都过着和平的农耕社会生活。因为出土的这一时期的九州的青铜器多半被制造为武器,而近畿地区的铜器则大多用作农耕祭器。 这些地方势力与3世纪后半向大和迁移的邪马台国,相互融合。根据唐古? 枪遗迹和缠向遗迹之间的距离考量,大体上可以如此认为。 (注意)笔者认为,神武天皇的东迁传说就是崇神天皇的大和迁移的传说。另外,应神天皇也是同样的缘由从九州向大和迁移。但是,邪马台国的大和迁移至今仍是迷。 公元4世纪,大和地区发生了巨大的变化。向东挺进的九州倭人(狗奴国)和近畿势力(邪马台国)成为敌对。但是,这种对立以凭借武器和兵法取胜的九州势力终结。败北的大和势力(邪马台国),甚至从长野的诹访逃至奥州的津轻,这段历史可以认为是出自長髄彦 的传说。 「狗奴国的大和迁移」可被看作崇神天皇的大和迁移,《古事记》和《日本书纪》中,崇神天皇的大和迁移是出自神武天皇。这个时期,近畿的大和势力是大和、吉备、出云的联合体系,即是邪马台联合国家。然后,这一联合体系被来自九州的崇神势力——狗奴国势力打破。 (注意)有观点认为神武天皇和崇神天皇是同一人。书纪中虽然对神武天皇大和迁移之前的事迹有详细记载,但之后就几乎毫无记载。另外,崇神天皇在成为天皇之前的事迹毫无记载,但成为天皇后的许多功绩都被记载下来了。所以,就有观点认为神武、崇神是同一人。 狗奴国的势力版图延伸至大和地区,紧接着延伸至近畿地区中心。但是,这个时期的日本政治并非是以九州和近畿地方势力为中心的一元化政治。也即是说,九州的大部分部族国家,在朝鲜势力和近畿势力之下活动。 崇神王朝之后的应神王朝的「倭之五王」,频繁地派遣使者出使梁和宋。谋求王位和官位是在公元5世纪。从此之后,当时的倭国在中国的册封体制中形成。亲中国政策是应神王朝的一贯方针,公元5世纪是中国影响的强大时代。 ,(蘇我氏による国体形成 ,世紀になると大和政権は、特に軍事面で朝鮮の勢力、全体としては百済の影響を受けることになる。これは応神王朝が百済出身ということで説明ができる。当時朝鮮半島では軍事力は高句羅がもっとも強く、ついで新羅、百済の順であった。百済はその分、日本の開発や日本への人材派遣を支援し、見返りとして大和政権からの軍事的支援を期待したのである。 ,世紀も半ばになると大和政権の中に大きな変化が起きる。継体天皇による応神王朝の政権継承は記紀では平 穏に行われたかのように書かれているが、朝鮮の三国史記には継体天皇およびその皇子たちの異常な死に方が記載されており、実際は任那勢力である欽明天皇による政権奪取という形であったという説も出ている。 継体天皇から欽明天皇への政権移譲に活躍したのが蘇我氏で、欽明天皇以降、蘇我氏が実質的な執政者となる。つまり、九州から移ってきた大和政権は、当初は九州の部族連合体の性格をそのまま受け継いでいたが、200年経過した,世紀半ばには権力の寡占化が起きていた。こうした中で残ったのが大伴氏、物部氏、蘇我氏などである。 これら勢力は、対立関係にあったが大伴氏と蘇我氏は欽明天皇の成立時に対立し、結果、蘇我氏が勢力を持つことになる。その後は物部氏と蘇我氏が対立することになり、書記では両者は仏教の導入(国教化)が引き金となり全面戦争となり蘇我氏が勝利したとしている。 (注意)吉田一彦氏、北条勝貴氏、大山誠一氏などは、これら物部氏と蘇我氏の仏教の導入対立は史実ではないと見ている。これらの対立は、当時の中国の仏教をめぐる情勢を記載したもので、必ずしも蘇我氏が崇仏、物部氏が廃仏という構造ではなかったと提唱している。つまり、書記の仏教伝来の記事はフィクションという主張である。 蘇我氏の政策には大きく,つあった。一つは仏教による国内の統一、他の一つは朝鮮への不介入である。そのため、倭国王を朝鮮系の人でなく倭人から選出する事が必要であった。こうして選出されたのが、日本で最初の女王?推古天皇である。金官国系(任那系)の欽明天皇の子であった敏達天皇の后であり、かつ蘇我氏一族であった推古天皇は蘇我氏にとって都合のよい人であった。 当時、中国に成立した大国?隋は、次の目標として朝鮮侵攻を目論んだ。この時期の朝鮮半島の大半は高句麗の領土であり、隋の矛先は高句麗に向けられた。このことが蘇我政権と高句麗とを結びつける大きな要因となる。つまり、高句麗の僧?恵慈の来日である。 恵慈の来日後、蘇我?推古天皇のブレインとして恵慈による日本の国体形成作業が始まる。当時、国体を整えるということは中国から国土と王の身分が保証されることであった。したがって中国への使節と中国からの派遣使の受け入れなどが重要なテーマとなった。 また、独立国として重要な制度が官僚機構(冠位十二階)であり、王の家系であり国史であった。このため、恵慈と馬子は十七条の憲法を中国の梁にならってつくり、国王の家系として「帝記」をつくり、国史として「国記」をつくった。 それまでは「倭国」と称されていたが、新しい国の名前として以前大和地方の部族が使用していた「ひのもと」の呼び名をとり「日本(にほん)」と称するようになった。これにより倭国でもなく、ヤマト国でもなく、まったく新しい「日本」という国の誕生になった。 (注意)恵慈は対隋の外交にために冠位十二階と十七条憲法を作っているが、真の目的は、隋と高句麗の対立に対して日本を高句麗側につけるという任務であった。 これにより日本を治めるのは朝鮮系豪族ではなく倭人系豪族である蘇我氏と位置づけたのである。蘇我氏自身朝鮮からの渡来人であるが、このころは朝鮮系豪族というよりは、倭人系豪族としての色彩が強かった。この時期の朝鮮系豪族とは、朝鮮三国(百済、新羅、伽耶)の皇族との意味合いであり、これら朝鮮系皇族は日本でも貴人として扱われている。 (注意)大山誠一氏などは、当時の大王は推古女帝でなく蘇我馬子と見ている。これは遣隋使の帰国に随行してきた裴世清の本国への報告内容などから、当時の倭国王は「男性」と解釈されるためで、これに該当するのが蘇我馬子と考えられるためである。 恵慈の政策が、すべて蘇我氏とくに蘇我馬子の政策と一致したわけではない。仏教の普及という基本路線では一致していたが、外交では隋と手を握りながらの国体を考えていた蘇我氏に対して高句麗支援の立場の恵慈とは違いがあった。 一方、欽明王朝の流れを汲む厩戸皇子(聖徳太子のモデルとなった人)の伽耶奪還のための新羅への軍事行動に対して蘇我馬子は,度も反対し計画をつぶしている。このことから蘇我氏は隋との外交樹立を希望はしているが、朝鮮半島の百済、新羅、高句麗などとの対立は望んでいなかったことが伺える。 (注意)厩戸皇子の朝鮮出兵計画は欽明王朝の悲願であった旧地?任那の回復であるが、蘇我氏は、そのための軍事行動に一貫して反対している。 冠位十二階は、家柄ではなくその人の努力により「位」が上がるという制度であり、朝鮮系皇族と言うだけで日本で高位高官を得ていた人たちにとっては不愉快な制度であった。当時、百済、新羅、高句麗の皇子は日本でもそれ相当の待遇を受けていた。特に、欽明王朝は、金官国(日本の呼び方は「任那」)の王室の流れで金官国からの亡命王族は日本でもそのまま王族であった。 冠位十二階ができた当時、蘇我馬子の家臣の何人かは位に付いたが、馬子はどこの位にも就いていない。このように設立当時の冠位十二階には大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)は冠位には就いていなかった。このことから、冠位十二階がどの程度実効性があったのかは疑問視されている。 こうした中、610年大きな出来事がおきた。それは隋帝国の滅亡である。隋と協力関係にあって日本の国体を構築しようとしていた蘇我馬子にとっては国内での立場を根底から覆すものであった。 (注意)隋が滅んだ直接的な原因は内紛であった。隋の二代皇帝?煬帝は高句麗を三度も攻めながら成果が上がらなかった。このことで隋帝国は求心力を失い内紛が起き滅亡した。つまり、高句麗が間接的にではあるが隋を滅ぼしたことになる。 隋滅亡後は朝鮮貴族の廃絶という構想が半ば挫折した蘇我氏は、方針を百済や高句羅との協調関係強化という方向に変更し日本の律令制度の確立に向けて準備を進めた。しかし、馬子の時代には律令制度は導入されることはなく、その意志は孫の「蘇我入鹿」によって推進されることになる。 隋滅亡後の中国は速やかに唐の時代へとはいる。唐の周辺諸国への対応は隋とは違い表面上の追随姿勢だけを保てば、諸国の権益は認めるという方針であった。しかし、この追唐姿勢すら拒否した国に対しては為政者の暗殺や毒殺をもってとり除き、その後に外交関係を築くというものであった。 また、唐外交の特徴は隋と良好関係にあった諸国の政権を取り除くこととでもあった。高句羅の場合は、前者、すなわち追随姿勢の徹底拒否により唐とは対立関係にあった。また、新羅は、唐との連合派のクーデター(,,,年)により、既存勢力を一掃し唐との連合を成し遂げている。 3.苏我氏时代,国体形成 公元6世纪的大和政权,特别是军事方面,受到百济的影响。这就能够说明应神王朝是百济出身。当时朝鲜半岛的军事实力,原本是高句丽最强,但最终新罗、百济相继强盛起来。在那个时期,为了日本的开发,百济向日本输送人才,作为回报,期待得到大和政权的军事支持。 公元6世纪中叶,大和政权发生了巨大的变化。虽然在《记纪》中,应神王朝的政权交替平稳地进行着,但是在朝鲜的《三国史记》里,却记载了继体天皇及其皇子们异常死亡。实际上有观点认为是因为任那势力的钦明天皇为了夺取政权。 从继体天皇到钦明天皇的政权转移中,表现活跃的就是苏我氏了。在钦明天皇之后,苏我氏实质性掌握政权。就是说,从九州转移的大和政权,虽然保留着当初九州部族联合体的性质,但经过了200年时间,在公元6世纪中叶,权力开始被垄断。其中还残留的势力就是大伴氏、物部氏、苏我氏等。 这些势力,相互之间关系对立,大伴氏和苏我氏是从钦明天皇掌权初期就开始对立,结果,苏我氏最终得势。之后,物部氏和苏我氏开始对立,在书记中,双方因为佛教的引进(国教化),而发展成为全面战争,最终苏我氏获得胜利。 (注意)吉田一彦、北条胜贵、大山诚一等人都认为物部氏和苏我氏因为佛教的引进产生对立并非史实。虽然有记载围绕当时中国的佛教引进问题,但未必就是因为苏我氏崇佛,物部氏废佛而产生对立的。也就是说,有主张认为书记里关于佛教传入引发纷争为虚构的。 苏我氏的政策分为2大部分。第一,依靠佛教,实现国内统一。第二,不介入朝鲜纷争。因此,倭国王不能由朝鲜裔人员参选,必须从倭人里选出。就这样,日本最初的女王——推古天皇被选出。推古天皇曾为金官国系(任那系)的钦明天皇的儿子敏达天皇的皇后,对于苏我氏来说,也是十分理想的人选。 当时,在中国建立的大国隋朝,下一个目标就是进攻朝鲜。这个时期,朝鲜半岛的大半领土都被高句丽占据,于是隋朝的矛头就直指高句丽。这正是苏我政权和高句丽结盟的主要原因。也即是高句丽的和尚惠慈造访日本的契机。 惠慈到日本后,作为苏我——推古天皇的智囊,开始筹谋建立日本的国家体制。在当时,要建国必须得到来自中国的关于王的身份的认可。遵从派往中国的使节和接受来自中国的派遣使的要求,都是非常重要的。 另外,作为独立国家,要拥有官僚机构(冠位十二阶),王的家谱以及国史。因此,惠慈和马子学习南朝梁,制定十七条宪法,制作国王的家谱「帝记」,制作国史 「国记」 。 虽然以前被称为「倭国」 ,但是新的国名根据以前大和地区的部族所使用的「日の 本」的名称,取名为 「日本」。因此,既不是倭国,也不是大和国,而是以完全崭新的名称 「日本」 命名的国家,就此诞生了。 (注意)惠慈虽然为了对隋朝的外交,而制定冠位十二阶和十七条宪法,但是,其真正的目的和任务,是为了让日本与隋朝对立,向高句丽靠拢。 因此,统治日本的不是朝鲜裔权贵,而是倭人权贵苏我氏上位。虽然苏我氏本身是从朝鲜过来的,但是比起朝鲜裔权贵,其人更倾向于倭人权贵。这个时期的朝鲜裔权贵,和朝鲜三国(百济、新罗、伽耶 )的皇族有渊源,这些朝鲜皇族在日本也被当作贵人对待。 (注意)大山诚一等人认为,当时的王并非是女皇帝推古,而是苏我马子。根据遣隋使的随从裴世清回国后的汇报内容,当时的倭国王是男性这一点,符合的人物只有苏我马子。 惠慈的政策,并非完全与苏我氏,特别是苏我马子的政策一致。虽然佛教的普及这一基本路线一致,但是外交方面,苏我氏与隋朝交好的国家体制和支援高句丽的惠慈的立场不同。 另一方面,继承钦明王朝血统的厩户皇子(圣德太子),为了夺回伽耶 ,向新罗采取军事行动的,被苏我马子两次反对而夭折。这之后,虽然苏我氏渴望与隋朝建立友好的外交关系,但是,也并不希望与朝鲜半岛的百济、新罗、高句丽等国家对立。 (注意)虽然厩户皇子的朝鲜派兵计划是钦明王朝的最后悲愿,但是遭到苏我氏的彻底反对。 冠位十二阶,是一种无论出身门第,依据个人努力贡献而获得官位的制度。以前只要是朝鲜皇族,就能在日本谋得高位,成为高官。这种制度的出现,引起了朝鲜裔权贵的不满。当时,百济、新罗、高句丽的皇子们在日本也受到相当好的待遇。特别是在钦明王朝,即使是从金官国(被日本称为「任那」 )的流亡王族,在日本也受到同等王族地位的优待。 冠位十二阶实行当时,苏我马子的家臣有几人已获得官位,但是马子却并未就职任何官位。这种当时设立的冠位十二阶中,大臣和大连等高官位却并没有被包含进去。之后,冠位十二阶的实效性让人产生了怀疑。 就这样,在公元610年时,发生了大事件。那就是隋帝国的灭亡。希望与隋朝建立合作关系,作为日本的国家体制的苏我马子,在日本国内的立场被彻底推翻。 (注意)隋朝覆灭的直接原因是因为国内内乱。隋朝的二代皇帝——隋炀帝三次攻打高句丽,却并未取得成果。这种情况导致隋帝国失去向心力,国内内乱产生,最终亡国。也就是说,高句丽是隋朝灭亡的间接原因。 本想一举废除朝鲜贵族优待政策的苏我氏,在隋朝覆灭后,这个计划也半途夭折。于是执政方针转为强化与百济,高句丽的合作关系,为了日本的律令制度的建立作准备。但是,马子时代的律令制度并非从外国引进,而是以苏我入鹿的意志为推动力。 隋朝灭亡后,中国迅速进入唐朝时代。唐朝对周边国家的政策与隋朝不同,只要在表面上臣服,其国家的权益就会被承认。但是,连表面臣服都拒绝的国家,就会采取对其执政者的暗杀和毒杀。 另外,唐朝外交的特点是清除与隋朝关系良好的国家的政权。高句丽的立场属于前者,也就是说,彻底否决追随唐朝,站在与唐朝的对立面。另外,新罗的国内,主张与唐朝的联合派发动兵变(公元642年),把旧势力清除干净,完成与唐朝的联合。 ,.大化改新と朝鮮半島情勢 この時期の蘇我氏の方針は中国からの「後押しなし」での律令制度の導入であった。この路線に対し不満を持っていたのが、一部の皇族や豪族たちで、これに加担したのが百済系豪族の中大兄の皇子、宗教勢力であった中臣氏である。 いわゆる大化の改新(乙巳の変)である。 この時期、この種のクーデターは百済、新羅にも起きている。特に、新羅のクーデターの方法は大化の改新と酷似している。これは新羅内の勢力が、中国との連合派と非連合派との対決と言う形でおきたが、連合派が王の座前で反対派の頭目を殺害するという方法で、大化の改新と同じパターンを取っている。 (注意)新羅のクーデターは642年に起きている。大化の改新の,年前である。また、最近の研究から、大化の改新に中臣鎌足は関与していなかったという説、大化の改新そのものが日本書紀に書かれているようなものではなかったという説がある。 最近では大化の改新の筋書きは皇極女帝の弟である軽皇子(孝徳天皇)によって筋書きされ、中大兄皇子らが実行したものと考えられている。また、蘇我入鹿の殺害、そして、父である蘇我蝦夷の自殺と意外にも短期間で、クーデター(大化の改新)が終了したのも多くの豪族が軽皇子に加担したためである。 蘇我氏の滅亡、これは日本の律令制度導入が挫折したことでもあるし、経緯からして日本が再びものと制度(氏姓制度)に戻るということでもある。しかし、軽皇子や中大兄皇子にしてみれば、蘇我氏の律令制度への布石や国威発揚の諸制度は無駄なものではなく、これらの多くは次の政権に引き継がれている。 大化の改新(乙巳の変)後、天皇になったのは首謀者の軽皇子である(後の孝徳天皇)。孝徳天皇や中大兄皇子の方針は高句麗?百済?日本の連合であった。一方、朝鮮半島では唐?新羅が連合し高句麗?百済の領土を狙っていた。 こうした時期に新羅の皇子「金春秋」が金多寿をともなって来日し、日本?唐?新羅の連合の画策したと見られている。しかし何の成果もなく,ヶ月後に金春秋たちは帰国している。書記は金春秋の来日の目的は記載せず、彼らの来日の事実のみを記載している。 (注意)金春秋は後の新羅の武烈王で、自ら日本や唐などを訪問している。また、高句麗にも訪問したが捕縛され、新羅は,万の兵をむけて金春秋を奪還している。武烈王は660年に百済を滅ぼすが、翌年の661年に死亡、その後、文武王(ぶんぶおう、武烈王の長男、第30代新羅王、在位は661年から681年)が高句麗を倒して「統一新羅」を建国している。 大化の改新後の政治の実権は、孝徳天皇から中大兄皇子に移り、高句麗?百済?日本という背景のもとで政治 をしていた孝徳天皇は政権維持が年々むずかしくなった。ついにはさきの皇極女帝や中大兄皇子は、孝徳天皇を難波京に置き去りにする形で飛鳥板蓋宮に引き上げてしまう。そして一年後、孝徳天皇は在位,年にして病死している。 こうしている内に朝鮮半島に異変が起きた。先に唐と連合関係にあった新羅が百済と戦い、新羅は決定的な勝利をおさめたのである。これにより百済王は死ぬが百済の将軍達は九州にいた余豊璋を百済の王に迎え再度新羅との決戦に臨んだ。 余豊璋は百済の王子で中大兄皇子とは何らかの血縁関係があったものと考えられている。最も考えられるのは斉明女帝の異父同母兄弟ではなかったかとい説である。つまり余豊璋は当時の斉明天皇の子で中大兄皇子とは兄弟という見方である。一方、余豊璋は中大兄皇子、そのものであったという説もある。 考えてみれば、中大兄皇子は不思議な呼び名である。当時皇子の名は母方の出身地の名か、母方の姓をつけるのが普通である。中大兄皇子も葛城皇子という大和葛城の出身らしき名は持っている。しかし、どういうわけか、書記では「中大兄皇子」(次男坊皇子の意)という名で記載されている。これは中大兄皇子を葛城皇子と呼ぶことができない理由があったためと考えられる。その理由が何であるかは、今のところ不明である。 662年、余豊璋が百済に入り新羅と戦いをするが、戦局はうまくゆかず大和朝廷に援軍をたのむことになる。つまり母親に援軍を乞うことになったのである。これに対し斉明天皇は2万5,000人の軍隊を送っているが、この軍隊が朝鮮についたときはすでに余豊璋の百済軍は破れていた。 日本軍は翌663年に白村江で唐?新羅連合軍と交戦するが軍略的なまずさもあって敗退し、多くの日本兵が新羅の捕虜となっている。このとき余豊璋は高句麗に逃げたと書紀や朝鮮の三国史記には書いてある。しかし、これは疑わしく九州で育った余豊璋は九州に帰ったと考えるのが自然であろう。 日本書紀では、このころから大海人皇子が登場して活躍するのであるが、大海人皇子は書紀では中大兄皇子の弟という設定になっている。しかし、出生や年齢は判らなくしてあり、一説には中大兄皇子より年長との説もある。 (注意)書記に出てくる天皇で年齢が「分からない」というのは天武天皇(大海人皇子)だけで、他の天皇については、真偽は別にしても年齢は記載されている。書記は天武天皇の発案により作成された正史で作成開始より30年後(720年)に完成している。発案者の年齢が不詳というのは、どう見ても故意に隠しているとしか思えない。 百済滅亡後、日本においては新羅系、中国系が勢力をもつようになり、そのため唐や新羅と敵対した天智天皇(中大兄皇子)政権は弱体化してゆくことになる。このころ天智天皇(中大兄皇子)は妃である大友氏(大伴氏と同族)の本拠地?大津に都(近江京)を移している。 (注意)大津の近江京跡を訪ねると、その御所跡は低い山間にあり奈良盆地のように開けた平野部にある都跡とはかなりおもむきが違う。一見して近江京がいかに「防衛的御所」という意味であったかが分かる。 朝鮮における唐と新羅の連合軍は、百済の次に高句麗を攻め滅ぼした。これにて朝鮮半島での争乱は収束するかに見えたが、その後しだいに新羅と唐との間で朝鮮半島の支配権をめぐって内紛が起きてきた。そのため、日本をどちらが取り込むかということで、唐、新羅、日本との間で外交合戦が始まった。 4.大化改新和朝鲜半岛局势 这个时期的苏我氏的方针是从中国引进律令制度。虽然遭到一部分皇族和权贵的不满,但参与其中的有百济裔权贵中大兄皇子,宗教势力中臣氏。这就是所谓的大化改新(乙巳之変)。 这个时期,这种变革也在百济和新罗发生。特别是,新罗的兵变与大化改新非常相似。新罗内部两股势力,与中国的联合派和非联合派的对决,联合派在王的面前杀死反对派头目,取得和大化改新相同的目的。 (注意)新罗的兵变发生在公元642年。是在大化改新的3年前。近期的研究,有观点认为大化改新并没有中臣镰足的参与,大化改新并不是日本书纪所记载的那样。 最近,有观点认为大化改新的设想是出自皇极女帝的弟弟轻皇子(孝德天皇),由中大兄皇子实施。另外,苏我入鹿的被杀,之后其父苏我虾夷的自杀,终结了大化改新。 苏我氏的灭亡,象征着日本的律令制度引进失败,日本重新回到氏姓制度。但是,从轻皇子和中大兄皇子的作为来看,苏我氏的律令制度的准备和振奋国威的一系列制度并非无用,这些大部分都被下一任政权所继承了。 大化改新(乙巳之変)后,成为天皇的是主谋者轻皇子(后来的孝德天皇)。孝德天皇和中大兄皇子的方针都是让高句丽、百济、日本联合。另一方面,在朝鲜半岛,唐朝和新罗的联合军,目标直指高句丽,百济的领土。 就在这个时期,新罗的皇子「金春秋」,在金多寿的陪伴下访日,谋划日本、唐朝、新罗的联合计划。但是没有取得任何成果,9个月后,金春秋一行人回国了。书记中没有记载金春秋访日的目的,只是记载了他们访日的这一事实。 (注意)金春秋就是之后新罗的武烈王,他亲自访问日本和唐朝。另外,他还去高句丽访问,结果被捕,新罗出动了1万人的军队将其夺回。武烈王在公元660年,消灭了百济,但是第二年,公元661年武烈王逝世。之后,文武王继位(武烈王的长子,第30代新罗王,在位时间公元661年——公元681年),文武王打败了高句丽,建立了统一的新罗国。 大化改新后的政治实权,由孝德天皇向中大兄皇子转移。在高句丽、百济、日本的背景下施政的孝德天皇,其政权维持愈发困难了。最终前皇极女帝和中大兄皇子把孝德天皇遗弃在难波京,并且在飞鸟板盖宫复位。之后过了一年,孝德天皇在位9年,病死告终。这时,朝鲜半岛局势发生异变。先前与唐朝联合的新罗,和百济爆发战争,新罗获得最终决定性的胜利。然后,百济王死亡,百济的将军们迎接身在九州的余丰璋成为百济的新王,再度面临与新罗的决战。 余丰璋身为百济的王子,有观点认为,他与中大兄皇子有某种血缘关系。合理的解释是,有可能他是齐明女帝的同父异母的兄弟。也就是说,余丰璋有可能是齐明天皇的儿子,中大兄皇子的兄弟。甚至还有观点认为,余丰璋就是中大兄皇子。 仔细思考的话,就会发现中大兄皇子,其名本身就很怪异。当时皇子的名字,普遍用母亲的出身地命名,或者以母亲的姓氏命名。中大兄皇子在大和葛城出身,应该取个像葛城皇子这种名字。但是书记中记载,中大兄皇子的名字,有次男坊皇子之意。这就被认为中大兄皇子不能被称呼为葛城皇子的理由。到底真实原因为何,现在仍是迷。 公元662年,余丰璋回到百济并与新罗开战,战局不利,于是向大和朝廷请求援军。也既是向自己的母亲求援。虽然齐明天皇派出了2万5000人的军队支援,但援军到朝鲜时,余丰璋的百济军已经被完全击溃了。 日本军在次年公元663年,在白村江与唐朝和新罗联军交战,在谋略上败退,许多日本兵被新罗俘虏。在《书纪》和朝鲜的《三国史记》中都有记载,这时的余丰璋逃到高句丽。但是,令人疑惑的是,如果余丰璋真的生长在九州的话,应该回到九州才对啊。 根据日本书纪,之后登上历史舞台,并且活跃表现的是大海人皇子。但是,大海人皇子在书纪中,被设定为中大兄皇子的弟弟。但是因为大海人皇子的出生和年龄不详,还有观点认为他比中大兄皇子年长。 (注意)在书纪中,天皇年龄成迷的只有天武天皇(大海人皇子),其他的天皇的相关记载真伪暂且不论,但是所有人的年龄都记载了。书纪中记载天武天皇是提议编写正史的人,从开始编写到完成正史,历经30年(公元720年)。提议者的年龄不祥,无论怎样想,都感觉是被人故意隐瞒。 百济灭亡后,在日本的新罗裔权贵和中国裔权贵势力增长。因此,与唐朝和新罗敌对的天智天皇(中大兄皇子)的政权逐渐被弱化。这时,天智天皇(中大兄皇子)向其皇妃大友氏(和大伴氏同族)的所在地,大津迁都。 (注意)去参观大津的近江京遗址的话,就会发现,其皇宫遗址建在很低的山中,和在奈良盆地那种平原上建造的都城截然不同。一看便知近江京是个怎样的「防卫性皇宫」了。 唐朝和新罗联军,消灭百济后,接着就覆灭了高句丽。虽然朝鲜半岛的战乱看似结束了,但是,之后围绕朝鲜半岛的支配权,新罗和唐朝发生了内讧。正因如此,双方为了拉拢日本,开始了唐朝、新罗、日本之间的外交战。 ,(壬申の乱と律令制度の確立 天智天皇は、唐から二度にわたり太宰府に使者が来て、日本が唐に味方し新羅討伐に参加するように催促された。天智天皇にとって唐は百済を滅ぼした敵国ではあったが、当時の日本は親新羅派の大海人皇子が勢力を持ちつつあり、天智天皇一人では日本の方向を決められない状態であった。 しかし、天智天皇の最終的な決断は「唐とともに新羅と戦う」というものであった。これに関する確実な史料はないが、これ以降から壬申の乱までの経緯からして天智天皇の唐支援という判断があったことが伺える。そのため親新羅派の大海人皇子は朝鮮半島擁護のため天智天皇政権打倒を決意するのである。これは大海人皇子の決断というよりは日本に居住する新羅?百済?高句麗などの渡来系の人たちの意志と言った方がよい。 大海人皇子側の戦闘目標は天智天皇が唐に返事をする前に天智政権を倒すことにあった。そのことは京都山科で天智天皇の殺害という形で現れている。このことが「壬申の乱」の勃発となったと筆者は考えている。 (注意)書記では天智天皇病死となっているが、三井寺には天智天皇の誘拐殺害伝承、山科の天智天皇御陵には同天皇の靴を埋葬したという伝承、京都と奈良の中間に位置する地には「王子墓」と言われる天智天皇の墓所伝承などがある。これらのことが天智天皇殺害説の根拠となっている。 天智天皇死亡後、息子大友皇子は直ちに即位して天智天皇の政策を継承した。大友皇子としては天智天皇を殺害した大海人皇子軍を放置しておくわけにはゆかず、大海人皇子側としても目的は朝鮮出兵の阻止であるから、大友皇子が天智天皇の政策を継承する限り戦いは避けられるものではなかった。 (注意)大友皇子は書紀では天皇になっていないが、明治になり天皇として認められた。これが39代弘文天皇である。その曾孫が淡海三船で天皇諡号を作成した人物として知られている。 壬申の乱は,カ月ほどで終わるが、結末は東国、美濃、大和の豪族から多くの支持を得た大海人皇子の勝利となり、大友皇子は自害し政権は崩壊した。その後、日本の執政者となった大海人皇子は「天武天皇」となり親唐?親新羅政策(いわゆる両面外交)を柱として政権を運営した。 (注意)天武朝は代々親新羅ではあったが、新羅国を日本より格下に見る態度をとっている。唐における日本と新羅の使者(遣唐使)が同席したときでも、日本の序列は新羅より上位にあった。 唐と天武政権の関係は朝鮮侵攻を第一とする唐にとっては天武政権と手を握ることが当面の方針であり敵対することはできるだけさける方向であった。天武政権もこの状況を踏まえ対唐敵視政策ではなく表面的には親唐政策を取っている。同時に、この時期日本は律令制度を本格的に導入し国体の強化を図っている。 (注意)律令制度の導入は天武天皇の時でなく、その妃であった持統天皇のときに確立したと見られている。しかし、日本の律令制度は唐を手本とはしているが、当初より実際の執政権は天皇でなく太政官(当初は左大臣、右大臣、大納言など,(,人)となっていた。 律令制度は大化の改新の時に始まると言われているが、最近では「改新の詔」は、後世のでっち上げだという 説がある。「新説日本の歴史」では、律令制度の導入構想は蘇我馬子によって作られたと考えている。そのため日本の豪族たちは律令制度による「領土の国有化」に反発し、反蘇我氏(馬子、蝦夷、入鹿)として結束し大化の改新(乙巳の変)を起こしたのである。 本心は反唐勢力として誕生した天武天皇政権であるが、唐の軍事力のもとに心ならずも親唐政策を取らなければならなかった。この事態に新羅は驚き、これまで反唐一辺倒であった新羅が問題を外交的手段で解決しようと動き始めた。すなわち、唐に対しては臣下の礼をとり(冊封体制にはいること)、日本に対しては任那からの使者を復活させたのである。 これにより唐?新羅?天武政権の関係は安定を見ることになるが、日本はその後長く防人制度が存続し、多くの農民が過大の負担を負うことになった。こうして日本、新羅、唐の関係は、安定した中で平安時代の末期である西暦900年まで続くことになる。 (注意)そもそも防人の仮想敵国は表面的には新羅であり唐ではない。当時九州地方には多くの朝鮮系移民が住んでいたため、天武朝は防人の要員を東国(関東地方)から集める必要があった。 894年に遣唐使長官を任命された菅原道真は、衰退した唐の動向をいち早く察知し唐への服従を意味する「遣唐使の廃止」を提案した。このことは西暦670年,西暦900年の間、日本が唐の支配から脱却し、自立した国家となったことを意味している。 (注意)遣唐使の廃止後、菅原道真は政争に敗れ九州の大宰府で,年後に死ぬが、菅原道真の死から,年後、西暦907年に唐は滅びることになる。 天武天皇から平安時代の末期まで、日本は「遣唐使」という形ではあるが、唐への服従を強いられていた。しかし、その後に現れた「武士政権」は、中国や朝鮮半島とは無縁の政権で見方によっては真の「日本人政権」と言える。こうして見ると朝鮮や中国を気にしないで、日本人のために作られた政権は「鎌倉幕府」が最初とも言える。 5.壬申之乱和律令制度的确立 天智天皇时期,唐朝两次派遣使者来到太宰府,催促日本与唐朝结盟,讨伐新罗。在天智天皇眼中,唐朝是覆灭百济的敌国,当时的亲新罗派的大海人皇子势力不断增长,天智天皇一个人无法决定日本未来的方向。 但是,天智天皇最终的决定是「与唐朝一起讨伐新罗」。虽然没有与这个相关的史料,但是后来壬申之乱的缘由,以及天智天皇支援唐朝,从这些点就不难看出。因此,亲新罗派的大海人皇子,决议拥护朝鲜半岛,推翻天智天皇政权。在这里,与其说是大海人皇子的决定,不如说是外来日本定居的新罗、百济、高句丽等国的权贵们的意志更为妥当。 大海人皇子派系的目标是在天智天皇回应唐朝以前,就推翻天智政权。因此才会出现天智天皇在京都山科遇害的事件。笔者认为,这就是爆发「壬申之乱」的导火线。 (注意)虽然在书纪中,记载天智天皇是病死的,但是有传说讲天智天皇在三井寺被绑架杀害;山科的天智天皇陵墓里埋葬的是天智天皇的鞋子而已;京都和奈良之间的「王子墓」,被认为是天智天皇的皇陵所在。这些都成为天智天皇被杀论的依据。 天智天皇死后,其子大友皇子继位,继承了天智天皇的政策。对大友皇子来说,不可能放任杀害父亲天智天皇的大海人皇子军;而大海人皇子派系的目的则是阻止出兵朝鲜。继承了天智天皇政策的大友皇子来说,这场战争是不可避免的。 (注意)在书纪里,大友皇子并不是天皇,但在明治时代,被承认为天皇。大友皇子正是第39代弘文天皇。其曾孙淡海三船,因为制作天皇谥号而被人熟知。 壬申之乱一个月左右就结束了,结果是得到东国、美浓、大和的权贵们支持的大海人皇子获得胜利,而大友皇子自杀,其政权倒塌。之后,日本的执政者就变为大海人皇子(天武天皇),其政策运营主要是以亲唐和亲新罗的两面外交政策为主体。 (注意)虽然天武朝代代都是亲新罗派,但是新罗比起日本,等级相对较低。从新罗和日本的遣唐使在唐朝同席而坐时,日本使者的位置在新罗之上,就能看出。 对于唐朝来说,进攻朝鲜是首要,因此当前的方针尽可能与天武政权交好,避免与其敌对。天武政权也立足于这种形势,对唐朝的政策并非敌视,而是表面上采取亲唐政策。同时,这个时期,日本打算引入律令制度,谋求强化国家体制。 (注意)有观点认为,律令制度并非在天武天皇时期引入的,而是其妃持统天皇在位时期确立的。但是,日本的律令制度是以唐朝为范本,和以前相比,实际执政者并非是天皇,而是太政官。(最初是左大臣、右大臣、大纳言等5,6人) 虽然律令制度被认为是大化改新时开始的,但是有观点认为,「改新之诏」是后人捏造的。「新说日本的历史」认为,律令制度的引进,是苏我马子的构想。因此,日本的权贵们反对律令制度里的「领土国有化」,反苏我氏(马子、虾夷、入鹿),终结了大化改新(乙巳之变)。 虽然诞生的天武天皇政权的初心是反唐朝,但是在唐朝强大的军事压力下,不得不采取亲唐政策。对于事态的发展,新罗感到震惊,之前反唐一边倒的新罗,马上开始谋求外交解决问题。也既是说,对于唐朝来讲,恢复唐朝对臣下国的册封体制,对于日本来讲,重新恢复唐朝从任那派遣使者到日本。 虽然唐朝、新罗、天武政权之间的关系,看似安定下来了,但是日本在之后长久的岁月里,一直持续着防人制度,给大部分农民过大地加重了负担。就这样,日本、新罗、唐朝的关系在安定中维持着,一直持续到平安时代末期,也就是西历900年。 (注意)原本防人的假想敌国是新罗和唐朝。当时九州地区有很多朝鲜移民居住,所以天武朝的防人的人员有必要从东国(关东地区)集结。 公元894年,被任命为遣唐使长官的菅原道真,察觉到唐朝衰弱的迹象,于是迅速地提出「废除遣唐使」的建议。这段历史时期是西历670年——西历900年,日本摆脱了唐朝的支配,象征着日本成为一个独立自主的国家。 (注意)遣唐使废除后,菅原道真在政治斗争中失败,2年后在九州大宰府去世。菅原道真死后4年,西历907年,唐朝灭亡。 从天武天皇时期到平安时代末期,日本都有「遣唐使」,对唐朝绝对服从。但是,之后出现的「武士政权」,采取不与中国和朝鲜相关联的政见,被认为是真正的「日本人政权」。这样看来,不再关注朝鲜和中国,为了日本人而建立的政权,正是最初的「镰仓幕府」。
/
本文档为【日本历史日文版第一部】,请使用软件OFFICE或WPS软件打开。作品中的文字与图均可以修改和编辑, 图片更改请在作品中右键图片并更换,文字修改请直接点击文字进行修改,也可以新增和删除文档中的内容。
[版权声明] 本站所有资料为用户分享产生,若发现您的权利被侵害,请联系客服邮件isharekefu@iask.cn,我们尽快处理。 本作品所展示的图片、画像、字体、音乐的版权可能需版权方额外授权,请谨慎使用。 网站提供的党政主题相关内容(国旗、国徽、党徽..)目的在于配合国家政策宣传,仅限个人学习分享使用,禁止用于任何广告和商用目的。

历史搜索

    清空历史搜索